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第171章~第175章

南港から淀川までは結構遠いというツッコミはナシで!

          171


 顔を洗って血の臭いを落とし、服を着替え、奴らの車のナンバープレートを付け替え、一部の武器を移し替える。一部、というのは、全部を移す必要などなかったからである。

「どこも考えることは一緒か……」

 こちらも改造された後部シートの中を覗き込んで、貴史は笑った。

「それにしてもまぁ、バリエーション豊富なこと……」

 一般市民に化けた哲也が、その隣で笑った。

「資金力の違いというヤツだろうね」

 貴史はそう言うと、指を折って数え始めた。

「依頼料以外には、技科の特許料と……あとどこかから巻き上げてきたらしい寄付と補助金……まぁたぶん、江波の言ってた『Rネット』とやらからのものだろうね。ウチの組織の資金源ってったら」

 貴史が言い終わらないうちに、哲也は着替えを終えて出てきた千早を見た。貴史も気づいて声をかける。

「よう、終わったね」

「着心地はどう?」

 哲也がニヤニヤと笑いながら尋ねる。千早は、この野郎、と目だけで悪態をつくという妙技を披露しながら、少し肩を動かした。

「肩広い。あと、胸とヒップがちょっとキツイ……かな」

「無理して言わなくていいよ」

 千早の顔が、一瞬赤く染まった。

「うっさいわボケェ……インナーは着回ししたるんやからね!」

「着回していいのか?」

 貴史が、着替える前に死体のポケットから抜き取ってきたキーを洗いながら尋ねる。

「洗って乾かしたし、黒やし。別に変わらんやろ……ちゃんと上着たるし」

「乾かした? どうやって?」

 そう尋ねると、千早は青いプラスチック製の携帯ドライヤーを見せた。電池式のものだ。

「どっから見つけてきたんだ?」

 貸してくれ、と手を伸ばしながら、貴史が訊いた。

「二階にあってんよ」

「ふぅん……」

 カチッとスイッチを入れ、温風が出ていることを確認して、鍵を乾かす。

「ところでさ、気になってたんだけど」

 トランクに荷物、そして取り返した遺書の封筒を入れながら、哲也は千早に声をかけた。もちろん、遺書の中身は確認した。少々血糊がついているが、別にそれがどうということでもあるまい。

「何?」

 千早はズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、哲也を見上げた。なかなか様になっている。男に生まれてきた方が良かったのではないかと思えるほどだ。頭の赤がちょっとミスマッチな気もするが、この際気にするまい。

「バリケードはどうする?」

 千早はちょっと考えるような目をしてから、答えた。

「強行突破しかないやろ……設置した連中もみんな殺してもうたんやから」

「全員、本当に死んだか?」

 いささかムッとした顔で、千早は答えた。

「ウチが顔を憶えとる分は、みんな死んだよ」

「ならいいけど」

 『サルワ』の死体は確認した。最初の五人の中に入っていなかった分の死体も確認した。全員死んだはずだ。だが、どうしようもなく嫌な予感が、哲也の中で蠢いていた。

(死体が生き返って、とか……そんなんじゃなくって……)

 誰かまだ生きているような気配がする。

 気のせいだろうか?


「出るぞー」

 貴史の声を合図に、二人とも車に乗り込んだ。

 黒っぽく煤けて見えていた、石油精製の分留を行う塔は、今は昇っていく日の光を浴びて立っている。

 威厳は感じなかった。

 ただ、取り残されたことを恨む幽霊のような、そんな奇妙な不気味さだけが感じられた。

 薄汚れた鉄の幽霊に見下ろされながら、車は廃れた工業地帯を後にした。

 バリケードを壊す、爆弾の爆発音だけが、どこか重苦しい空に鈍く響いた。

 空気が湿っているのが感じられる。

 梅雨が、近づいてきている。




          172


 市街地に戻ってから、支部連絡員の赤井と連絡を取り、千早を預けた。諜報員の階級では、本部に連れて行くことは出来ない。

「バイバイ、ちぃこ」

 穏やかで人好きのするあの笑顔で言って、貴史は運転席に戻った。

「じゃあな」

 ぎこちなくそう言って、車に向かおうとした哲也に、千早は待ちィ、と声をかけた。

「彼女大事にしぃや。このウチを振ったんやからね。あんたがそんだけ尽くす価値のある子ォやって、認めたるわ。せやから、彼女泣かしたら、どこにおったって、絶対怒鳴り込みに行ったるからな。覚悟しときや」

