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プロローグ

 まばゆい光が視界を真っ白に染め上げ、強烈な浮遊感に襲われた。

 次に気づいたとき、私は硬い床の上にへたり込んでいた。


「……え? ここ、どこ……?」


 パニックで頭がうまく働かない。さっきまで私は、会社のデスクで明日の会議資料をコピーしていたはずだ。なのに、目の前にあるのはオフィスのグレーの床ではなく、見たこともないほど広大で、大理石でできたきらびやかな大広間だった。


 周囲を見渡すと、私と同じように床に座り込み、怯えた声を上げている女の子たちが数人いる。みんな私と同じ、現代の日本の服を着ている。


「おお……! よくぞおいでくださいました、神なる国よりの『つがい』の乙女たちよ!」


 正面の祭壇のような場所で、豪奢なローブを着たおじいさんが涙ぐみながら両手を広げていた。その周りには、コスプレとは思えないほど重厚な甲冑を着た男たちがずらりと並んでいる。


「番……? 召喚……?」


 女の子たちの悲鳴や、おじいさんの説明が耳に飛び込んでくるけれど、現実感がなさすぎて脳が情報を拒否してしまう。嘘でしょう、これってネットの小説とかで見る「異世界召喚」ってやつ? なんで私が? 明日も普通に仕事があるのに。スマホを見ようとポケットを探ったけれど、カバンはオフィスの椅子の背もたれに置いたままだ。手元には何もない。


 混乱で心臓がバクバクと嫌な音を立てる中、さらに信じられない光景が始まった。


 大広間の重厚な扉が開くたびに、息を呑むような美形たちが現れたのだ。金髪の騎士、モデルのような貴族。彼らはまっすぐに女の子たちのもとへ歩み寄り、愛おしそうに手を差し伸べていく。


「君が、私の番……。ずっと待っていた」

「もう怖がらなくていい。我が家へ行こう」


 甘い言葉と共に、女の子たちが一人、また一人とエスコートされて部屋を出ていく。最初は泣いていた女の子たちも、優しく抱きすくめられるうちに、安心したようにその胸に顔を埋めていた。


 その光景を、私はただ呆然と見つめていた。

 羨ましいとかそういう感情すら湧かない。ただただ、映画のスクリーンを見ているような遠い感覚だった。


 ――けれど、扉が開かなくなってから、本当の恐怖がやってきた。


「……あ、あの、神官長様。橘様の『番』であられる御方は……?」

「う、うむ……。何かの手違いか、あるいは道中で何かあったのか……。すぐに確認に走らせよ!」


 ひそひそと交わされる大人たちの緊迫した声が、広い空間に響く。

 気がつくと、あんなにたくさんいた日本人の女の子は、私一人だけになっていた。


 一歩、後ろに下がってみる。コツン、と靴の音が不気味に響いた。

 甲冑を着た騎士たちの視線が、一斉に私に集まる。そこにあるのは、敵意ではない。もっと残酷な、「可哀想に」「売れ残っちゃったよ」という、生々しい同情と困惑の視線だった。


(どうしよう……。私だけ、誰も来ないの……?)


 じわじわと、指先から血の気が引いていくのが分かった。

 周りの子が連れて行かれたからこそ、この世界の異常さが際立つ。ここは日本じゃない。守ってくれる警察も、頼れる家族もいない。


 いつまでここにいればいいんだろう。

 もし誰も来なかったら、私はどうなるの? 追い出されて、身寄りもないまま路頭に迷うの?


 冷たい大理石の床から、冷気が足元を伝って這い上がってくるような気がした。

 心細くて、泣きそうで、でもここで泣いたら本当に惨めな気がして、私はただ自分の腕をぎゅっと抱きしめて立ち尽くすことしかできなかった。


 時間の感覚が消え失せ、もう何時間待たされたかも分からない。

 沈黙に耐えかねて、乾いた喉を鳴らし、ようやく声を絞り出す。


「あの……」

「ひゃっ、は、はいっ!? た、橘様!」


 声をかけただけで、おじいさん――神官長が飛び上がるほど驚いた。その怯え方が、余計に私の心を削る。やっぱり、私の番は来ないんだ。


 不安で押しつぶされそうだった。でも、このまま黙ってここにいたら、腫れ物扱いされたまま部屋の隅で消えてしまいそうだった。生き延びなきゃ。どうにかして、自分の身の置き場を作らなきゃいけない。


