第10話 64万の詰みと200万の生存必需品
ベッドの上に、生々しい64万5千円の現金が転がっている。
昨夜、小杉の闇ルートから抜き取った、俺の「初任給」だ。
だが、俺はすぐに神マケのUIを開き、電卓を起動する。
収入:645,000円。
支出:澪の延命費、月800,000円。
……赤字だ。
2週間、脳が焼き切れる寸前までスキルを酷使し、危険度を2.75%まで積み上げて、
その結果が「維持費にすら満たない」。
このまま第1階層でゴブリンを狩り続けても、
1000億どころか3300万の借金を返す前に、俺は《サードアイ》に拘束されて詰む。
……単価を上げるしかない。
狙うは、中級者向けの第3階層。
Bランクモンスターがドロップする魔石だ。
だが、Bランクには「精神攻撃」と「逆探知」のリスクが伴う。
対策は分かっている。
俺は神マケのストアページを開き、Dランク装備を検索する。
《戦術単眼鏡》
《価格:2,000,000クレジット》
俺は、手元の64万5千円を見つめた。
あの200万のモノクルは、ただの暗視ゴーグルじゃない。
あれがあれば、俺のブレる照準を、脳幹の、あの狭い一点に固定できたはずだ。
Bランクが使うという「見えない精神攻撃」だって、
あれなら紫色のノイズとして視えるはず。
あれは片眼鏡タイプなので、片目でダンジョンの脅威を視ながら、
もう片方の目で現実の自室、いつ鳴るか分からないスマホを見ることも可能だ。
それができなきゃ、俺はBランクか、あるいは小杉に殺される。
あれは贅沢品じゃない。
あれがなきゃ、俺はBランクに勝てないどころか、「気づく」前に死ぬ。
……いや、考えるのは後だ。
今やるべきは、利益の再投資だ。
俺は64万5千円の現金(座標)に意識を向け、スキルを発動する。
「【ワールド・デリバリー】――【配送】」
ズクン、と重い疲労が走る。
現金が消え、UIの残高が更新される。
《残高:645,000クレジット》
まず、弾薬――コストの補充だ。
《異世界の鉄杭セット【Fランク】》を20セット購入。2万クレジット。
これで杭は200本。
手元の残り60本と合わせて260本。
当面は持つ。
次に、消耗品――目の補充。
《斥候蜘蛛(5体セット)》を2セット購入。10万クレジット。
第3階層に挑むなら、今の1匹だけでは足りない。
残高、52万5千。
……モノクルには、150万近く足りない。
クソ……どうする。
俺が神マケの闇鍋ガチャのページを開きかけた、その時だった。
◆
昼の事務所。
フロア全体に響き渡る、小杉のヒステリックな怒鳴り声がした。
「アァ!? なんで昨日まで動いてたモンが壊れんだよ!」
俺が倉庫業務のフリをしながらイヤホンで聞いていると、
小杉がデスクの受話器を叩きつける音がした。
「クソが! 第3階層のキャンプに置いてる通信中継機がイカれただと!」
事務所の空気が凍る。
第3階層。
そこは、俺が今、まさに行きたがっている「中級者エリア」だ。
「おい、誰か……」
小杉が事務所を見渡す。
古参の探索者ライセンス持ちの社員たちが、一斉に目をそらした。
……そうか。
中継機が置いてあるキャンプ地は、第3階層でも特に奥だ。
リスクとリターンが見合わない。
誰も行きたがらない。
その時、小杉の脂ぎった目が、俺を捉えた。
ニヤリ、と。
最悪の笑みだった。
「おい、『3000万』」
俺は完璧な社畜スマイルで立ち上がる。
「はい、課長」
「お前、荷物運ぶのだけは得意なんだろ? Fランク【配送】持ち様だよなァ?」
「第3階層のキャンプに、この交換パーツを届けてこい。今すぐだ」
「なァに、護衛はつける。お前はただの『荷物持ち』だ。
Bランクモンスターなんぞに会う前に、護衛が全部殺してくれるさ。ガハハ!」
……来た。
これだ。
これこそ、俺が待ち望んでいた「合法的な座標登録」のチャンス。
小杉は、俺を「絶対に拒否できない債務奴隷」として、
一番危険な任務に放り込んだつもりだろう。
俺は、最高の笑顔で頭を下げた。
「承知いたしました!」
……第3階層に行ける。
いや、違う。
俺はダンジョンの構造図を脳内で反芻する。
第3階層に行く「途中」には、必ず「第2階層」を通過する。
1回の任務で、2つの階層の座標を奪う。
俺はポケットに忍ばせた斥候蜘蛛の冷たい感触を確かめた。
◆
Cランクダンジョンの腐った土の匂い。
だが、いつもと違う。空気が重い。
第1階層のキャンプ地を抜け、護衛のBランク探索者が先導する。
俺は「交換パーツ」の入ったジュラルミンケースを運びながら、
その数歩後ろを完璧な「荷物持ち」としてついて行く。
「おい、ここから『第2階層』だ。気を抜くなよ」
護衛のリーダーが吐き捨てる。
空気が変わった。湿度が上がり、獣の匂いが濃くなる。
……ここか。