 すっげぇ自信、と軽口を叩こうとしたが、千早の目が潤んでいるのに気づいて、哲也は言葉を呑み込んだ。代わりに、解ったよ、と言うように微笑んだ。

「またな。機会があったら」

 ようやっと、自然に言葉が出てきた。千早はニッと笑った。

「ほなね」



 市街地を抜け、淀川のすぐ側で、貴史は車を止めた。

「目立たない程度に武装しろ……ウチの組織から支給された分だけでだ」

「え?」

 疑問を感じつつも、身体は指示されたとおりにきっちり動いている。貴史の言ったとおり、組織の方で支給された武器を身につけた。ただ一つの銃を除いて、だが。

 この銃については、貴史にも隠していた。自分の友人たちを死に追いやり、前田の足を撃ち抜いた、江波の銃。今は遺品となってしまったそれは、前田に渡してくれと江波がカイムに言って、自分に託させた物だった。

「車を降りるぞ」

 貴史はシートベルトを外し、既にドアに手をかけていた。

「ちょっ……どういうこと?」

「いいから降りろ!」

 言う間に彼は車外へ出てしまった。哲也は頭の中を疑問符でいっぱいにしながらも、貴史の指示に従った。こういう状況では、実戦経験の多い者の勘は、非常によく当たるのだと、本部の講義で聴いた記憶がある。

 そのまま車を捨てて、まるで最初から徒歩であったかのような顔をして、二人は川沿いに歩き始めた。公衆電話を見つけ、貴史は哲也に待っていろという合図をして、その中に入った。長い番号を叩く。携帯電話らしい。空で叩けるというのだから、かなり親しい人の番号に違いない。

 貴史は口元を隠しながら話す。哲也にとっては異様に長く感じられる時間が終わって、彼はようやくボックスの外に出てきた。

「どういうつもりなんだよ?」

 振り回されっぱなしで、哲也は少々むくれ気味である。貴史は苦笑混じりながら、短くため息をついた。

「嫌な予感がしたからだよ」

「どういうこと?」

「あの車、嫌な臭いがした……」

 どこか考えるような目つきになる。哲也はわざと茶化してみた。

「確かに煙草臭かったけどさ、いくら嫌煙家だからって……」

「ちーがーう」

 妙に真剣な声で、貴史は否定した。冗談に対して、何か苛立ちめいたものさえ感じているようにも思える。

「臨海工業地帯を出た時から、妙な感覚がつきまとってる……」

 哲也も真剣な表情になった。貴史の言っている言葉は、自分が感じた感覚をずばり指している。

「そういうもんはな、無視するもんじゃない……嫌な予感があったら、それに対して何か策を講じておいた方がいい……それをごまかして行動するのは個人の勝手だけど、何かあってからじゃ遅すぎるんだ」

 だいたいだが、哲也にも貴史の言いたいことが掴めた。だが、まだ漠然としている。

「具体的な説明が欲しいな」

 貴史はちょっと考えてから、哲也の胸に指を突きつけた。

「任務に失敗して、絶体絶命のピンチに立たされたら、どうする?」

 哲也は答えに詰まった。「優等生」の解答なら、組織の秘密を守るために、自分の命を絶ちます、なのだろう。だがアンドラスが言っていたように、自分はダメなのだ。自分で自分の命を絶てない弱虫なのだ。

 哲也が答えられないのを見て、貴史は言葉を継いだ。

「じゃあ、本部ならどうしろと命令すると思う?」

 これなら哲也にも即答出来る。あの男の言いそうなことを答えればいい。

「死ね、って」

 貴史は大きく頷いた。

「そのとおりだ……そしてな、いまいましい喩えになっちまうんだが、南野の奴なら、一人でも多くの敵を巻き添えにして死ねと言うだろうな」

「でも、俺たちは全員殺った……」

「全員? そりゃあ、あの場にいた連中はな……でも考えてみろ」

 貴史はじっと、真っ直ぐに哲也の目を見つめた。ジェット・ブラックのその目は、相変わらず、底知れない闇を湛えている。やっぱり吸い込まれそうに感じて、哲也は我知らず唾を飲み込んだ。

「あの場にいた連中で『DD』のメンバーは全員、なんて、そんなバカな話があるか?」

 哲也の中に、あの「嫌な予感」が、じわじわと甦ってくる。

 次の瞬間、甲高いサイレンが、じっとりと重い空気を切り裂いて響いた。




          173


 赤いランプをくるくる回して、消防車とパトカーが、広い川の向こうを走っていくのが見えた。貴史は小さく肩をすくめ、もう一度公衆電話のボックスに入った。またもや置いてきぼりをくらって、意地になった哲也は、ボックスのガラスに背中を貼り付けた。肩越しに中の様子を見やると、貴史は珍しく、舌打ちなどしている。

