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第161章~第165章

イメージとしては南港あたり。微妙にBLくさいかもしれない。

          161


「紹介しよう。『暗黒師団』の『フラウロス』だ」

 ややおどけた調子で言いながら、貴史は縛り上げられた男を示した。

 フラウロスなる暗号名の男は、憎々しげに貴史と哲也を見上げた。

「それが、なんだってここに来たんだ?」

「知っていることを尋ねるな」

 哲也に向かって噛みついてから、彼はまたきつく口を閉ざした。

「さっきからいろいろ訊いてんだけど、何にも言わないんだよねぇ……そんなふうに噛みつく以外にはさ。まぁ名前は教えてくれたけど」

 貴史は困ったように笑った。いつか感じたギャップが、再び蘇る。

 フラウロスは、哲也をじっと見上げてきた。

「お前が、戸川哲也、か?」

 感情のない黒い目が見上げてくる。

「そうだけど?」

 そう答えた途端、フラウロスはニィッと口元をつり上げた。

「高階千早という女を知っているか?」

 瞬間、哲也は何が言われようとしているのかを覚った。

「さらったのか?」

 貴史の顔が、ほんの一瞬だけだが、しかめられた。フラウロスはまだ笑っている。

「『アドヴァーセリ』の遺書と交換だ……」

「『モロク』の指示か?」

 フラウロスはだんまりを決め込んだ。伝えろと言われたこと以外は、何も話す気はないらしい。

「俺としては『アガリアレプト』……湯浅の指示だと思うがね」

 そう言いながら貴史は、ほい、と、何か小さな機械らしきものを、哲也に投げて見せた。それがなんなのかは、すぐに解った。

「盗聴器?」

「ここに仕掛けられていた奴だよ……お前が外に出てる間に外したのさ……悪趣味なことしやがるよな、あのじじいも」

 その「あのじじい」が、湯浅を指しているのか、それともここの管理人を指しているのか、哲也には解らなかった。

 貴史は何も気にせずに、フラウロスに向き直った。

「で、交換場所と時間は?」

「明日朝六時。私が連れて行く」

「ふん……まぁいいさ……どっちにしろ、こっちの方が不利なんだからな」

「貴史!」

 承諾の意を示したことに、哲也は不服の声を上げた。

「ちぃこを死なせるわけにはいかねぇだろうが」

 言外に、遺書の情報は本部に送り込まれているだろう、という意味を含んでいるのに気づき、哲也は押し黙った。

「しょーがない、っか……」

 そう呟いてため息をつくと、哲也は貴史の目をもう一度見た。

「夕飯は?」

「まだ材料も買ってないよ。こいつと揉めたから」

 そう言って貴史は、肩越しに親指でフラウロスを指差した。

「何作るか決めてるの?」

「いいや。こんな時間だしなぁ……出来れば簡単なものがいいんだけど……」

「コンビニかどっかで買ってこようか?」

「ん。じゃあお願いするよ。俺はかつおと梅と日高昆布ね。かつおは二つ」

 貴史は、少し考えてから、夕飯のおにぎりを注文した。

「OK……で、あんたは?」

 いきなり話を振られて、フラウロスが戸惑っているのが判る。哲也はもう一度尋ねた。

「あんたは夕飯に何買ってきて欲しいの?」

「いらない」

 無愛想な表情を作ったが、その裏で困惑しているのはまる分かりだった。

「別に毒なんか入れないよ」

 クスクス笑うと、フラウロスは哲也を睨みつけた。

「いらないと言ってる」

「後で金払えなんて言わないってば」

「いらない」

 きっぱりと断る。哲也は肩をすくめた。

「そんなに警戒しなくったっていいじゃんねぇ……」

「無茶言うなよ」

 貴史が、今にも爆発しそうな笑いを堪えながらつっこんだ。




          162


 運転席に貴史、助手席にフラウロス、後部座席に哲也が座る。無論、フラウロスは拘束されている。後ろ手だと不自然なので、前で、しかし容易には解けないように複雑に縛ってある。

