第62話 灰の運河・第三水門と、鈴の帰還
聖都の白い壁が遠ざかるほど、空の色が鈍くなる。
夜風に混じるのは香ではなく、煤と鉄の匂い。
白い城壁が光を跳ね返す世界から、灰が吸い込む世界へ――切り替わりは1瞬だった。
斥候蜘蛛の映像が、闇の地形を舐めていく。
石畳が途切れ、地面は固い砂利へ変わる。
遠くで水が唸っている。流れが一定じゃない。人工の流れだ。
高橋の声が、耳の奥で短く震えた。
「……見えました。灰の運河。第3水門です」
視界に浮かぶ移送札――防水膜の奥の印字。
『灰の運河・第3水門』
受取人コード『QC-17』
地球側の匂いが、露骨に濃い。
俺はコタツの上で指を組み、声だけ落とした。
「出口は1つじゃない。2つ潰す。澪は『出口で止める』」
「了解」
1号の返事は迷いがない。
灰の運河は、町の裏側に走っていた。
川というより、巨大な排水路だ。両岸は石と鉄骨で固められ、所々に渡し桟橋と作業用の足場がある。
水は黒く、表面に油のような膜が薄く光る。流れは遅いのに、底の圧が強い。水門が閉じたり開いたりするたび、運河全体が呼吸する。
第3水門は、その呼吸の喉だ。鉄の格子、鎖、古い巻き上げ機。
水門の上には巡回路があり、さらに奥には点検用の小さな扉が3つ――番号札がぶら下がっている。
レオンが息を吐いた。
「マスター。ここ、好きです。封鎖が映える」
「喜ぶな」
1号が淡々と言う。
ロザリーは白い壁の代わりに、黒い水面を見下ろして笑った。
「落ちたら死にそう。いいね」
「落ちない」
ソフィアが冷たく切る。
「怪我は禁止。灰の水は治りが遅い。請求が増える」
「請求、助かります」
レオンが小声で言う。
「黙って」
1号がいつも通り切った。
現場の手順に、会議はいらない。蜘蛛を置き、出口を読み、先に塞ぐ。
斥候蜘蛛は、3つに分けた。
1.水門の格子前(水上の正面出口)
2.点検扉の裏(陸路の裏口)
3.運河の脇の排水暗渠(小さな抜け道)
蜘蛛の映像がそれぞれの地点を映し、揺れと気配を拾い続ける。高橋が早口で状況を噛み砕く。
「正面は水門の格子。ここから『荷』が出る可能性が高い。裏口は点検扉。受取人が入ってくるならここ。排水暗渠は……逃げ用。上がいるなら、そこを使うかもしれません」
1号が頷く。
「3つ全部、潰します。優先は正面と裏口」
俺は声だけ落とす。
「効率よくやれ。澪を先に回収。敵は『後回しでいい敵』と『今取る敵』に分けろ」
「了解」
1号が返した。ROIの鬼は、情で迷わない。迷って時間を払うのが一番高い。
レオンが収納ボックスへ手を入れた。
吐き出されたのは、木箱ではない。ここは水が絡む。鉄板、鎖束、砂袋の束、浮き代わりの樽、そして幅のある木の板。
水上の出口は塞ぐだけじゃない。流れに負けない重さと、浮力と、固定が要る。
レオンが短く言った。
「正面は鎖の横断で止めて、鉄板で蓋します。裏口は、点検扉の前に重量物。開けられなくする」
ソフィアが頷く。
「叫びは1発アウト。ここは騒げば巡回が来る。静かに終わらせる」
ロザリーが足場の影に立つ。それだけで、空気が粘ついた。ここに踏み込む側の心が鈍る圧だ。
1号は、運河を見下ろしながら言った。
「来るまでに、出口を完成させる。来たら、取る。澪の回収が最優先」
高橋の喉が鳴る。
「……澪さん、ここを通る。間違いない」
俺は静かに言い切った。
「澪を帰す」
風向きが変わった。灰が舞う。
水面が1度だけ沈む。大きな呼吸だ。水門がどこかで動いた合図。
蜘蛛が拾う揺れが、正面の格子前で重くなった。水が押されている。中から何かが来る。
高橋が声を落とす。
「……正面、来ます。30秒以内」
1号が短く指示した。
「レオン、鎖」
「了解!」
レオンが収納ボックスから鎖束を吐き出し、足場の杭へ絡めた。
端を渡し、運河を横断するように張る。水面すれすれ。通ろうとする物を引っ掛ける高さだ。
次に鉄板。鉄板を水面へ落とすのではない。角度を付け、鎖に引っ掛け、流れに押されて蓋になるように噛ませる。重さと水圧で、勝手に締まる構造。
