9.はじめての連続
書きためていたものが無くなってしまったので、更新が遅れるかと思います。
ご理解いただけると、幸いです。
いくどかの手紙のやり取りを繰り返し、わかったことがふたつある。ひとつは、クラウディオ・フェスカという男は、意外と筆まめであるということ。
もうひとつは、これも意外だったのだが、クラウディオの字はとても綺麗だということ。アンドリューの字よりも綺麗だった。教本通りの字、とも言える。手紙の内容は、非常に些細なことばかり。好きなもの、嫌いなもの、趣味、仕事のこと。手紙というより、交換日記をしているような気分だった。
お互い、婚約者との仲を深めるよりも、仕事に集中するタイプという共通点があったため、手紙のやり取りは良策だったと思う。
ただ今思うと、少しは結婚式について話し合うべきだったのかもしれない。両家が張り切って準備した結婚式は、間違いなくヴィオレットとクラウディオの結婚式。
それなのに、ちっとも準備に関わらなかったから、まるで他人事のよう。当日を迎えていても、実感がないままだ。
そう──今日は、結婚式なのだ。
ヴィオレットはコルセットの苦しさに嫌気を感じながら、大聖堂の荘厳なステンドグラスを見つめていた。鮮やかなステンドグラス、響くのは司教の声。
嬉しいことに、結婚式当日は雲ひとつない快晴だった。参列者は、そこまで多くない。両家の親類と、親しい友人や職場の同僚や上司くらい。
と言っても、参列者は貴族ばかり。職場の同僚や上司というのは、クラウディオ側だ。ヴィオレット側は、誰も来ていない。両親にそれとなく言ってみたのだが、ヴィオレットの同僚を招待することはできなかった。
ひどいわ、と思ったけれど、仕方がないと諦めるしかない。
両親が大量にばらまいた招待状の多くは、この結婚式が終わったあとに開かれる夜会の招待状なのだ。
きっと、たくさんの招待客が訪れることだろう。
それを思うと、憂鬱な気分になってくる。司教の言葉を聞き流してしまうくらいに、憂鬱だった。
(早く終わらないかしら……)
司教は今も、朗々と言葉を紡いでいる。長ったらしくて、眠気を誘う。ヴェール越しに、隣のクラウディオを見てみた。自分と同じ、白い花婿衣装を身にまとっているクラウディオは、なんというか……退屈そうに見えた。必死に眠気をこらえているヴィオレットと、同じような感じの表情。
やはり、結婚式とは楽しいものではないのかもしれない。重たい花嫁衣装に、きつく締めたコルセット、無駄に濃い化粧。すべてを取っ払ってしまいたい気分になる。
ヴィオレットがうつむき、ため息を漏らそうとした瞬間、司教がふたりの名を呼んだ。
「クラウディオ・ゴットフリート・フェスカ」
「はい」
「ヴィオレット・エヴェリーン・ロンベルク」
「はい」
司教が優しく穏やかな瞳で、ふたりを見た。結婚式は、そろそろ終盤にさしかかろうとしている。
あとは結婚証明書に署名するだけだ。人によっては指輪の交換とか、誓いのキスをしたりするのだろうが、ヴィオレットとクラウディオの意見は一致した。結婚証明書に署名するだけでいい、と。結婚式について話し合うことはなかったが、この点だけは、当日に申し出ても問題なかったのだ。
司教が恭しく、結婚証明書を取り出し、ふたりは黙って署名する。
こんな紙切れ一枚で、夫婦は繋がりを得るのだと思うと、この署名が重い儀式に思えてならない。
(……ようやく終わったわ)
参列者が起立して、盛大な拍手が大聖堂に響き渡る。
たった一枚の紙切れに署名しただけで、ふたりは夫婦となった。
なんて簡単なのかしら。
そう思わずにはいられないが、こういうものだと理解するしかない。隣に立つクラウディオをヴェール越しに見つめ、ヴィオレットは未だ、実感がなかった。
この人と結婚した。この人の妻になった。実感はない。法的には間違いなく、夫婦だというのに。
ヴィオレットはクラウディオを見つめる。真っ赤な髪は綺麗にセットされ、緑色の瞳はどこを見ているのだろう?