「運が良かったな」

 外に出るなり、貴史は哲也の方を向いてそう言った。

「福浦さんと話したけど、車の融通は利くらしい」

「そっか」

「あと……」

 貴史は間を置いて、まだ響いているサイレンに耳を傾けた。

「何?」

 貴史は少し声を落とした。

「最新ニュース。たった今、淀川のすぐ側で、一台の車が爆発炎上したんだとさ。通行人が一人、爆発の巻き添えくって怪我をしたらしいけど、幸い死者はいないらしい」

 哲也の頭は一瞬真っ白になった。

 やがて貴史の言葉が頭に浸透していき、そして背筋が凍りついた。

「それは……あの車?」

 フッと息をつく。

「状況から考えてそうだろ。大阪のだだっ広い河原のそばで、爆弾テロなんて意味ねぇだろ……俺がテロリストなら、もっと人の集まる場所を狙うよ」

 物騒な発言に、哲也は悪寒を感じて両の二の腕をさすった。こういう発言を貴史がすると、何か常人が言うのとは違って、心底恐ろしく感じられる。実際彼は、組織の中では最も爆弾やその類に通じている方だ。しかし、貴史がそういった知識を持っているから、恐ろしいと感じるのではない。貴史が一見善人にしか見えないからこそ、恐ろしいのである。

「哲也?」

 貴史が不審そうな目を向ける。哲也は貴史の目を見上げて言った。

「俺相手にはいいけど、紗希さん相手にそんなこと言っちゃダメだよ」

 紗希の中に埋め込まれた闇は、いったい何をきっかけに暴走し出すか、解ったものではない。

 貴史は哲也の言いたい内容を察して、しっかりと頷いた。それから、ぐっと伸びをする。話が一段落ついた証拠だ。

「さてと……待ち合わせ地点に移動すっか。今度の車はタクシーだけど、運転手は連絡員だから、安心しろって」

 哲也は、先に歩き始めた貴史の後につきながら、素朴な疑問を口にした。

「俺らが乗った後、その運転手はどうするの?」

「もう少し北まで行ったら、別の車が手配してあるよ。だから、その運転手も別に誰にも怪しまれはしない。ちゃんと料金も払うしね」

「ちぇっ。タダじゃないのかぁ」

「当ったり前だ」

 動いていなかったら、デコピンの一発でもかまされそうな声だった。話題を変えて、その後の説教を逃れようと企む。

「それにしても、よくこんなに上手く連絡繋がるよね」

「まぁ、三大都市圏だからだろ。関係者いっぱい潜り込んでるし。地方に行くと、ちょっとこうまで上手くはいかないと思うな」

「ふぅん……」

 少し歩調を緩め、距離を置いて、貴史の姿を見てみる。

 日本人離れした長身。穏やかな広い背中。落ち着いた低い声。優しい笑顔。料理の、そして射撃の上手い大きな手。暗く深く沈んだ、ジェット・ブラックの目。経験に裏打ちされた自信を持っている、プロの人殺し。


<時計はいつか止まる>


 貴史の時計は、いつ動いていたのだろう?あの村では間違いなく止まっていた。何故ならあそこは聖域で、時計を動かす必要などないから。大阪へ向かう道中も、彼はずっと本部にいる時と変わらない、穏やかな顔をしていた。

 そう……本当に、人を殺すなんて考えたこともないような、善人みたいな顔をしていた。

 でも、善人じゃない。貴史は、悪人だ。

 ふと、大阪に来た最初の朝のことを思い出す。

 あの朝二人は、ジンの離婚した妻の(その時は何も知らなかったが)喫茶店で、クリームソーダを二つおごってもらったのだ。その時は成り行きで、両親の離婚後再会した兄弟のふりをしていたのだったが、彼女がクリームソーダをおごってくれたのは、再会祝いとしてだった。結果的に詐欺をしてしまったことになるが、貴史は別に気にするどころか、電車代が浮いたと喜んでいた。

(でも、あの時は、ジンがつけていた……)

 貴史は仮面を被っていたのか。




          174


 交差点で「貸切」と表示した黒いタクシーを見つける。貸切なら、停まっていても誰も声をかけない。運転手は万事心得ているらしく、二人が近づくとサッとドアを開けた。それが一種の合図で、そのまま二人は、まるで最初っからこのタクシーを借りていた人間のような顔をして、中へ乗り込んだ。