 手錠があったら楽なんだけどなぁ、と、貴史は愚痴っていた。そんなの警察じゃないんだから、見つかった時に言い訳がきかないよ、と、哲也は笑った。

「しっかしまぁ……なんとも死体の捨てやすい場所を選ぶモンだね」

 ハンドルを切りながら、貴史は押し殺した笑いを漏らした。

 車はだんだん海岸線に近づいている。臨海工業地帯の方向へ。

「まったく。顔潰して歯ァ抜いて、おもしつけてドボン! それで完了……嫌になるね。後は魚の餌になるだけ」

 さっきからずっと黙っていたフラウロスが、やっと口を開いた。

「そこ……左折しろ」

 眼前に、うらさびれた工業地帯の光景が広がってくる。

「次、右折……そのまま直進……」

「ふん。なるほどね……南下させた理由が判ったよ……この一帯の産業は衰退してきてるもんな……人も少ねぇし……」

 対向車などいないのに、生真面目にウィンカーを点けて、貴史はハンドルを切った。哲也は周囲の様子を観察しながら、軽口を叩いた。

「官憲の目も届きにくい、とな」

 フラウロスは、今朝からずっと変わらない、何を考えているのか分からないような顔で、ただひたすら前を見つめている。

「肩、痛むのか?」

 貴史が声をかけてみる。

「別に」

 まったく素っ気ない。

「まぁ、鎮静剤打ったし、痛むわきゃないか……」

 哲也が口を挟む。

「効いてない」

「は?」

 期待していなかったのに返事が来たので、哲也は思わず自分の耳を疑った。

「私に薬の類は効かない」

「耐性が強いのか?」

 貴史はチラリと、助手席の男を見やった。

「そうだ」

「それでよく、そんなに平々然々としてられるね」

 信じられねぇ、という目をしながら、哲也が肩をすくめる。

「慣れだ」

 ぶっきらぼうに答えて、フラウロスはまた方角の指示を出した。

 人が消えて閑散とした工業地帯は、上り始めた太陽の光に照らされて、長い影を海の方へと伸ばしている。遠くに、関西電力の火力発電所の、赤と白の縞模様に塗り分けられた煙突が並んでいるのが眺められた。色褪せたコンクリートの道。腐ったゴミの投げ込まれた海。何もかもが死んでいるように見える。ただ絶え間ない海のさざめきだけが、僅かな生気を感じさせていた。潮と油の混ざった独特の臭いが、窓を閉めていてさえ鼻を衝くように思われる。

「さて……と。そろそろかな」

 チラチラとミラーに視線をやりながら、貴史が冗談めかして言った。

「そうだ……そろそろ合図が来る」

 来た、と、短い声が聞こえた。哲也には何も見えなかったが、前の座席に座っている二人が目を細めているのは判った。おそらく光を使った合図なのだろう。

「ヘッドライトを、私の言うとおりのテンポで点滅させろ」

「はいはい」

 縛られているというのにいやに偉そうだな、と内心で感じながら、貴史は大人しく耳を澄ました。

「0と言ったら一秒間、1と言ったら二秒間。それだけの時間点灯させたらすぐに切って、また次の数字に合わせて点灯させろ。黙っている間は何もいじるな。終わったら終わりと言う」

「了解」

「1,0,1,1」

 間があく。

「0」

 また間があく。

「0,0,0……終わりだ……進んでいい……」

「あのまま進んでたらどうなったわけ?」

 哲也の問いに、フラウロスの表情が笑みに歪んだのが、雰囲気で判った。

「この車を攻撃して、乗っている全員を殺しただろう」

「あんたがいると判ってても?」

 フラウロスは黙って頷いた。

「ありえねーな。少なくともウチの組織じゃ」

 警戒感を募らせながら、貴史がぼやいた。

「フラウロスというのは、暗殺に従事する『GC』一般を指す名前だ。つまり私の代わりなどいくらでもいる、ということだ」

 別に大したことではない、とでも言いたげな口調だった。

「ひでぇ話だな……ウチの議長が神様に思えてくるよ。まったく……」

「神は、必ずしも善とは限らないがね」

 フラウロスはまた、薄く笑った。

「どういう意味だ?」

「『破壊の天使』と呼ばれる存在を知っているか?」

「「知らない」」

 二人同時に答えた。

「悪魔のような方法で、罪人を罰する天使だ。だから堕天使だとも考えられている……彼らは神の命令に従っているのだがね……人はそうは考えない」

 哲也は目を瞬かせた。

(似てる……でも、俺たちは堕天使だ……自分の意志で動いているんだから)

