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1―3 夜想③

 夏の暑さが和らぎ、うるさい蝉の鳴き声が消え失せた秋の夜。九月三十日から十月一日に移り変わる午前零時。沸々と湧き上がる欲情にも似た殺意に眠るにも眠れない俺はまた一人、夜の街を散歩した。


 静まり返った夜。全ての音が消えて、俺の足音だけが聞こえる。市街地から少し離れた路地には街灯から放たれる廃れた光だけがある。


 路地に人影はなく、不気味に点滅する街灯がちかちかとあたりを照らしている。墓標のように立ち並ぶ街灯が一つ、二つ、三つ。消えかけの鈍い光の下で、浮浪者のように歩いていた足が立ち止まった。


 不意に、殺意的に、彼女の顔が思い起こされた。


 かちりと、頸を絞めるかのようにナイフの柄を力強く握り締める。


 ここ最近、落ち着かない。目障りな女がいなくなった学校生活は静かで俺にとって理想的な環境だったはずだ。それなのに、心の方は酷く荒んでいる。こうして夜を歩いている時にも彼女を思い出している。


「はぁ……」


 俺はあのお節介な女をどうしたいというのか。……分からない。今抱いているこの感情が殺意なのか、それとも欲情なのか。


 頭では理解しているつもりだ。『こいつを抱きたい』と強く思う気持ちと『こいつを殺したい』と思う感情が違うということは。


『殺意は憎しみから生まれ、抱きたいという気持ちは愛情や欲情からくるものです』


 だが、分からない。


 今俺の内部から鬱勃とこみ上げてくるこれが欲情なのか、殺意なのか。そのどちらにも当てはめることができないでいる。


『生理的な欲求と社会的な欲求、および女を性的に支配し、自分のモノにしようとする心理的欲求。これらの性欲と殺意は釣り合わない。何故なら怒りが根底にあるはずの殺意の前で性欲は影を潜め、減退していくからだ。だが仮にもしそれらが同一だと感じるならば、その者は倒錯した精神構造をしており、俗にいう快楽殺人鬼の兆候があると言えるだろう』


 何かの本で読んだことがあった。


 欲情にも似た殺意。殺意に近しい欲情。一度、殺してみれば、一度、性交してみれば、これが何なのか、分かるものなのだろうか。この同居した欲情と殺人欲求のうねりの中で、向こうの通りから人影らしきものが見えて俺は――無性にも誰でもいいから殺したいという衝動が脳回路を駆け巡った。


 片手に持った出刃包丁を携えながら立ち止まった歩を再開させる。追いかける。無意識に動く足、無意識に抱くこの感情。やはりオレは異常者だ。


 どうしようもなく湧き上がる。

 どうしようもなく掻き立てられる。

 どうしようもなく殺したい。


「あぁアアアぁぁあっ!」


 ナイフを振りかざす。スパッと骨さえも容易く斬り落とせるほどの切れ味抜群の得物が俺の手に突き刺さった。左の掌に突き刺したナイフを引き抜けば、ドバっと汚らしい血液が噴き出した。


「は ぁ、は ぁ、は ぁ」


 正常に機能した痛覚が暴走した思考を冷静にさせる。人間としての理性が衝動を必死に食い止める。

 殺したくて、胸がざわつく。殺したくて、胸が締め付けられる。かきむしるように胸を押さえて、殺意を抑え込む。なんで殺したいのか自分でも分からないのに殺したがっている自分がいる。


「だからって、殺すことは人間として間違っている。間違ってないといけないだろっ!」


 一体、誰に何を言い聞かせているんだろうか。人間として間違った行為をしようとする自分をなぜか自分の言葉が諫めている。


 幼い頃、眠っている母親の首を絞めつけたことがあった。あの時はたぶん、無意識に何も考えず首を絞めているだけで、決して母を恨んでいたわけでもなければ、苦しそうに藻掻く母の姿に興奮を覚えたわけでもない。


 興奮したのならそのまま絞め殺しているはずだ。だけど、あの時、母が口から泡をふいて、必死に藻掻いているのを見た時、俺は普通に戻れた。そういう衝動にかられた自分に腹を立て、何度も何度も額を壁に叩きつけた。自分の体内に入り込んでいる異物を血と一緒に洗い流して、思考をクリアにすれば俺は普通の人間に戻れる。それが俺の処世術であり、今まで何度も引き起こしてきた殺人衝動をそうやって圧し殺して普通の人間として社会に溶け込んできた。


「ハァ……」


 なのに、どうしてこんなにも収まらない。今夜は特に、その衝動が激しい。この衝動の引き金は一体何だ? 腹が空くのと同一か、なら避けようがない欲求だ。止めようがない欲求だ。生きている限り纏い続ける欲求。そうだ、ずっと産まれた時からずっと自分を欺いてきた。