視線を追おうと思ったら、その前にクラウディオがこちらを見た。深い緑色の瞳に、ヴェールで顔を覆った自分が映っている。
不思議だわ。花嫁衣装を着ている自分は、違う人間のよう。私じゃないみたい。けど、私だわ。
「どうかしましたか?」
クラウディオの声で、ヴィオレットは我にかえった。
ずっと、彼の瞳を見つめていたのだ。
「いえ……なんでもありません」
ヴィオレットは視線を逸らし、ヴェールの存在をありがたく思った。薄いヴェールでも、顔を隠すくらいはしてくれる。
きっと、頬が赤く染まっているだろうから、ちょうどいいと思った。
ヴィオレットは誤魔化すように、参列者へと視線を移す。父親は嬉しいのか寂しいのか知らないが、号泣していた。母親は号泣こそしていなかったが、ハンカチを片手に、涙をぬぐっている。
両親は心から、ヴィオレットの結婚を祝福してくれている。何せ、クラウディオとの縁談を用意したのは、他ならぬ父親なのだ。
それなら、笑顔でいてほしい。泣かないで。──泣かないで。
ヴィオレットはそのときはじめて、寂しいと思った。結婚したって、自分はアドルフとエルナの娘で、ティアナとエステルの姉だ。
それなのに、寂しいと思った。どうしてだろう?
ヴィオレットは、ドレスと一緒にヴェールを作ってくれたシャーリーンに、心から感謝した。今だけは、誰も私を見ないでほしい。今日の主役──花嫁だから、無理だろうけれど。
結婚式が終われば、次は夜会である。花嫁衣装からイヴニング・ドレスに着替えても、やはりコルセットはつけたまま。着飾った令嬢達が広間を彩る様を、ヴィオレットは無感情に見つめていた。踊る気分にはなれないし、談笑する気にもなれない。
正直、疲れているのだ。結婚式とは、体力が必要なのだと思い知った。
「お姉様、楽しくなさそうね」
「というか、疲れてるみたい」
「エステル……ティアナ」
ヴィオレットに声をかけたのは、ふたりの妹だった。華やかなドレスを身にまとうふたりは、つい先程まで、青年貴族と踊っていた。ダンスはヴィオレットも好んでいるが、夜会から遠ざかっていたのだ。
今はあまり、うまく踊れる自信がない。最初の一曲をクラウディオと踊って、あとはずっと、広間を眺めていた。
「そうね。とても……疲れているわ」
「それは問題だわ。体力は残しておかないと」
ティアナが意味ありげに笑い、エステルが首を傾げる。
「どういう意味なの? ティアナお姉様」
「わからないの? 結婚した夫婦が最初にする共同作業があるでしょ」
「それって……あ!!」
瞬間、エステルの頬が真っ赤に染まる。照れたような笑みを浮かべたエステルは、離れた場所で職場の同僚と話すクラウディオを見て、そしてヴィオレットを見た。
「……何?」
「もう、お姉様ったら! 今夜は──初夜じゃない!」
ふたりの妹が、手を取り合い騒ぎ出す。
ヴィオレットは驚きを隠しつつ、そういえばそうだわ、と思い出した。
──初夜。なんとも仰々しい響きではないか。
王立図書館で多くの本を読み、様々な情報を得たが、その手の情報は頭に入れていない。ヴィオレットだって、頭に入れる情報は選ぶ。世のすべての女性が、とまでは言わないが、少なくとも上流階級の女性というものは、性知識がないことが普通。貞淑は美徳、ということだ。
ヴィオレットもまた、その手の知識は皆無に等しいと言える。知りたいとも思わなかったし。
ただ、ふたりの妹の反応を見るに、彼女達は初夜についてよく知っているようではないか。ヴィオレットは呆れたため息を漏らす。
「詳しく聞かせてね!」