「『GC』ってのは、何だ?」

 話題を変えるように、貴史が尋ねた。

「……『育てられた子ども』という意味だ……」




          163


 いかにも悪魔らしく、上から下まで黒で統一した服装の男が五人、今はもう稼働していない精油所の倉庫の前にいた。一人は殆ど金に近い、明るい茶髪をしていた。顔形から推して、どうやら日本人ではなさそうだ。他は全員、日本人もしくは東洋人のように見える。黒ばかりの中で、色の落ちたジーンズに、白の薄手のジャケットを羽織った千早の姿は、いやがおうにも目立った。髪の赤メッシュが、さらにその姿を周囲から浮かせている。

「千早!」

 哲也が名前を呼ぶと、千早は微かに笑った。

「『アドヴァーセリ』の遺書だ」

 貴史はそう言いながら、B5サイズの封筒をかざす。

「中身は確認したか?」

 金髪男のすぐ隣に立っている男が言った。

「今この場で確認してくれてもいいよ」

 落ち着き払った声で貴史が答えた。

「238、確認しろ」

 フラウロスが、縄を切れ、と目で貴史に言った。

「内容を確認するだけだ。別に攻撃などしない」

 一度小さく肩をすくめてから、貴史は、フラウロスの腕を縛っていた縄を、ナイフで切った。

 封筒を受け取ると、フラウロスは中に入っている書類を全て調べた。

「本物です。アドヴァーセリの署名も入っています」

「よし」

 フラウロスはそれを聞くと、封筒を持って仲間たちの方へ歩き始めた。例の金髪男が、封筒を受け取り、再度中身を確認する。

 本物だ、らしきことを、彼は、さっきからしゃべっている男とは、反対側の隣にいる男に告げた。その男は五人の中で一番背が低く見えた。どうやら通訳らしく、小男は他の三人に、それを翻訳して伝えているようだ。

「じゃ、千早を返してもらえますか?」

 哲也が口を開いた。

「ああ。いいとも」

 交渉役と思しきあの男が答える。

「千早がこっちに来るなり、三人まとめてバン! とかなしですよ」

「悪魔は契約を守るものさ……契約を破るのは人間の方だ。自分の魂惜しさに逃げ回るから、殺されるんだよ」

 金髪男が、くい、とアゴを動かした。千早は男を一瞬睨んだが、やがて大人しく哲也たちの方に向かって歩き出した。

「それじゃ。交渉終了ということで」

 あの男が言った。哲也は千早を先に車の中に入れた。

(Good-bye, for good.)

 金髪男の口が、そう動くのが読めた。

「逃げろ!」

 哲也が叫ぶが早いか、貴史はアクセルを踏み込み、急発進していた。ほんの何秒もしないうちに、後ろ側から爆風が吹き付けてきて、後部ガラスにヒビが入った。巻き上げられなかったのは、本当に幸運だった。

