3―8 愚行権②
「えー、1859年ジョン・スチュアート・ミルが説いた『自由論』についてだが、ここでは愚行権と他者危害の原則について説明する。えー、まず愚行権についてだが、愚行権とはたとえ他人から『愚かでつむじ曲りの過ちだ』と判断される行為であっても、個人の領域に関する限り、誰にも邪魔されない自由権のことである。これは功利主義と個人の自由に関する論考のなかで提示された概念であり、自由を構成する原則としての『他者危害の原則』、すなわち他人から見て賢明であるとか正しいからと言って、何かを強制することは正当ではありえない、の原則から導き出される一つの帰結としての自由として提示されたものである。つまりは生命や身体など自分の所有に帰するものは、他者への危害を引き起こさない限りで、たとえその決定の内容が理性的に見て愚行と見なされようとも、対応能力をもつ成人の自己決定に委ねられるべきだということだ」
先生が長々と話している中、その内容を冷静に聞ける状況ではないが、とりあえず怒りを鎮めて、愚行権について考える。愚行権の代表的な例を挙げるならば煙草を吸うことだろう。煙草を吸うのは健康に悪いことであるが、分かったうえで吸うからこそ、大人の特権たる、愚行権の行使ではないかと。だが、中毒性があること、他人の迷惑になることから考えて愚行権として正当化できない面もあるだろう。
では自殺はどうだろうか。完全に自由意志に基づく自殺というものがあり得れば、認めてもいいのではないか。成人としての判断能力、自身の肉体であるという所有権、仮に自殺が愚かな行為であっても、他者危害とならない限り、自己決定権の範疇だ。本人が冷静な判断力を持ち、他に選択権がある中で意志と願望により死を選択し、積極的に死を望むならば社会はその要求に応えざるを得ないだろう。
「じゃあ先生―、例えば、楽しく毎日を過ごしていた人間が、ある日、何かの気まぐれで『何となく死んじゃおっかなぁー』って言い出した場合、その願いを叶えるのは正しいんですかぁ~?」
「ああ、強い自由主義の中ではそういった意見は肯定される。殺さなくてもいいし、殺してもいい。自由にしたまえが答えだ」
質問した生徒は内心、驚いているはずだが口には出さなかった。まあ、普通に考えれば無意味に死のうとしている人間を止めるのが人として正しい行為なのだろう。
「まあ、付け加えると『殺してもいい』という過激な言葉に惑わされて、自由主義の本質を見失うなってことだ。殺人の是非を問われると、どうしても感情的に結論を出してしまいがちだが、実のところ論点はそこじゃないんだ。自由主義における真の論点は、『愚行権の是非』つまり『人間には自分の意志で不幸になる自由があるか?』ということだ。もちろん、強い自由主義は『ある』と考える。ここが他の主義とは明確に違う点であり、かつ君たちが自由主義を受け入れられるかどうかを決める重要な分岐点となる。無意味な自殺や自傷行為も含めて、ぜひこの論点を考えてみてくれ」
不幸になる自由……愚行権。自分にはよく分からないし、どうでもいいことだ。死にたい奴は勝手に死ねばいいし、目の前で飛び降りようとする奴がいても止める気なんてさらさらない。だが、まあ、世の中にはマゾと呼ばれる、叩かれたり痛めつけられたりするのが好きな奴もいる。俺はそれらの行為を端的に愚かな行為だとは思わないが、傍から見れば愚かだし、やるべきことではないと思う奴もいるだろう。だが、その行為を他人ができないように強制することは別問題だということだ。他人が好きでやっていることを俺の勝手な考えでやめさせるのは善くない。まあ、そう考えると好きで死ぬ奴なんていないとは思うが……。でもまあ、そうなると自殺は無意味だと考えるのは俺の勝手な判断であり、自殺志願者にとっては意味があるのかもしれないという結論になる。
「では誰かが刃物でどんなに自分の身体を切り刻もうと、気まぐれに高い崖から飛び降りようと、そんな行為は本人の自由であるとして許容しなければならないってことですか?」
「極端に考えるならば、正しさの価値観を押し付けて、その人の自由を奪うとしたら、それは悪だと規定されるだろう。言わば、自由主義とは幸福よりも人間の自由を絶対的な権利として尊重することを正しいとする立場なんだ」
幸福を重視する功利主義。みんなを幸福にするためには個人の自由を蔑ろにしてでも物事を強制させる。だから飢えた人のために満腹の人から食べ物を取り上げることも問題ないとする。対して自由を重視する自由主義は、誰がどう不幸になろうと個人の自由を奪うことは許さない。だからたとえ飢えてみなが死のうと個人の食べ物を勝手に奪って配ることは泥棒行為だとして問題視される。
全体の幸福を望むか、個人の自由を尊重させるか、二つの主義の分岐点は強制させるかしないかだろう。
だから何だって話だが、何を真面目に考えているのか。考えている、そうだ、心当たりがあったから考えてしまっている。あの時、「今夜はちょっと一人じゃ乗り越えられそうにないから」星宮がそう口にしたこともそういう類のことだった。俺を誘うための言葉だったかは置いといて、彼女が死にたいと言った時、俺は彼女を死なせることができるだろうか。
「……………………」
いくら考えたところで彼女はもういない。どうでもいいことにいつまでも頭を悩ませていても意味がない。それはこんな落書きごときで怒っていることにも当てはまるのだが、腹が立って仕方がない。今すぐこの教科書に落書きをした張本人を懲らしめないと気が済まないくらいだ。
「夜になったら覚えとけよ、ヘレナ」
昼休みになって、とりあえず校舎内を回る。星宮小夜の件もあるため校内をできる限り隈なく視たが、特に異変は感じられない。星宮小夜に潜んでいたミクトラン・テク―トリの残滓もないため、トイレに行くついでに鏡で赤くなっている眼を確認した。
「本当に赤いな」
目が充血していると言った表現では生ぬるい。まるで眼球に直接赤いインクを流し込んだかのように禍々しい。自分が宇宙人にでもなったかのような不思議な気分にさせられる。
だが現に俺の後ろを素通りした生徒を見るに周りは気付いていないようで、どうやら霊感が強い奴じゃないと認識できないんだろう。
一時間近くかけて校舎全体を視て回った。その間ずっと霊眼を開眼し続けていたため、午後の授業は勉強どころじゃなかった。椅子に座ったのは覚えているが、その後のことは何も覚えていない。目を覚ませば、授業はとっくに終わっていて、茜色の夕陽が差していた。教室には誰もいない。この様子だと呆れられてそのまま放置されたといったところか。教室にある時計は夕方五時四十分を差している。
まだ目蓋は重いし、少し気だるいが立っていられないほどではないのでとりあえず家に帰ることにした。
半覚醒のまま、思考を回す。
異変は学校では見かけられなかった。
だが異変はこの街にはある。
巷の連続通り魔事件も異変なことだが、それよりもさらに異変なことは空襲の被害で廃墟になった工業跡地で起こった悪霊の発生現象、それとは別件で起こっている神隠し現象、おそらくどちらも人ならざる者の仕業で間違いないはずだ。
「そういえば、沙月の奴、体調は戻ったかな」
沙月の体調不良は一日だけでは治らず、今朝は彼女の顔を見ていない。七羅によれば睡眠不足が原因とのことだったが、何が原因で睡眠障害になっているのか、帰ったら少し様子を見てみよう。