「わたくしも聞きたいわ!」
「……絶対教えない」
ヴィオレットはふたりの妹の背を押し、広間の中央へと向かわせる。ふたりは愛らしい公爵令嬢。不名誉な呼び名を持ち、変わり者と称される自分とは違う。
ほら、すぐに声をかけられたわ。自慢の妹達なのよ。可愛い、ふたりの妹。
ヴィオレットは、ダンスを申し込まれるふたりの妹を見つめながら、早く今夜が終わればいいのに、と思っていた。
深夜近くになって、ようやく招待客が帰っていった。
ヴィオレットはエルマーの手を借り湯浴みを済ませ、今はベッドの上。
フェスカ子爵家の使用人達は、とても優しかった。ヴィオレットを奥様と呼び、受け入れてくれた。
今夜は忙しくてろくに挨拶もできなかったが、明日からしばらく、司書としての仕事は休み。
その間に屋敷に慣れ、使用人達ともある程度、交流を持とう。
とは言え今は、最後の難関をどう攻略するかが問題だった。ふたりの妹が騒いでいた通り、今夜は初夜なのだ。母親はただ一言、「殿方に任せなさい」としか言わなかった。
もっと的確な助言が欲しかったのだが、今となっては誰に助言を求めることもできない。
ヴィオレットは絹の真っ白な寝間着を見下ろしてから、改めて部屋の中を見回してみた。
クラウディオの寝室は、物が少ない。必要最低限の物しかないのか、殺風景、とも言えた。隣は書斎らしいのだが、あちらはどうなのだろう?
さすがに寝室よりも物が多いと思うのだが、今は確認に行くことはできない。
(私の部屋って……どうなってるのかしら)
家政婦長のリンダが教えてくれたのだが、ヴィオレットの部屋があるらしい。
クラウディオの寝室を見る限り、自分の部屋も殺風景なのだろうか? 実家から家具やら荷物やらは届いているだろうが、明日はその荷解きに追われる予感がする。
(それにしても、疲れたわ……)
ベッドに腰掛け、十分くらいは経ったと思う。
ヴィオレットはその間、ずっと眠気と戦っていた。今日は本当に疲れた。
こんなにも疲れたのは、勤務初日以来かもしれない。まぶたがくっつきそうだ。
(ダメよ……寝ちゃダメ……)
ヴィオレットは自分に言い聞かせながら、目をこする。性知識が皆無に等しいとしても、今寝てしまうのがよくないことくらい、わかる。
だから起きていようと思ったのだが、限界だった。
ヴィオレットは結局、眠気には勝てなかった。
湯浴みを終え寝室に戻って来たクラウディオは、ベッドに腰掛けたまま眠るヴィオレットを見て、慌てて駆け寄った。ヴィオレットが前方、つまりは床に倒れ込みそうになったのだ。
「危ないな……」
間一髪、クラウディオは倒れたヴィオレットを胸に抱きとめることに成功した。起こしてしまったかもしれない──そう思い胸の中のヴィオレットを見てみたが、まぶたは閉じられたまま。規則正しい寝息も聞こえた。
クラウディオは安堵し、そのままヴィオレットをベッドに寝かせる。
ヴィオレットは思っていたよりも、軽かった。黒い髪は結われることなく、白いシーツに広がっている。
「……俺も寝よう。今日は疲れた……」
日頃、飽きることなく鍛錬を重ねているが、今日のような疲労には耐性がない。体は重く、酒を飲まなくても熟睡できそう。
クラウディオは明かりを消してからベッドに上がると、横になる。
(不思議だな……)
他人の気配、規則正しい寝息、時折、彼女が動いたのがわかる。ベッドが軋むのだ。
手を伸ばせば、容易に触れられる距離。
クラウディオはまぶたを閉じ、訪れる眠気を待った。ヴィオレットの──自身の妻の寝息を聞きながら。