 車を走らせながら、運転手は表示を「賃走」に切り替える。チラリと名前を見やると、「小林幹生」とあった。小林はメーターを一度見てから、ニヤリと小さく笑った。

「めっちゃ久しぶりやん」

 さりげなく貴史の方を見ると、彼はやっぱり顔をほころばせていた。

「せやなぁ……まだここで支部連してたんか」

 大阪の知り合いと話す時の貴史は、大阪の言葉を使う。それは哲也に、疎外感を与える。共通語しか使えない哲也には、大阪弁を自在に駆使する貴史は、何か、自分の倍くらい広い世界を持っているようにさえ感じられた。

 小林は屈託なく笑って、白い手袋をはめた手で、ポンポンとハンドルを二度叩いた。

「俺は地域密着型やさかい、そうそう移動はせんよ……最も、動き回っとるっちゅう意味の移動なら、俺以上に動いとるんはおらんやろうけどな」

「まぁ、せやろな……景気はどうや?」

「あっかんわ。ホンマに底なしの不況や。そろそろぶち破るんとちゃうん?」

「景気の底をか?」

 小林はせや、と答えてから、不思議なほど楽観的な笑顔を見せた。

「まぁ、底の底まで落ちたら、後は上がる一方やろけどな」

「インフレか」

「うん。やけどこの落ち方やったら、上がる時は凄まじいやろな……ハイパーインフレんなって、国家破産したらどないしよ」

 おっかないことを言いつつも、楽観的な表情は揺るがない。

「損するんは主に資本家やろけどな……そして日本国債は紙屑同然になる」

 戦後のインフレで被害を被ったのは、戦時中の国債を買った人々である。

 ついでに言えば、インフレとはお金の価値が下がることだから、同額の借金なら、デフレ時より負担が軽く感じられる。つまり借金の多い人には、言ってはまずいかもしれないが、インフレが起こってくれた方がありがたい、ということもないではないのである。逆に金貸しは、デフレの方がありがたい。

 しかしそのありがたみも、ハイパーインフレとなると、また別である。

 第一次世界大戦後のドイツを見てみれば、ハイパーインフレの恐ろしさの、何分の一かは解るだろう。当時のドイツの貨幣単位マルクの価値は1兆分の1にまで下落し、洗濯籠に紙幣を詰めて買い物に行くというような状況だった。薪を買う代わりに紙幣を燃やすケースまであったというのだから、まさに紙屑も同然である。

 シュトレーゼマンという有能な首相が舵取りをしてくれたおかげで、ドイツはなんとかその危機を脱したが、今の日本で似たような状況が起こったところで、事態を収拾できる政治家がはたしているのかどうか。

 そんなことを考えて、哲也は貴史と小林の会話に参加しているような気分を味わう。あくまでも気分だけだ。口は挟めない。

 小林は勝手知ったる自分の町をすいすい進みながら、また明るく笑った。

「ははは。俺みたいな貧乏人にゃ、そんな余裕なんかあらへんよ」

「その割には、えらい高そうな時計つけとるやないか」

 貴史は手袋の下からチラリと覗いた、金色の光に目を注ぐ。

「あぁ、これ? 偽物や。ストリートでどっかの外国人から買うてんよ」

「法律違反やんか」

 貴史は苦笑する。

「細かいことは気にすんな。安い金で高い気分くらい、せめて味わわしてくれや……夢やて解っとってもな。見たいモンは見たい」

「ブランドの方は喧しやろけどな」

「まぁな……でも、俺個人の感想でええんなら、見た目おんなしやったら安い方買うで、絶対。カッコ良けりゃそれでええねん。俺はな。金使たって自慢しても、このご時世、貯蓄もせんでアホちゃうか、言われるだけやねんし」

「で、貯蓄はしとんのか?」

「ハハハ……それを言われるとちと参るなァ」

「しとらんのかい」

「しとるにはしとるけど、この世にはしとらへんのよ」

 妙に意味ありげな口振りである。

 貴史は目を丸くした。が、哲也はなんとなく先が読めたような気がした。

「生活費抜いたお金はとある村に送ってんねん」

「発展途上国の村とか?」

 思わず口を挟んでから後悔した。が、別に小林は気にするでもないらしい。たしかに少しびっくりしたようだったが、やがてフフフ、と笑った。

「いや。国内や。山間にある、教会を中心にした某村や」

 貴史と哲也の目が合う。

(まさか、ねぇ……?)