『清く正しく。

 誰も悲しませず傷つけず。

 例外として逸れることなく全うに。

 間違わないように己を騙し続けて』


 そうやって生きてきた。


 でもその欲求は積もりに積もって、もう自分の力ではどうしようもないところまで来てしまっている。だけど一度踏み外せば、後には戻れないことも知っている。


「はぁ、はア、朝に、なれば……少しはマシに……」


 夜の静けさが好きな自分と朝の光を求めている自分。普通じゃない自分と普通であろうとする自分。普通ではない人間が普通のふりをして社会に溶け込んでいる、普通じゃない状況。普通じゃない。家庭環境の違い。脳ミソの違い。遺伝子の違い。


 同じ状況になってもある者は暴力的な振る舞いに出て、ある者は出ないという。その決定的な境界線を越えさせる要素――例えば、セロトニンと呼ばれる神経伝達物質がある。


 ドーパミンが衝動やモチベーションを生み出すアクセルのようなものだとすれば、逆にセロトニンは気分を安定させ、ドーパミンの暴走を抑えるブレーキのような役割だ。では、体内のセロトニンレベルが平均と比べてずっと低かったらそいつは間違いなく人殺しと成り得るか、――否、そんなことはない。


 それだけの要因で人が人でなくなるわけがない。なら何だ、もっと別の根本的な要因は。やはりそいつを産んだ母親に問題があったのか。妊娠中のアルコールと煙草の摂取が産まれてくる子どもに悪影響を及ぼしたっていうのか。


 違う、そんなんじゃない。じゃあなんだ。何がそうさせる? 何があるからこうなる? 


 ああ、そうだ。脳にでかい腫瘍があって、それが俺を気狂わせる。そうじゃないと説明しようがない。だってちゃんと認識できる。先天的に脳に異常のあるサイコパスであれば、どのように愛情を注がれようと、まずそれが愛であると認識することは難しいはずだ。


 だから俺は普通だ。普通にこれが愛だと認識できる。自分がされて嫌なことは相手にしてはいけないことも、これをすれば相手が苦しむであろうと想像することもできる。だってそれは相手を傷つけると、自分の心まで苦しくなるから。その苦しさを自分も確かに持ち得ている。


 なのにどうして、今はただ、その苦しさよりも、殺したくて殺したくてたまらない自分の衝動を抑えつけなくてはならない苦しさでいっぱいだ。


「アァ……」


 朝日だと思って見上げた光は月の光だった。


 月はあんなにも綺麗に輝いているのに……いや、月のキレイさは偽りだ。あれは俺だ。月は自ら光らない。遠くにあるからこそ、綺麗に見えるだけで、月の裏側はぐちゃぐちゃでボコボコのクレーターだらけで俺の心みたいに醜い醜い醜い醜い醜い醜い……。


「ハァ……」


 月を見て、気が狂う。


 母は優しい人だった。


 友人を傷つけた俺に相手と同等以上のダメージを身体に叩き込んで、犯罪行為の一つ一つを世間では認められない行為だと教えてくれた。ご飯に毒を盛ったなら、毒入りの食事を食べさせるべきで、友人をバットでボコボコにしたなら、息子もバットでボコボコにするべきで、誰かを殺したのなら最後、自分も死ぬべきだったのだ。


 ならば、いっそのこと、誰かを殺す前に自分が死ねばいい、いい? いや、死ぬのなら死ぬ前に一度だけ誰かの命をこの手で奪い去りたい。


「……今、、、何を考えた?」


 血塗れになった左手でオカシクナッタ頭を押さえつける。狂酔したようにふらつきながら、片方の手に持ったナイフをぶらぶらと振らしながら彷徨う亡霊のように夜の道を闊歩する。


 出血による平衡感覚の喪失。ドバドバと指先を伝って流れ落ちる血の雫。何を血迷ったか、手のひらから滴り落ちる自家製の赤いワインを舐め啜る。鉄の風味と生臭さが混じった独特の味は失敗した作られ方を如実に表していた。


 不味い不味い不味い。とてもじゃないが不味すぎやしないか。

 これじゃあまるで死んでいるみたいじゃないか。


 死んでいる?


 とっさに死にたくない、と傷口に吸い付いていた唇を離した。口元に纏わりついた血の感触、喉奥にへばりついて離れない血の味。気持ち悪くなって地面に膝をついて嘔吐する。吐かないといけない。血の中に、身体そのものから出てきた血液の中に、何かよからぬモノが繁殖している。それなのになぜ、何を体内に取り込んでいる。異物を体外に吐き出すために突き刺したというのに何をまた自ら摂取している。汚染された川の水を自ら啜りに行くのと同じくらい呆けた行為だ。


 血が混じった胃液を垂らしながらゆらりと立ち上がる。浮遊した身体と凶暴的な思考回路。相反する自分の心身。強い殺意に肉体は使役され、思うがままに血の付いたナイフを振り下ろす。ザクザクに斬りつける。だが、自分が渇望していたモノとはそぐわない。だってそれは人のカタチをしただけの――。


 でも今はそれでいい。それでよかった。気が済むまで一晩中、それが惨憺たる姿になるまで、そいつはナイフを振り下ろすことを止めなかった。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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