「あの、もし、私を迎えに来る方がいないのであれば……私は、ここで何かできることはありませんか? お掃除でも、書類の整理でも何でもします……っ」


 社会人として覚えた「丁寧なトーン」を必死に保とうとしたけれど、声が細かく震えてしまう。お願いだから、役に立たないからって捨てないでほしい。その一心だった。


 神官長が「労働……? 番の乙女に、そんな……」と絶句した、その時だった。


 ――ズドォォン!!


 大広間の巨大な扉が、鼓膜が震えるほどの凄まじい音を立てて弾け飛ぶように開いた。


「――ちょっとぉー! 待たせてごめんなさいねぇー!!」


 びくりと肩が跳ねる。

 部屋中に響き渡ったのは、地響きのような足音と、やたらと声量の大きい、信じられないほどハイテンションな「女性の言葉」だった。


 何事が起きたのかと、涙目のまま恐る恐る振り返る。


 そこに立っていたのは、眩しいほどの赤髪をなびかせた、信じられないほどの長身の人物だった。

 仕立ての良い立派な軍服を着ていて、肩幅も広く、体つきは完全に大柄な大人の男性だ。そしてその顔は、息を呑むほど整っていて、彫刻のような男らしい色気があふれている。


(……え? 男の人……? でも、いま、お姉さんみたいな言葉が……)


 頭が混乱して固まっている私を置き去りにして、その赤髪の美形はツカツカと猛烈な勢いで私に近づいてきた。

 ふわりと、上質な薔薇のような、すごくいい匂いが周囲に広がる。


 ガシッ、と、私の両手が大きな温かい手で包み込まれた。

 驚いて見上げると、夜空の星を閉じ込めたような、きらきら輝く金色の瞳が目の前にあった。顔が近い。信じられないくらい綺麗な顔。だけど――。


「あなたが私の『番』ね? 橘結衣ちゃん、で合ってるかしらぁ? 遠くからでも魂がビビビッときちゃったわぁ! うん、私、こういう素朴な子、お友達として大・大・大好きよぉー!!」


「……は、はい……?」


 激しい身振り手振りと、お肌のツヤを気にするような仕草。

 目の前にいるのは、雄々しくて美しいイケメン。なのに、中身は完璧な「オネエ」だった。


 あまりの情報の多さと、それまでのシリアスな絶望感からの急激な方向転換に、私の脳は完全にキャパシティをオーバーしてしまった。


「お、お友達……?」


 脳内が疑問符で埋め尽くされている私を置いてけぼりにしたまま、赤髪のお姉様(?)は、私の手を握ったままブンブンと激しく揺さぶった。大きな手のひらは驚くほど熱くて、指先までガチガチに冷え切っていた私の体に、じわじわと体温が染み渡っていく。


「そうよぉ! 国境の魔獣ちゃんたちがちょっと暴れちゃってさぁ、王様に『今すぐ行ってちぎっては投げしてきなさい!』って無理難題言われちゃって。戻ってきたら可愛い子が一人で待ってるっていうから、もうお化粧直しもそこそこに飛んできちゃったわ! 本当に待たせてごめんねぇ!」


「あ、いえ……その……」


 ちぎっては投げ、という不穏な単語が聞こえた気がするけれど、それ以上に目の前の情報量が多すぎる。

 切れ長の鋭い目元、すっと通った高い鼻筋、男性的な薄い唇。どこからどう見ても、日本の芸能界のトップにいてもおかしくないレベルの超絶イケメンなのだ。軍服の上からでもわかる厚い胸板や、私を見下ろす圧倒的な背の高さは間違いなく「大柄な男性」なのに、喋り方としぐさが完全にオネエ系。


 呆然とする私をよそに、まわりの騎士さんたちが「あ、あの、ヴァルフレイド閣下……」と恐る恐る声をかけた。


 ヴァルフレイド。それがこの人の名前らしい。


「何よお、あなたたち! 私の可愛い結衣ちゃんをこんな広い部屋にポツンと残して、お茶の一杯も出さないなんて気が利かないわねぇ! 女の子を冷やすのは万病の元なんだから!」