          175


 国内の、山間にある、教会を中心とした、村。

 で、かつ組織のメンバーの小林が、わざわざ稼ぎの一部を送金している……となると、どうもにおう。

「まさかその村のシンボル、時計草じゃないだろうな?」

「あれ。知っとったん?」

 あっけらかんと、肯定の返事が返ってきた。貴史の口元が引きつっている。

「そっちこそ、なんで知ってんねん……俺ら幹部から教えてもろたのに」

「今あそこの駐在連絡員しとる横沢は、俺の中学ン時の、部活の後輩やねん」

 哲也は思わずこめかみに手をあてた。世間はこんなにも狭かったのか。いや狭すぎる。しかしこの組織は、もともと人同士の繋がりから拡大していったものなのだから、おかしくないと言われればそうかもしれない。

「何部やってん? 高校はたしか、錬金術研究同好会やったな……」

 貴史はうさんくさそうに、バックミラーに映る小林の顔を見る。

「中学はUFO観察同好会や」

 しれっとした顔で、小林は答える。

「マジかい!」

「冗談に決まっとるやん。何本気にしてん? 理科部や。毎回カルメラ焼き食い放題やったから、入部してんけど、それで一気に理科にハマッてん」

「なんで食い放題やったん?」

「砂糖も重曹も、使い放題同然やったから。ガスバーナーもあったし。惜しむらくは、実験室の水道水がまずかったことかな……まぁそんなん、ウォータークーラーの水汲んできたらえぇだけの話やったけど。まーぁおもしろかったなあの部は。熱湯で溶ける合金でナイフ作ったりな。横沢の奴はカルメラ焼きが目当てで来とったけど……あぁそういえば、夏休みの天体観測ン時、あいつ、防犯装置切ってへん区画に入りよってなぁ……」

 小林はクククと、ひどく楽しそうに笑った。

「警報ジャンジャン鳴って、俺ら警備さんにつままれてん……その後、反省文四百字詰めで五十枚。全部あいつに書かしたった」

「何人分?」

「本人入れて四人分」

「で、そのまま出したんか、それ?」

「まっさかァ。ちゃんと書き直したって……アイツ三筆やったしな」

「三筆?」

 思わずまた口を挟むと、小林は吹き出したいのを堪えるような顔になった。

「逆三筆や。学年三大乱筆。アイツ入部してきた時、俺が部長やってんけど、入部届け読むだけで一苦労やったもん」

「ほな、支部連の報告書は、全部ワープロか」

「最後の署名だけ直筆にしとる言うとったけどな。篆書と草書を足して二で割ったみたいな字ィや……慣れてんかったら読まれへんで、絶対」

 どんな字なんだと、哲也は頭の中で想像してみようとした。が、挫折。ようするにとても読みにくい、ということだけは理解出来た。

「で、お前は読めんのか?」

「当ッたり前やん。アイツの提出するレポート翻訳しとったんは俺やねんで」

「ご苦労さまなことで……」

「お疲れさま言うてんか」

 小林は笑いながらブレーキを踏んだ。赤信号停止。

「しっかし、なんであの村に送金してんだ?」

「俺、信者やもん」

「は?」

「今は一応キリスト教徒やねんで、俺」

「嘘やろ?」

「いや。ホントホント。洗礼は受けてへんけどね……受ける時大変やろな……告解何時間かかるんやろ……」

 ぶつぶつと独り言じみた呟きをもらす。

「告解って何?」

「洗礼受ける前に、先生に、自分が今まで犯した罪を、正直に全部告白すること。懺悔とちゃうんは、名前名乗らなあかんってことかな……」

「んじゃ、先生が俺の告解聞いたら、パトカーがサイレンならして教会にやってくるわけか」

 貴史は自嘲気味に笑った。自分の罪を全部告白することは、自分は殺人犯ですと、人にばらしてしまうことだ。

「いや。それはないやろ。告解の内容は、絶対他人にしゃべったらあかんことになってんねんから。せいぜいが、警察に行ったらどないですか、言うくらいやろ……行かなあかん言う先生もおるやろけどね、中には」

「山村先生相手にやったら、どうなるんかなぁ……」

「警察に行けとは、絶対言わんやろな」

 メーターの数字がまた上がる。小林は速度を落とし、誰もいないバス停で、二人を降ろした。

「あとちょっと速く行ってくれてたら、代金安ぅてすんだのに」

 貴史はそんなことを言いながら、財布を開いて料金を払う。小林はニヤニヤ笑いながら、おつりを渡した。

「俺やのうて、信号を呪い。ほな、また機会があったら会おな」

 真っ黒なタクシーは、黄信号を滑り抜けて、やがて見えなくなった。




大阪のタクシーがたいてい黒なのは、その方がハイヤーっぽくて高級感がある気がするからだそうな。ちなみに規制緩和以後、見た目は高級感があっても、運転手がサイテーなことも増えてきた気がする。

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