俺は、護衛がモンスターの気配で角の奥を警戒している、その一瞬。
ポケットに忍ばせた斥候蜘蛛の1体を、指先で弾く。
蜘蛛は音もなく壁の亀裂に張り付いた。
……第2階層、座標登録完了。
さらに進む。
第3階層に入った瞬間、肌が粟立った。
レベルが違う。
護衛たちの顔から冗談が消え、殺気だけが空気を満たしている。
「……キャンプ地だ。さっさと荷物を置いてこい」
目的地の中継機は、岩陰の窪地に設置されていた。
俺は交換パーツを置くフリをしながら、残りの蜘蛛4体を、
キャンプ地を見渡せる死角――天井の鍾乳石の裏や、機材の排熱口の奥――に、正確に設置していく。
……第3階層、座標登録完了。
任務は、あっけないほど簡単に終わった。
会社に戻る頃には、すでに夕方だった。
小杉は、俺が五体満足で戻ってきたことに舌打ちし、
「チッ、使えねえ護衛だ。さっさと倉庫に戻れ、ゴミが」
いつもの罵声を浴びせてきた。
「はい! 承知いたしました!」
俺は完璧な笑顔で倉庫に戻り、そして、寮への帰路を急いだ。
◆
深夜。ワンルーム。
蛍光灯は消してある。
俺は、あの64万5千円から補充した、残高52万5千クレジットのUIと、
鉄杭の詰まった工具箱を見つめていた。
……第2階層じゃない。
俺が今やるべきは、一発逆転だ。
俺はスマホを取り出し、蜘蛛のリストを切り替える。
【3匹目:第3階層・キャンプ地】。
ブツン、と映像が切り替わる。
第1階層のゴブリンとは比較にならない、濃密な魔力の淀み。
蜘蛛のマイクが、遠くから地響きのような唸り声を拾っている。
Bランクモンスター。
ゴブリンの10倍、いや20倍の単価になるかもしれない。
200万のモノクルなんて待っていられるか。
この52万クレジットは、次の「運転資金」だ。
俺は、この「目」だけで、Bランクを狩る。
蜘蛛をキャンプ地から前進させる。
……いた。
岩陰に潜む、全長3メートルはあろうかというオーガ。
だが、狙わない。
あれは図体がデカいだけだ。魔石のランクも低い。
狙うは、高ランクの証――精神攻撃持ち。
蜘蛛をさらに進ませる。
開けた広場に出た。
……その、影。
闇が、不自然に蠢いている。
人型の、だが実体のない「何か」。
……シャドウ・ストーカー。
Bランクの中でも、最悪の相手だ。
だが、好都合だ。
あいつは「静止」している。
この14日間の訓練で極めた、脳幹への一点狙い。
そのカモだ。
俺は工具箱から鉄杭を1本手に取り、意識を集中させる。
座標、固定。
呼吸の谷間……いや、あれに呼吸はあるのか?
関係ない。「静止」している。なら、殺せる。
俺が、スキルを発動しようとした、その瞬間。
―――キィン。
耳鳴り。
違う。
脳みそを、直接、金属のフォークで引っ掻かれたような。
「……ッ!?」
息が詰まる。
スマホの画面が、砂嵐のように乱れた。
なんだ……!?
キィィィィィィン!!!
二度目の衝撃。
今度は、熱した鉄杭を、耳から脳天に突き刺されたような激痛。
「ぐ……ぁ……ッ!!」
ベッドの上で、身体が勝手に弓なりになる。
これが、精神攻撃。
見えない……!
どこから、どうやって……!
画面の中で、シャドウ・ストーカーが、ゆっくりとこちらを「向いた」。
マズい。
逆探知が始まってる。
この蜘蛛を辿って、俺の自宅(座標)がバレる。
「【配送】ッ!!」
俺は咄嗟に、鉄杭をシャドウ・ストーカーの座標へ撃ち込む。
だが、遅い。
激痛で座標が0.5秒ズレた。
杭は、怪物の影の腕をすり抜けて、虚しく地面に転がった。
その瞬間、スマホの画面が真っ赤に染まり――
ブツン、と切れた。
《【3匹目:斥候蜘蛛】からの接続がロストしました》
……やられた。
蜘蛛が、一瞬で破壊された。
俺はベッドの上で、脂汗を流しながら荒い息を繰り返す。
脳がまだ痛い。
心臓が警鐘を鳴らし続けている。
……あれが、Bランクか。
無理だ。勝てない。
俺は、震える指で神マケのストアページを開く。
《戦術単眼鏡》
《価格:2,000,000クレジット》
今、ハッキリと理解した。
これは、贅沢品じゃない。
あの「見えない精神攻撃」を可視化し、
逆探知から身を守るための――
生存必需品だ。
……順番が、違った。
俺は、蜘蛛リストの【2匹目:第2階層・通路】に映像を切り替えた。
そこは、第1階層よりは淀んでいるが、第3階層ほどの殺気はない。
……まず、ここで稼ぐ。
俺はUIのメモ機能を開き、新しい目標を書き込む。
・目標:200万クレジット(モノクル代)の捻出
・狩場:第2階層(Dランク魔石)
・タイムリミット:3週間(次の小杉の換金日)
俺は、残高52万5千クレジットのUIを睨みつけた。
……待ってろよ、シャドウ・ストーカー。
お前を狩る装備は、お前より格下の雑魚から稼ぎ出してやる。




