01 婚約がなくなった日
01 婚約がなくなった日
婚約が白紙になると聞いた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
部屋には、国王夫妻、王太子殿下、私と両親、それから妹のルーシーがいた。
夜会のたび、二人は私の前から姿を消した。殿下から届く手紙は短くなり、代わりに妹の部屋へ花が届くようになった。
予想はしていた。覚悟もしたつもりだった。
幼い頃から王太子妃になるために学んできた。歴史、法律、外交儀礼。苦手なダンスも、足の親指の爪が割れるほど練習した。
殿下が欠席した式典には私が出席した。面倒だと押しつけられた報告書も読んだ。いつか隣に立つ人の助けになれればと思っていた。
私は立ち上がり、礼をした。
誰も引き止めなかった。
扉を閉める直前、母の声が聞こえた。
「さあ、ルーシー。婚約式のドレスを考えなくてはね」
廊下には誰もいなかった。
私はそこで一度だけ、深く息を吐いた。
泣くことはできなかった。
涙を流すにも、どこか安心できる場所が必要なのだと、そのとき初めて知った。
私は馬車を待つ侍女のナタリーに声をかけた。
「市場へ行くわ」
「市場でございますか?」
ナタリーが驚いた顔をした。
「何かご入り用でしたら、私が買ってまいります」
「歩きたいの」
それ以上は聞かれたくなかった。
護衛を従え、私は通りへ出た。ナタリーが半歩後ろを歩く。
焼きたてのパンの匂いがした。荷車を引く男が声を張り、店先では女たちが野菜の値段を交渉している。
誰も私の婚約がなくなったことを知らない。
それが、少しだけありがたかった。
露店の間を歩いていると、古道具を並べた店で足が止まった。
欠けた皿や錆びた燭台に交じって、一つの箱が置かれていた。
両手に収まるほどの木箱だった。蓋には、絡み合う茎と細い花弁が彫られている。隅に黒い汚れがこびりつき、花の中心には穴のような窪みがあった。
綺麗なのに、どこか不気味だった。
「そちらがお気に召しましたか」
店主の老人が腰を上げた。
「何の箱?」
「さて。北の古い屋敷から出たものだそうですがね。鍵もありませんし、宝石箱というには仕切りもない」
私は蓋に指を置いた。
木でできているはずなのに、妙に冷たかった。
「お嬢様、お手を汚されます」
ナタリーが布を差し出した。
私は受け取らず、箱を持ち上げた。
「これをいただくわ」
今の私の部屋に置くには、ちょうどよいものに思えた。