1号が頷く。
「正面、封鎖完了。裏口は?」
ロザリーが指を鳴らす。
「もう空気が薄い。裏口から出たくないよ、たぶん」
ソフィアが淡々と言う。
「それは圧。物理も必要」
レオンが裏口へ重量物――石材の束を吐き出し、点検扉の前へ積んだ。取っ手が掴めない。開ける隙間がない。これで裏口は死ぬ。残るは暗渠。
1号が言う。
「暗渠は、出口側を先に押さえる。追わない。出てきたら取る」
蜘蛛が暗渠の出口へ移動した。
そして――静かに、来た。
水面が割れる。波は小さいのに、重い。泡が出ない。
最初に現れたのは、小物だった。濡れた布で顔を隠し、足場の影へ滑り、点検扉の方角を1度だけ見る。開かない。積まれている。
次に正面。鎖の横断。鉄板の蓋。小物の動きが止まる。
高橋が息を呑む。
「……詰んだ」
小物は胸元に手を入れた。番号を確認する仕草、札を見る癖。
1号の合図は1言。
「今」
レオンが背後へ滑り込み、手首を固める。関節は壊さない。だが逃げられない角度で固定する。
小物が声を出しかけた瞬間、ソフィアの袋が口を呑んだ。叫びは布に吸われ、運河の唸りに溶ける。
蜘蛛の糸が足首に絡み、膝が沈む。ロザリーが1歩近づいただけで、抵抗が目に見えて弱まった。
「逃げたら、ずっと追いかけるよ。ずっと」
甘い声。小物の呼吸が荒くなる。時間が怖い反応。
1号が耳元へ淡々と落とす。
「澪をどこへ運ぶ」
小物は首を振った。喋れない仕込みか、喋れば死ぬ仕込みか。
ソフィアが冷たい。
「喋れないなら、持ち物を全部出す。時間を買う」
レオンが収納ボックスの口を小物の胸元へ寄せた。硬い筒、札束、通行票、鍵。触れたものから順に消える。その中に――小さな防水カプセルが混じっていた。
高橋がそれを受け取り、目を走らせる。
「……QC-17。やっぱり受取人コード。でも、ここは受け取り地点じゃない。中継だ……!」
1号が即座に判断を変える。
「澪はまだ来ていない。澪を運ぶ本命が別にいる」
その瞬間、正面の蜘蛛が揺れた。格子の向こうの水が、重く盛り上がる。小さな波じゃない。運河が押し上げられる。
高橋が声を落とす。
「……来ます。本命です」
水面が割れた。出てきたのは、船とも荷車とも言えない、低い台だった。
浮き板の上に木枠、上から白い布。布の下に何かがある。鈴の音が、かすかに鳴った。
俺の胸の奥が、硬くなる。
高橋の声が喉で潰れた。
「……澪さん」
1号は、前へ出ない。出れば目立つ。目立てば奪われる。出口は封鎖済み。ここは取る場所。追う場所じゃない。
レオンが、鎖の張り具合を1瞬だけ確認し、鉄板の噛みを確かめる。本命が進めば、必ず引っ掛かる。
台が進んだ。鎖に触れた瞬間、浮き板が揺れ、速度が落ちる。鉄板が水圧で沈み、蓋が締まる。前へ行けない。
詰んだ。
白い布の下で、かすかな動き。息。人の息だ。
高橋が震える声で言った。
「澪さん……生きてる。息がある」
俺は声だけ落とす。
「澪を回収しろ。最優先だ」
「了解」
1号が動いた。静かに。速く。音を立てない速度で。
レオンも同時に動く。収納ボックスから板と縄を吐き、足場から台へ渡す橋を1瞬で作る。水に落ちたら終わり。落ちない動線を作るのは、レオンの仕事だ。
ソフィアが袋と縄を構え、周囲を見張る。ロザリーは背後に立ったまま、圧を強める。
1号が白い布へ手を掛けた、その時――
白い足場の上、巡回路の影に、闇が立った。
1瞬。顔は見えない。輪郭は曖昧。だが目だけが、はっきりこちらを測っている。上だ。
数を数える目。こちらの手順を値踏みする目。
高橋が息を呑む。
「……上がいる」
視界が、ざらりと削れた。短いノイズ。押さえつける嫌悪。本部の干渉。
白が引いた時、巡回路の影は空っぽだった。上は消えている。だが仕掛けは残る。
運河が、唸った。水門が動く音。どこかの閂が外れる重い音。水の流れが変わる。
第3水門が――開く。