「間一髪……」

 哲也が冷や汗を浮かべながら、呟いた。

「二重フィルム様々……」

 貴史が顔をしかめながら言った。

「どういうこと?」

 千早の問いに、哲也は反撃の用意をしながら答えた。

「フィルムで防弾ガラスにしてあんのさ。つっても、いざ撃ち込まれたら、分かったモンじゃないけどね」

「第二波、来るぞ」

 貴史は加速すると、石油貯蔵タンクの影に向かって、一気に車を走らせた。

 車体にはいくつか穴が開けられたようだ。

「さて、いつまで保つか……」

「敵さんの位置は、少々は把握できたけど」

 哲也は千早にどけと言いながら、後部シートの『蓋』を開けた。中には警察に見られては困るものが、まとめて詰め込まれている。

「こっちは二人。ちぃこいれて三人。対して向こうは最低五人。しかもここを指定してきたんだから、トラップ仕掛けてると見て間違いなし……」

「軽く十人以上はおるよ」

 千早が口を挟む。貴史は頭を掻いた。

「とりあえず、頭を潰す必要があるな……大方、あの金髪野郎だろ。それまでに逃げ出せりゃいいけど……」

「無理ちゃうん? 袋のネズミにする気やで。今頃バリケード出来てるわ」

「よく解るな」

「ウチかて諜報員やねんからね。情報は集めとるって。『サルワ』が言うとった……ほら、あの一番しゃべっとった奴」

「ふーん。あの金髪野郎は?」

 そう言いながらも、哲也は手を休めず、サブマシンガンを取り上げた。

「『アンドラス』……うちには武器くれへんの? チャカの使い方やったら知ってんねんけど」

 一瞬、哲也は、昨日福浦の言っていた言葉を思い出した。

「そーだろな……」




          164


「いったん車捨てた方が良さげだな」

 貴史が、弾丸を装填した銃をホルスターに押し込みながら呟いた。

「でも、どうやって逃げんのさ? 戦うにしたって、屋内戦に持ち込まなきゃ、絶対不利だよ。障壁も何にもない」

 向かって打ち合うのなら、あっという間にこっちの全滅だ。

「あの倉庫に直接突っ込むさ」

 聞き返すまもなく、貴史はアクセルを踏み込んだ。

 真っ直ぐに、さっきの『交渉』が行われた隣の倉庫に向かって飛ばす。

「伏せてろ」

 言われなくても!と心の中で答えながら、哲也は銃を握りしめた。

 シャッターを突き破る。骨の奥まで沁みるような衝撃。金属の擦れ合う不快な音。フロントガラスが割れ、貴史のエアバッグが膨らんでいくのが、何故か雰囲気で判った。

「行け!」

 貴史の声が発されるのとほぼ同時に、二人は転がるように車外に出ていた。

 目の前に驚愕している顔が一つ。そうと考える間もなく、指は引き金を引いていた。赤い華が散る。

 高く積み上げられた、何かの薬品が入っている思しき、袋やドラム缶。Q8と書いてある。どうやら原油らしい。

(油の缶のすぐそばで、ドンパチかまそうってのか……狂ってんな……)

 外から爆弾投げ込まれりゃ、ここも終わりかもな、と考えると、何故かおかしくなって、哲也は口元をつり上げた。

 表の辺りが騒がしくなっている。まさか直接突っ込むとは思っていなかったらしい。

「カミカゼ気取りか」

 そんな言葉が聞こえてきた。哲也はまたにやりと笑った。

(死ぬためじゃねーよ……生きるために突っ込んだんだ……)

 貴史もどうやら上手く逃げ出したらしい。

 哲也はそれを確かめてから、手持ちの手榴弾の一つを、ピンを外して、車の周囲にいる連中の方へ投げ込んでやった。衝撃が、空気を、身体が触れている薬品の袋を通じて伝わってくる。すぐに場所を移動した。さもないと目をつけられる。

 向こうの方で、パン! と高い銃声がした。音からすると千早のようだ。

 そう思ったのも束の間、哲也の目の前に、ふわりと男が飛び降りてきた。こいつも『フラウロス』だろう。純粋培養の殺し屋然とした目をしている。

 頭より先に身体が動く。銃を構えて引き金を引く。だが着地の体勢を整えるが早いか、相手は哲也に向かって突っ込んできていた。一発胸に撃ち込んだが効き目がない。防弾チョッキを着ている。

 もつれ合うようにして、地べたに転がる。哲也が上に……相手が上に……

 武器が使えないもどかしさに、内心歯がみをする。ゴトッ、と音が聞こえた瞬間、哲也は反射的に男の身体を捻らせ、その方向に向けた。

 手榴弾が炸裂する。

 盾にされた男は、まだそれでも喘いでいた。哲也はその額に、とどめの弾を撃ち込むと、早々に退散した。

(まったく……あのフラウロスの言ったとおりだ……)

 この『兵士』は使い捨てか。命ですらないのか。

 そう思うと、やり場のない怒りでいっぱいになる。

 マシンガンが火を吹く音が、また向こうの方から聞こえた。貴史か、敵か。

 頭の隅でそんなことを考えながらも、身体は走っている。

 曲がり角では、向こうを確認してから出ないと、うっかり全身を見せたところで、ズガンとやられかねない。

 チラッと目を出すと、あのサルワとかいう男と通訳がいた。

「話が違う。わしが言いたいんやそれだけや」

 うずたかく積まれた袋のおかげで、周囲には聞こえずに済んでいたようだ。

 だが、すぐそばまで来た哲也には筒抜けだ。

「しかしアンドラスは、仕方のないことだと言ってました」

 抑揚のない声で、通訳が答える。

「仕方ないィ!? 冗談やない! こっちの世界には、こっちのやり方があんねや……お嬢の身に何かあったらどないする気やってん!」

 巻き舌の入った、ドスの利いた声。哲也はいやな予感がした。

「我々は組織を維持するのが目的です……モロクもアガリアレプトも、我々の組織では上位にいるのです。我々にとっては彼らの保護が最優先事項です」

「ほなわしらには、お嬢の身の安全が最優先事項じゃ! アンドラスにそう伝えとけ!もう二度と国内のヤマには手ェ貸さん、っちゅうてな!」

「解りました……どうなっても知りませんよ……」

 パン! と銃声が響いた。

 哲也は、サルワが悪態をつきながら唾を吐いたのを聞いた。

(あいつ……高階組の……?)




