第2話 コーヒーが消えた日と神々のマーケット
意識が浮上した瞬間、まず鼻に刺さったのは――貧乏の匂いだった。
湿気を吸って歪んだ柱。
黄ばんだ壁紙。
安っぽい蛍光灯の白が、部屋全体を節約モードで照らしている。
(......社員寮か)
壁も床も安物の建材。
こういう部屋は、だいたい月3万以下だ。
貧乏側の人間には、匂いでわかる。
(...... 夢じゃなかった、ってことか)
ほんの一瞬だけ「カプセルも実験も全部夢でした」ってオチを期待していた自分に気づいて、苦笑が漏れそうになる。
期待はコストが高い。
裏切られたときのダメージまで含めると、赤字がデカすぎる。
上体を起こした、その瞬間―――。
ガチャッ!!
ドアが蹴り飛ばされたみたいな勢いで開いた。
「起きてるか、三千万」
入ってきたのは、中年太りのスーツ男。
油ぎった肌。
後退した前髪。
本人の給料じゃ絶対に買えない風ブランドのネクタイピン――もちろん偽物。
(......スポンサー企業側の窓口って顔だな)
「...... どちら様で?」
「お前のご主人様だよ」
ニヤニヤ笑いながら、男は胸を張る。
「中堅物流会社物流管理課・課長、小杉健太様だ。
今日からお前は、うちの契約社員――書類上はな」
クリアファイルが、俺のベッドに乱暴に投げ落とされる。
「そこに契約書がある。細けぇ字は読むな。
どうせ理解できねえから。
要は、返済が終わるまで一生働けってだけだ」
「......33,000,000でしたっけ」
「お、覚えてんじゃねえか、三千万。えらいえらい」
名前で呼ぶ気ゼロ。
俺という人間は、完全に数字の桁数で置き換えられている。
「安心しろよ。うちはダンジョン素材の物流で儲かってんだ。
スキル無しでも荷物くらい運べるだろ?
ちゃんと働けば、10年か20年で終わるかもしれねえぞ? ハハハ!」
(10年か20年...... 澪の心臓がそこまで持つと思ってんのか)
胸の奥から、鈍い怒りがせり上がる。
けれど――怒りはコストが高い。
今の俺に、感情に割ける予算はない。
優先すべきは生存と目的だけだ。
「それと聞いたぞ。ゴミスキル【配送】だってな?」
小杉は、腹を抱えて笑い出す。
「いや〜、笑わせんなよ。
実験費3,000万かけてゴミ引いて、さらに3,000万の借金背負ってよ。
それでもまだ生きてるとか、お前、逆に才能あるんじゃねえの?」
(その才能、今すぐ殺してくれて構わないんだが)
「いいか、三千万。」
小杉は俺の額に突きつけた。
「お前は人間じゃねえ。借金33,000,000のゴミだ。
スキル持ちの真似なんかすんな。
書類運んで、荷物運んで、怒鳴られて、はいって言ってりゃいいんだよ。
わかったな?」
「......はい、課長」
社畜用の笑顔だけ、丁寧に貼り付ける。
内側では、別の計算が始まっていた。
(こいつに噛みついたところで利率が上がるだけ。
殺意は後払いでいい。
今は――どうやってこの状況をひっくり返すか だ)
簡易机の上に、小杉が持ってきた紙コップのコーヒーが置いてある。
安物の香り。
蛍光灯に照らされた湯気が、ちりちり揺れていた。
(燃費最悪。戦闘力ゼロ。Fランクゴミスキル 【配送】。
本当に、ただのゴミか?)
喉の奥で笑いがひとつ、乾いて弾ける。
試したくなる。
いや――試さなきゃ話にならない。
軽く息を吸う。
「............【配送】」
その瞬間。
紙コップが、音もなく消えた。
コーヒーも、カップも、その影すらも。
そこにあった空間だけ、まるごと切り取られて消しゴムで消されたみたいに。
同時に頭に鈍い痛みが走る。
「おっ......え? 俺のコーヒー......?」
小杉が素っ頓狂な声を上げる。
「お前......今、何しやがった?」
「さあ...... ゴミですから。自然蒸発じゃないですか?」
肩をすくめて、とぼける。
その裏で、背骨の奥を氷みたいな興奮が走った。
(コイツの理不尽に、ほんの1ミリでも反撃できた。
それだけで、このスキルに30,000,000払った価値がある気がする)
「まあいい。どうせ経費で落とすしな」
小杉は舌打ちし、立ち上がった。
「明日から倉庫だ、三千万。死ぬ気で働け。
お前が死ぬか借金が消えるか、賭けてみようぜ」
乱暴にドアが閉まる。
蛍光灯の唸りと、俺の呼吸だけが部屋に残った。
そこで、視界にウィンドウが立ち上がる。
まず目に入ったのは、一番上の項目だ。
《所有スキル》
・Fランク 【配送】
《説明:指定座標に「モノ」を転送する》
《転送距離:最大5km(同一空間内)》
《魔力効率:最悪》
「…………5キロ」
喉から乾いた声が漏れる。
5km。たったそれだけか。
これじゃ、10年前に強盗が失敗したっていう噂通り、荷物運びすらまともにできねえ。
組織が俺を「ゴミ」と認定したのも当然だ。
俺が絶望に沈みかけた、その瞬間。
そのウィンドウの下に、まだ続きがあることに気づいた。
・ユニークスキル 【ワールド・デリバリー】
「…………は?」
思わず、声が漏れた。
(ユニークスキル……? なんだこれ?)
