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1―1 夜想①

 家の者がみな、寝静まった深夜一時――今夜もまた街を歩くことにした。


 ベッドから起き上がった俺は机の引き出しにしまっておいたソレを手に持って、ぎしぎしと軋む板張り廊下を歩く。屋敷の玄関で学校指定のローファーを履いて、がらがらと引き戸を開けた。


 夏真っ盛りのこの時期は夜になっても暑い。黒い甚平の中に生暖かい風が入り込んで、俺の肌を舐め回すように撫でていく。屋敷の庭を抜けて、緩やかな坂を下った。人の気配がない夜の街は安心する。街灯の光が届かない狭く暗い路地は俺を孤独にさせる。


 一人は好きだ。

 集るのは嫌いだ。


 特に学校の教室内はすこぶる居心地が悪い。話しかけてくるクラスメイトが鬱陶しい。孤独になろうとする自分を気にかけてくる教師の存在が煩わしい。そもそも学校と言う教育機関が俺の肌には合わない。密室内で数十人の人間が生活を共にする。みんな明るく元気よく。一人でいる方がよっぽど気楽だというのに、一人は不幸だと自分たちの物差しでそう解釈する。誰が何を言おうと自分のことは自分が誰よりも理解している。高校生になって五か月が経とうとしている夏休みの最終日。明日からまた億劫で憂鬱な学校生活が始まる。


「……ってもう明日か」


 なんでこんな時に思い出す。彼女の横顔を。話しかけてほしくないと自分の思いを態度に出して牽制しているのに彼女だけはひたむきに話しかけてくる。本当に面倒くさくて、本当にお節介な女。だけど嬉しそうに笑った顔は……悪くない。


「あぁ……」


 ――もしも今、そんな彼女と鉢合わせたら俺は、彼女をどうしたいと言うのか……。


「……したい」


 所詮、人間は自分にはないものを本当の意味で理解することはできない生き物だ。


「……ろしたい」


 そして今宵俺が抱くこの感情を理解できるものは誰一人いない。隣の席に座る無遠慮な誰かさんさえ、分かり合うことはできないだろう。


「はぁ……」


 いっそのこと、ずっとこのまま、夜の街みたくみな、死んだように眠っていれば、この衝動もなくなるのではないだろうか。いや、たぶんそうなった場合、俺は俺自身をこの手で殺めることだろう。きっとこの衝動の矛先は自分に向けられる。でもきっとその方がいいはずだ。相手にとっても自分にとってもその方が絶対に。


 夜の街を徘徊する。

 他人を傷つけたくないから夜の世界に宥めてほしくて外に出たのか。それとも誰かを傷つけたくて外に出たのか。否――自問するまでもないだろう。右手に持っているソレが何よりもの欲求証明だ。


「はァ……」


 夏の熱さのせいか、今宵はその衝動が甚だ激しい。眩暈がして頭痛がしてくらくらする。人間としての理性が潜在的衝動に溶かされる感覚がある。


 あぁ、何もかもダメになる。


 ここ数日、生き生きとした赤を見ていない。そのせいか、蓄積された欲求が溜まっている。自慰や性交のように溜め込んだものを晴らす手段を今の俺は持ち得ていない。だから取り返しがつかなくなる前に必死に探す。探し回る。探し続ける。


『清く正しく。

誰も悲しませず傷つけず。

例外として逸れることなく全うに。

間違わないように己を騙し続けて』


 ありのままの俺は他人を不幸にさせるだけ。

 だからそうならないようにその衝動を抑え込むために必要な抑制剤となる赤い色の感性を求める。求める。求め続ける。正気の沙汰ではないほど血眼に。


 あぁ、早く。人として融通が利かなくなる前に早くこの眼で赤を……。


「ハァ……」


 自身の手首をナイフで切り付ける自傷行為は今になっては意味を成さない。薬の常習性と同様、繰り返しパターン化された手段はその効力を失った。


 浮遊する胴体。


 革製の鞘に納められた出刃包丁が視界にちらつく。


 誰でもいいからヤらせろ、なんてどこぞの強姦罪者と同じ括り付けはよしてほしい。俺はただ、俺はただ、この衝動を抑えたいだけで、オレはただ……。


「アァァああッ……!」


 不快な暑さを纏った夜に閉じ込められた俺は唸り声を上げた。はあはあと息遣いは荒く、ゆらゆらと夢遊病者のように街を徘徊する。乾いた喉がへばりつく。息を吸うたびに息が苦しくなって狂いそうになる。


「■■■▲ァァッ!」


 ふと、どこかで夜驚症のような悲鳴が上がって、霧がかかった思考が一瞬だけ覚めた。

 声とも呼べない獣のような叫び。

 女の絶叫は自分がいた場所からそう遠くはない。

 歩く。

 走る。

 俺は自身の感覚を頼りに声がした方へと歩を進める。

 そういえば、と朝のニュースで取り上げられていた事件が脳裏をよぎった。


 ここ数日の間に起こった猟奇殺人事件。バラバラに解体された女性の遺体。密閉空間のような脇道で彼女は殺害されたらしい。


 路地裏を通る。さらに奥へと歩を速める。魔界への入り口にも見えた闇一色のそこは俺が待ち焦がれていたものが乱雑に置かれていた。


「――――――」


 ザクザクに斬りつけられた女性の刺殺体。殺されてまだ間もないのか、刺し抜かれた胸からは血がダラダラと流れ、まるで半身にされても激しく動く魚みたいに、びくりびくりと身を仰け反らして、出鱈目に突き刺された身体の至る箇所から噴き出る血液は眩しいほど赤い射精みたいだ。その勢いそのまま殺傷箇所から零れ出る血でここはすぐに血の海になった。


 鼻孔の奥にまとわりつく濃密な血の匂い。充満する血臭の中で俺は一人安堵して、自身の口元が吊り上がっていくのを感じた。

最期までお読みいただきありがとうございました。

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