          165


 福浦のくれた情報によれば、千早は高階組の組長の娘だ。この場所にいる女は知る限り千早だけだ。その千早を『お嬢』と呼ぶ人間がいるとしたら、その人間は高階組の人間だと考えるのが一番自然なはず。

 そして『サルワ』は言っていたのだ。

<もう二度と国内のヤマには手ェ貸さん>

 これからさらに推理を組み立てていけば、高階組と『暗黒師団』の間には、何らかの協力関係があることになる。

 そのことについて、組長の娘だった千早が、何も知らなかったと?

 まぁ、ありえなくはないが、その父親と喧嘩して家を飛び出してくるような鉄砲娘だ。何かは知っていたはずだ。

 いや、ちょっと待て……高階組は川口組の下部組織だ……とすると、川口組と『暗黒師団』にも、何らかの関係があるのだろうか?

 おそらく、あるだろう……これは推測だが。


 そんな風に頭を働かせていると、いきなり頭上に気配が現れた。

「Freeze.」

 低い男の声が響く。

 哲也は黙って両手を上げた。

「Can I look you?」

 相手は少し戸惑ったようだった。が、武器を手にしていない身に、何が出来るものかと踏んだらしい。

「If you want.」

 顔を上に向ける。

 絶対優位を占めているが故の、余裕の笑みを浮かべた鉄灰色の目が、哲也を見下ろしていた。積み上げられた袋の高さと、男の顔の高さから推測するに、どうやらその上に寝そべっているようだ。

(こいつは『フラウロス』じゃなさそうだな……)

 少なくとも、純粋培養ではない。単なる暗殺者とは違う感じがする。

 何かを考えるような様子などおくびにも出さず、哲也は彼に笑いかけた。彼は一瞬戸惑ったようだったが、すぐにニヤリと口の端を歪めて、どこかサディスティックな笑いを返してきた。

(引っかかるとは思わんけど……まぁ、実験さ、実験……)

 むしろ引っかかったら笑い話なのだが。

 哲也は、表情をすっと切り替えた。ただにこやかなだけの微笑から、媚びるような蠱惑的な笑みに。

(よっ。初挑戦、男に対する色仕掛け!)

 頭の中で、別の自分がやんやとはやし立てているのが聞こえた。まだ生きていたのだ。とうの昔に死んでしまったと思っていた、お調子者の自分は。

 男の思考回路が停止しているらしいのが、空気で判った。まさかこんな手を使うとは、思ってもみなかったらしい。太い首筋に浮き出た喉仏が、一度大きく上下に動いた。唾を飲み込んだのだろう。

 自分の容姿が、人より優れているのは知っている。

 しかしまさか、こんなことになるとは思ってもみなかった。女に対してなら何度か使ったことはあったが、そういう気のない自分が、こういうことをするとは……まぁ、めぐり合わせとは奇妙なものだ。

 そんなことを頭の片隅で考えながらも、哲也は娼婦のごとき笑みを強めていった。黒い双眸が妖しく煌めく。

(さてね……女には有効だったが……どう来るかな)

 どこか、ゲームでもするように、冷静に思考している部分がある。ふざけたゲームだ。だがこんな時は、真面目になった方が負けるのだ。

「Hey...」

 誘うように、上げっぱなしになっていた両手を、少し彼の方へと動かした。本音を言うなら少しキツイ。肩が凝ってきているのが、なんとなく判る。

「Come on.」

 まるでベッドに座った女のごとく、哲也はその言葉を口にした。

 とにかく下に降ろさせないことには、何も出来やしない……何をするのかと言えば、それはもちろん……

『反撃』

である。他に何をするというのだ。

 お前は同性愛者か、と言った節の言が、頭上から降ってくる。哲也は曖昧な笑みで返した。内心は無論

(んなわけねーじゃん。こちとら彼女持ちだっつーの!)

であるが、まさかここまでやっておいて、本音を言うのもバカげている。

「So...」

 男はいったん、銃を構えていた手の力を弱めた……かに見えた。

 バァン。

 銃声が倉庫内に響く。

 まさしく間一髪でかわした哲也は、男が積み上げられた袋の上から、下へと降りてくるのを見た。

 反撃のチャンス到来。

 知らず知らず、笑みが強まった。

「Don't you like me?」




ちなみに「Q8」とは「クウェート」の略式表記で、原油などの缶に書かれることが多い。

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