「は、ははっ! 申し訳ありません!」


 閣下がビシッと長い指を突き出して怒鳴ると、騎士さんたちは大慌てで蜘蛛の子を散らすように走り去っていった。……将軍、なんだよね、この人。あんなに強そうな男の人たちが、オネエ言葉のイケメンに震え上がっている光景は、シュールを通り越してちょっと怖い。


「さ、結衣ちゃん。こんなむさ苦しいところ、おさらばよ。私の私邸へ行きましょ。美味しいお菓子とお茶を用意させるからね」


「あ、あの……ヴァルフレイド、様?」


 おそるおそる名前を呼ぶと、彼は綺麗な眉を八の字にして「やだ、ヴァルお姉様って呼びなさい!」とウインクをくれた。ものすごい美貌の破壊力で眩暈がしそうだ。


「その……私は、お迎えが来ないのかと思って、ここで働かせていただこうかと……」


 まだ状況が飲み込めていない私は、消え入りそうな声でさっきの話を繰り返した。すると、ヴァルお姉様は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、金色の瞳を鋭く光らせて私を凝視した。

 その瞬間、肌を刺すような、熱いプレッシャーのようなものを感じて息が詰まる。


(え……?)


 でも、それも瞬きひとつの間のことで、次に見せたのはいつもの華やかな笑顔だった。


「何言ってるのよぉ! こんな可愛い子に働かせるわけないじゃない! これからは私のところで、美味しいものをたくさん食べて、ぬくぬく暮らすの。いいわね?」


 有無を言わせない勢いで肩を抱かれ、私はそのまま大広間から連れ出された。


 案内された馬車は、日本の高級車のシートなんて比べものにならないくらいフカフカで、外の景色を見る余裕もないまま、あっという間にヴァルお姉様の私邸へと運び込まれてしまった。

 お城に負けないくらい立派な邸宅の、これまたお姫様が住むような豪華な客間に通され、私は勧められるままソファに腰を下ろす。


 間もなくして、上品なメイドさんが運んできてくれたのは、ほのかに香りが立つ紅茶と、宝石みたいに綺麗な焼き菓子だった。


「さあ、召し上がれ。緊張しなくていいからねぇ」


 対面のソファに腰掛けたヴァルお姉様が、長い足を優雅に組んで微笑む。

 言われるがままに紅茶を口に含むと、爽やかな香りと上品な甘さが広がって、張り詰めていた心の糸が、ようやく少しだけ解けた。……あ、美味しい。そう思った瞬間、我慢していた涙が、ぽろりと目からこぼれ落ちてしまった。


「あ……すみません、私……」


 慌てて手で涙を拭おうとした私に、ヴァルお姉様は「あらあら、泣いちゃって。怖かったわよねぇ」と言いながら、すっとハンカチを差し出してくれた。


 そして、メイドさんたちに向かって「ちょっと、みんな席を外して頂戴。2人きりでガールズトークがしたいの」と、ひらひらと手を振る。メイドさんたちは一礼して、静かに部屋を出ていった。


 パタン、と重厚なドアが閉まる。


 広い部屋に、ヴァルお姉様と私の2人だけになった。

 私はハンカチで目元を押さえながら、「ありがとうございます、ヴァルお姉様……」と小さくお礼を言った。


「いいのよぉ。それより結衣ちゃん、さっきお城で働きたいなんて言ってたけど、本気じゃないわよねぇ? 私のところでゆっくり過ごせばいいのよ?」


 ヴァルお姉様はいつもの高いトーンでそう言って、お上品に紅茶をすする。

 でも、私はどうしても首を横に振ってしまった。


「……お気遣いは本当に嬉しいです。でも、私、何も持たずにこの世界に来てしまって。誰の役にも立てないのに、こんな豪華な場所にタダで置いてもらうなんて、どうしても申し訳なくて……。少しでもお役に立ちたいんです」


 膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、必死に自分の気持ちを伝える。

 すると。


「――っ」


 突然、ヴァルお姉様の手元から、パキッと陶器が軋むような小さな音がした。

 見ると、彼が持っていた繊細なティーカップの取っ手に、うっすらとひびが入っている。


「ヴァル、お姉様……?」


 驚いて顔を上げると、そこには信じられないものが待っていた。


 ヴァルお姉様はソファの背もたれに深く体を預け、前髪をガシッとなびかせるようにかき上げていた。その隙間から覗く金色の瞳が――ひょうきんな輝きを一切消し去り、ぞっとするほど深く、肉食獣のような鋭さで私をじっと見据えていたのだ。


 背筋にゾクゾクとした震えが走る。


「……誰の役にも立てない、だと?」


 耳を疑った。

 いま、部屋に響いたのは、地を這うような、ものすごく低くて、色気のある、男の人の声だった。

 あまりのトーンの違いに、心臓が跳ね上がる。


「あ、の……?」


 戸惑う私を置き去りにして、ヴァルお姉様――いいえ、目の前にいる男性は、ゆっくりとソファから立ち上がった。

 すらりとした高い身長、軍服に包まれた圧倒的な体躯が、私の上に濃い影を落とす。彼は私の前まで歩いてくると、静かに大理石の床に片膝を突いた。


 お城で他の女の子たちがされていた、あの騎士の礼だ。


 そのまま、私の膝の上にあった右手を、大きな温かい手でガシッと包み込む。

 お城の時のような大袈裟な仕草じゃない。壊れ物を扱うような、でも強くて、どこか強引な力強さ。

 彼の体から、まるで本物の炎が燃えているかのような、息が詰まるほどの熱い体温が伝わってくる。


「お前が誰の役にも立たないだと? そんなわけがないだろう。お前は、俺の――」


 囁くような低音ボイスが、鼓膜を直接揺らす。

 あまりの格好良さと、放たれる圧倒的な男性の色香に、私は息をすることすら忘れて硬直してしまった。この人、オネエじゃなかったの!? これじゃまるで、肉食獣にロックオンされた獲物みたいで――。


 しかし、彼がその先を言いかける直前。


 コン、コン。


 静かな部屋に、不意に窓を叩くような奇妙な音が響いた。

 その瞬間、ヴァルお姉様の肩がびくりと跳ねる。彼はハッと何かに気づいたように、鋭い視線を一瞬だけ窓の外へと走らせた。


「……ちっ、もう張り付いているのね……」


 え? いま、舌打ちした?

 私がパニックのまま固まっていると、彼はすぐに繋いでいた手を離し、スッと立ち上がった。


「なーんてねっ☆ 結衣ちゃん、びっくりしちゃったぁ? 男装の麗人風に凄んでみたんだけど、迫力あったかしらぁ〜ん!」


「え……ええっ!?」


 次の瞬間には、いつもの高めのハキハキとしたオネエ言葉に戻っていた。

 激しい身振り手振りと、お肌のツヤを気にするような仕草。さっきのあの、心臓が止まりそうなくらい男らしかった雰囲気が、嘘のように霧散していく。


「あ、あの、いまの声……」

「いやだわぁ、私、こう見えて軍を率いる将軍よ? 部下をビシッと統率するために、たまにはあんなドスの利いた声も出せるようにならなきゃやってられないのよぉ。女の子同士の秘密の余興、驚かせちゃってごめんねぇ?」


 ウインクをしながら、ヴァルお姉様は楽しそうに笑う。

 でも、私の心臓はいまだにバクバクと嫌な音を立てていた。


(……本当に、ただの余興……?)


 手のひらに残る、あの火傷しそうなほどの熱い体温。私を捉えた、あの射抜くような金色の瞳。あれが演技だとは、どうしても思えなかった。


 謎とドキドキが頭の中でぐるぐると渦巻く中、ヴァルお姉様は私の手を引いて楽しそうに微笑んだ。


「さ、余興はここまで! 結衣ちゃんがそこまで言うなら、私の専属の事務員さんとして、明日から執務室でお仕事を手伝ってもらおうかしらぁ! 私の周り、脳みそまで筋肉な男ばっかりで、書類が山積みで困ってたのよねぇ」


 こうして私は、ヴァルお姉様の「専属事務員」として、この異世界での生活をスタートすることになった。

 あの不意に見せた男性の顔の正体が何なのか、この時の私はまだ、知る由もなかった。

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