このままでは、台ごと流される。出口封鎖は正面と裏口で作ったが、運河そのものが出口になってしまう。
1号が迷わず叫ぶ。声は小さいが、鋼の密度がある。
「レオン、流れを殺せ!」
「了解!」
レオンが収納ボックスから、砂袋の束を連続で吐き出した。
水面へ落ちた砂袋が沈み、台の前方と側面に重しを作る。浮き板が流れに乗れなくなる。さらに鉄板をもう1枚。台の側へ噛ませ、水圧で固定する。流されない形に変える。
ソフィアが冷たく言った。
「いい。澪さんを掴め」
1号が白い布を剥いだ。
そこにいた。澪だ。眠っているのか、麻痺しているのか。頬に冷たい水滴が触れても反応が薄い。だが胸が上下している。生きている。
高橋の声が震えた。
「澪さん……!」
俺は声だけ、静かに落とす。
「澪」
名前を呼ぶだけで、時間が戻る気がした。戻らない。だが、戻すために今がある。
1号は澪の手首を見た。細い輪の跡。拘束の痕。
そして澪の衣服の一部――縫い付けられていた鈴がない。代わりに、紐が切れている。
61話で拾った鈴。置き土産ではなく、ここから落ちたものだった。
1号が低く言う。
「……回収します」
レオンが即座に動線を作る。板を増やし、澪を持ち上げるための簡易担架を吐き出す。
ソフィアが手早く澪の口元と瞳を確認し、麻痺の残りを読む。
「呼吸は安定。死んではない。でも香が残ってる。長居するとこちらも鈍る。すぐ退く」
ロザリーが巡回路の影へ視線を投げ、低く笑った。
「上、近いよ。臭い」
その瞬間、暗渠側の蜘蛛が強く揺れた。抜け道が動いている。誰かが逃げようとしている。
1号が即断する。
「澪を優先。逃げる敵は後回しでいい敵だ。ただし、取れる物は取る」
レオンが澪の担架を抱え上げる。重さを感じさせない手つき。収納ボックスの扱いと同じ、慣れの速度。ソフィアが周囲を見張り、袋と縄を構えたまま移動する。
高橋が小物の持ち物を掻き集め、最後にカプセルの中身をもう1度見る。そこに、薄い紙が1枚だけ混じっていた。紙質が違う。均一すぎる。地球側の印刷。
高橋が顔色を変える。
「……これ、メモです。短い。英文字……」
俺の視界が、ざらりと削れた。本部の干渉が、また来る。
高橋が、喉で声を潰しながら読み上げた。
「『RETURN COMPLETE』……回収完了、って……」
1号が1瞬、動きを止める。
ソフィアが低く言う。
「……澪さんのことじゃない。回収は、向こうの言い方。たぶん……別の回収だ」
ロザリーが笑う。
「九条を回収するとか?」
俺はコタツの上で指を組み直した。言葉は短く、刃だけ落とす。
「澪は回収した。次は敵の回収を阻止する。高橋、その紙は保管。澪の回復を優先しろ」
「はい!」
高橋の声が、涙を含む寸前で踏みとどまる。
「澪さん……いま、戻りました。こっちにいます」
1号がレオンの肩越しに澪を見た。名前は呼ばない。呼べば感情が溢れて判断が鈍る。その代わり、背中で守る。
「撤収」
1号が言う。
「出口封鎖は維持。蜘蛛を残す。追跡されても、ここは詰み盤面にしておく」
レオンが頷く。
「マスター。荷は残せます。戻ってきても通れません」
ロザリーが指を鳴らし、暗渠側を見た。
「逃げたやつ、追わないの?」
「追わない」
1号は迷いなく言う。
「今は澪さんが先だ」
ソフィアが淡々と締めた。
「正しい。怪我も無し。請求も抑えた」
灰の運河の唸りが、遠ざかる。白い城壁の光はもう見えない。
代わりに夜風が冷たく、煤の匂いが肺を刺す。
その中で、澪はレオンの担架の上で微かに眉を動かした。ほんの1瞬。意識が浮いた証拠。
高橋が息を呑み、声を落とした。
「澪さん……!」
俺は声だけ、静かに落とす。
「澪。帰ってきたな」
だが――終わっていない。
地球側の紙の1言。
『RETURN COMPLETE』
回収完了。
澪のことではないのなら、次に回収されるのは誰だ。
そして、上は消えたままだ。本部は、まだ息をしている。
救いは掴んだ。
次は――奪われる前に、奪う番だ。