【ワールド・デリバリー】。
そんなスキル、聞いてない。
あの実験カプセルで、白衣の男が読み上げたのは【配送】だけだった。
(いや……待て)
思い出す。
抽選直後、白衣の男の手が一瞬止まった。
タブレットに、赤い線のようなノイズが走ったのを。
あいつは「気のせいですね」と呟いて、すぐにログを消した。
(あのノイズ……隠蔽されたデータが、これか?)
組織は、違法な実験で俺にスキルを強制付与した。
だが、その結果が「Fランク【配送】」だけだと誤認したんだ。
【ワールド・デリバリー】の存在に気づかず、あるいは「エラー」として処理し、国家には「Fランク【配送】持ち」として登録した。
これらは「真の姿」でもなんでもない。
二つの、まったく別々のスキルだ。
そして、奴らは片方を見落とした。
俺は震える意識で、その《ユニークスキル 【ワールド・デリバリー】》の項目をタップした。
詳細ウィンドウが開く。
《ユニークスキル:【ワールド・デリバリー】》
《機能①:配送》
《説明:「モノ」や「スキル(魔法)」を指定座標に転送する》
《転送距離:無制限(異世界・ダンジョンを含む)》
《機能②:受取》
《説明:指定座標の「モノ」を手元に転送(回収)する》
《転送距離:無制限(異世界・ダンジョンを含む)》
《連動アプリ:【神々のマーケット(神マケ)】》
《説明:このスキルを通じてのみ、【神々のマーケット】へのアクセス及び、アイテムの配送・受取が可能》
「世界をまたぐ……?」
ゴクリと喉が鳴った。
(分かったぞ……!)
俺の頭の中で、二つのスキルが比較される。
Fランク【配送】は、本当にゴミだ。
半径5km限定の、クソ燃費の荷物運びスキル。組織や国家が俺を「無害なゴミ」と誤認し続けるための、最高のカモフラージュだ。
だが、【ワールド・デリバリー】は違う。
距離は「無制限」。
ダンジョンの奥深くにも、異世界にも干渉できる。
そして何より、【受取】で、指定座標から「奪う」こともできる。
33,000,000の債務。
月80万の延命費。
どこからどう計算しても真っ赤な損失。
それでも――
(世界をまたげるなら、この赤字を逆転させる手は、絶対どこかにある!)
口の端が、ゆっくり持ち上がった。
「これ……使い方次第じゃ、最強だ」
そのときだった。
視界の中央に、黒と金のロゴが浮かび上がる。
【神々のマーケット(神マケ)】
空間そのものに、黒くて冷たい穴が開いたみたいだった。
蛍光灯の白とは違う光が、じわりと滲む。
(……なんだよ、これ)
指は動かしていないのに、ロゴが勝手にタップされる。
視界が切り替わった。
黒と金を基調にした画面。
まるで神殿の壁画みたいな背景に、悪趣味なほど豪華な装飾。
人間の目を、最初から信用してないフォント。
《ようこそ、神々と愚者の市場へ》
《現在の顧客ランク:C(優良養分候補)》
「養分候補ね......吸えるもんなら吸ってみろよ」
喉に乾いた笑いが引っかかる。
視界には、異世界の通販サイトとしか思えない画面が広がっていた。
トップページには「本日のピックアップ」として、ワラワラと動くゴーレムの画像が映っている。
《下界の皆様、こんにちは。本日は『魔界産・使い捨てゴーレム』が大量入荷!
使い潰して業務効率アップ!》
(ブラック企業も真っ青だな......)
スクロールしていく。
「ガチャ」
「業務用品」
「詐欺・ジョークグッズ」
......詐欺をカテゴリにするな。
好奇心に負けて、「詐欺・ジョークグッズ」をタップする。
《勇者の古靴下 【ランク測定不能】》
《価格:100,000,000クレジット》
《説明:伝説の勇者が魔王討伐時に履いていた片方の靴下。聖なる臭いがする》
「1億のゴミ!」
思わず声が出た。
神々のブランド信仰には、ついていけない。
次の商品。
《翻訳こんにゃく(生) 【Eランク】》
《価格:3,000クレジット》
《説明:食べると異世界言語がわかるようになるが、副作用で『全身が紫色』になる。効果時間:3日》
「社会的に死ぬだろ!」
誰が買うんだ、こんなもん。
ダメだ。頭がクラクラする。
(こんなイカれたアイテムが平然と流通してるなら―――)
常識外れの、それこそ奇跡みたいなモンが売ってても、おかしくない。
トップページに戻り、画面上部の検索窓を見つめる。
ゴクリと唾を飲む。
指先じゃなく、意識で文字を打ち込む。
「蘇生」
「奇跡」
「魂」
エンター。
視界の中央で、読み込み中のマークが回り始めた。
黒い渦の奥で、何かが一瞬だけきらりと光った気がする。
青とも緑ともつかない光。
巨大な樹のシルエットのような影。
(......今の、何だ)
心臓が、小さく跳ねた。
読み込みは、まだ回り続けている。
その先に――
澪を、数字じゃなく人間として取り戻す手段があるかもしれない。




