3―5 ニオイ
沙月の部屋を出て、食堂に向かう途中、刀童美鈴が俺を見てひらひらと手を振った。殺意の波動もなく、ほんわかした表情でやってくる。稽古終わりだろう、黒い道着を身に纏った彼女は美しい黒い髪を後ろに結んで、肩にはタオルが掛けられていた。左手首には古くから魔除けの御守りとして重宝されてきたマラカイトのブレスレットを身に着けている。
「夜月くん、おはよー」
「ああ」
蒼い目が輝きだす。だが美鈴にはやはり殺意が感じられない。にこりと笑いながら言う。
「気が変わったね。君にとってそれが良いか悪いかは置いといて、私にとっては良いことかな」
「何のことだ」
「ふふっ、分かってるくせに。君から強い霊気を感じる。悪い方じゃなくて善い方のね。……でも自分が助かった代わりに大切な誰かが災難に遭うことになったら君はどうするんだろうね?」
「何の話だ」
「例えばの話だよ」
その時、美鈴の後ろから使用人らしき女性がやってきて彼女に耳打ちをする。
「うわぁ……ごめんね、夜月くん。私からこんなこと振っといてあれなんだけど、今からお客様の相談を訊かなきゃだから……この話はまた何処かで」
「……。お客様って誰だよ?」
「お客様はお客様だよ。……あれれぇ~、分からない? だって私、霊媒師だもん。相談者の悩みを聞いて解決させる。これも霊能力者の重要な業務の一つです! じゃあ、そういうことで、ばいばい~」
楽しそうに笑って、急ぎ足で客間の方へと向かっていった。騒がしい奴だが、刀童家の中で唯一話が通じる奴でもある。今度時間がある時にでもこの屋敷に貼り巡らされている霊符のことについて訊いてみるのもいいかもしれない。でもそうなると自分が霊力を感知できていることを暴露することになるが、まあ、あの感じだと見抜かれているんだろう。
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平日は昼食を食べないが今日は休日なので七羅に促される形で食堂に向かった。少し遅めの昼食を済ませた後も相変わらず眠くて仕方なかったが、ぐうたらしていたらまた七羅にとやかく言われそうなので家を出ることにした。
休日の午後三時。静寂な住宅街から市街地に移ると流石に人が多かった。だが、試すには持って来いのシチュエーションだろう。何の目的もなくぶらぶらと人混みの中を歩く。殺意を向けて視れば霊力がある者といない者バラバラだった。だが霊眼を開眼し続けることは思っていた以上に負担が大きかった。視覚情報が多く、目は疲れるし、情報を処理する脳にも負荷がかかる。それだけではなく匂いだ。体質的な変化で俺の鼻は過敏になっていた。
踏切で電車が通過するのを待っている時や街中を歩いていてふと誰かとすれ違った時……至る所で急に死臭っぽい甘いニオイがした。香水、洗剤、シャンプーとは違う、果物が熟れすぎて腐ったような甘いニオイ。この匂いは死期が近い年寄りの人間からよく香ってきた。そしてその甘いニオイの中に濃い煙草の煙みたいな強烈な臭いがする場合はおそらくガン細胞を持っている人間なんだろう。
街を散策して二時間。人が多くて人物を特定することはできないが半径十メートル以内であれば、死期が近い人間がどれだけいるのか感じることができるようになった。それは人だけではなく場所もそうであり、人が亡くなる場所である病院や墓地からも死臭は漂っていて、よりクリアによりリアルに感じた。それからさらに二時間、陽は沈んで街中にある時計は十九時を過ぎていた。
そろそろ帰らなくては七羅に怒られるなと思い、帰路に就こうとした時、今まで嗅いだニオイとは明らかに違う臭いがした。死臭よりもよくないニオイ。死臭よりも危険なニオイ。纏ってはいけないニオイ。思わず嘔吐してしまいそうなニオイ。まるで燃やしてはいけない化学物質を焦がしたような苦味があるニオイ。それでようやく判った。その厭な臭いを醸し出している正体こそ『悪霊』であることを。
俺は振り返った。
街中で感じた異質なニオイ。具体的なニオイの出処は何処か。集中力を高めて、視る。霊能的な力がある者なら絶対に突き止められるはずだ。
霊視。赤くなった眼の解像度が上がる。視えないモノが視えてくる。不愉快なニオイは色のついた靄となる。ゆらゆらと風に靡く黒い煙。人混みを掻い潜りながら辿る、辿る、辿る。辿っていくうちに人の目につかない工業地帯を歩いていた。灰色の空の下、やっぱり淀んでいる灰色の空気。ここはかつての空襲で廃墟になった工業地帯であり、立ち入り禁止区域。なぜ半世紀近くこのままの状態で閉鎖されていたのか、霧の中から目の前に立ち現れた不気味なソレを見て納得した。
到底だが、血の通った人間とは思えない。屍骸が息を吹き返したといった表現が正しいか。そうだとしても、亡霊が歩き回る時刻にしてはまだ早い。今宵はまだまだこれから、じゃあなんだろう、これからうじゃうじゃ夥しい数の亡霊が湧き出てくるっていうわけか。一人、三人、五人、八人、男もいれば女もいる。遠い昔に失った過去の亡霊たち。見たことも聞いたこともない名も無き亡者たち。
死んだモノが生者ぶって、生者である俺を襲いにかかる。襲いかかってくるのは妬みか、憎しみか、何はともあれ、俺はまだ死んでいられない。死んでいる奴らをまた殺すなんて所業、できるかどうか分からないが、斬って祓うことはできる、この刀なら。
鞘代わりの黒衣を解く。複雑で歪な紋様が刀身に刻まれた十束の剣。ヘレナから託された退魔の剣を振りかざす時、『臨』と真言の一つである言葉が凛々しく発せられた。
と同時にシャランと錫杖の遊環が地面に下ろされて甲高い音が鳴り響いた。厳かに打ち鳴らされた金属音は波紋してうじゃうじゃと蔓延る亡霊たちを一掃させる。
「あれ、こんなところで会うなんて奇遇だね、夜月くん。早く帰らないとまた七羅ちゃんに叱られちゃうんじゃない?」
ほんわかな声音と表情で近づいてくるのは刀童美鈴だ。彼女の装いは普段見かける道着姿ではなく、修験者のような黒い装束を身に纏っている。黒い竹笠に黒い鈴懸、紅い結袈裟――、霊媒師の戦闘衣装を着込んだ美鈴が竹笠に手をやって、俺の姿を確認する。その眼は淀んだ空気を打ち払うようにいつもよりもやけに蒼く澄んでいた。




