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第66章~第70章

          66


 おやつの時間が終わると、先ほどの話どおり、庭に出てみることになった。

 教会と医院の裏手は、結構なスペースが空いていて、そこに名前も知らない植物が、わんさか繁っている。そのなかの、ぽつんと丁寧に手入れされた一角が、百合のハーブ畑だった。

「ここね、結構薬草も育ててあるんです。育てる、っていうより、植えたまま放っているんですけど、野草ばっかりだからよく根付いてくれるんですよ」

 そう言いながら、ひょいと日向に咲く白い花を指さした。

「ほらこれがアマナ……鱗茎をばらばらにして天日乾燥したものを煎じると、解熱剤になるんです。採取期は、この花が終わる頃だから、もうすぐです」

 へぇ、と答えながら、辺りを見回してみて、哲也は妙なものに気がついた。

 青々とした木の根本に、色あせた鍋が一つ、ごろんと転がっている。

「あの鍋、なんですか?」

「あれですか?あれは中に毒が染みてるから、あそこに置いてあるんです……そばの大きな木、見えますよね? あれ、アセビです……あの葉を煎じた液を、殺虫剤に使うんです。それを作るのに使う鍋」

「じゃ、アセビは有毒植物?」

「ええ。あっちのエゴノキもです……ほら、あの白い花の咲いている木」

「あれも葉を煎じて殺虫剤にするの?」

 貴史の問いに、百合は笑いながら首を振った。

「実の皮の絞り汁を、洗剤に使うんです……だから最近は植えてあるだけ。サポニンって成分が含まれてるんですが、石けんみたいに泡が立ちます。それが同時に有毒成分でもある……」

「よく憶えてるねぇ」

 貴史が心底感心したように言った。暗記は苦手だと言っていたことを思い出しながら、哲也はふっと、わざとらしく下げられているネットと、それに絡みついている蔓植物に目をとめた。見たことのない植物だ。花はすでに咲いてしまったのか、次の開花まで間がありそうに見える。

「出歩くのに時間のかかる所ですから、いろいろ工夫をしなきゃだめだと、母が教えてくれたんです」

 そうなんだ、と、貴史が言葉を返すのが、どこか遠くで聞こえた。

「あ、これヨモギだ。これなら知ってるよ。止血に使うんだろ?」

「そう。あと、これの煙って虫除けになるんですよ」

「へぇ……じゃあ今度燃やしてみよう」

 二人の会話が、何重ものヴェールを通した向こうで交わされているようだ。

 哲也の意識は、目の前の、この奇妙な蔓植物にとらわれていた。

「哲也?」

 不審に思った貴史の声が、すぐそばで聞こえた。それでも、反応できなかった。この植物から、目が離せなくなっていた。

「あ、パッシフローラ見てらっしゃるんですね」

 哲也の眺めている植物に、百合が気づく。

「薬効は?」

 貴史の問いに、百合は妙にニヤニヤしながら答えた。

「実を食べます」

「すると?」

「それだけです……薬として植えてあるんじゃないんですよ」

「じゃあ、どうして?」

「パッシフローラっていうのは学名で、日本名は『トケイソウ』って言うんです。花が時計の形にそっくりだから」


<時計?>


「で、どうして植えてあるわけ?」

「言っていいのかなぁ……まぁいいか……上級幹部会の紋章ですよ、これ」

 二人同時に、百合の方を向いた。

「トケイソウの英名は、パッション・フラワー(Passion Flower)」

「情熱の花?」

 貴史の和訳に、百合は少し笑った。

「このパッションは、大文字のPで始まる固有名詞で、定冠詞をつけて『キリストの受難』の意味です。だから『受難の花』……雄しべの花柱が三股に分かれてるんです。それを日本人は、長針と短針と秒針だと考えたけど、西洋人は三つをまとめて、十字架にかかったイエスだと考えたんです」

 こんな風にね、と言いながら、百合は両手を広げて上に上げた。

「どうしてこれを選んだのかは知りませんけど……上級幹部会はたしかにこの花をシンボルにしているんです」

「選んだのは誰かご存じですか?」

「いいえ……でも、大方アルバート・加藤先生だと思いますけどね。この教会の初代の牧師です」

「ええ、さっき先生から聞きました。この組織の成立の経緯」

 百合は静かに頷いた。

「私が生まれてまもなく、亡くなってしまわれたので、面識はあったとしても記憶にないんですけれどもね……いろいろ話を聞かされて育ちましたから……たぶん加藤先生じゃないかと思います」

 静寂が降りる。空を飛んでいく鳥の羽ばたく音。風に揺られて鳴る木の音。普段は気にもとめない音が、妙に大きく聞こえてくる。

 ずっと黙っていた哲也が、口を開いた。

「君は、組織に入るの?」




          67


<君は、組織に入るの?>


 哲也の問いに、百合は静かに首を振った。

「私は、祈ります……加藤先生が、組織のみんなのためにしたように」

「議長……君のお父さんも、そのことはご存じなんですか?」

「はい」

 母の葬儀の時、打ち明けました、と百合は小さな声で付け加えた。

「父は納得してくれました。だから私、神学院に進むつもりです」

「聖職者になったら、結婚できないんじゃないの?」

 哲也がそう言うと、百合はおかしそうに笑った。

「牧師は結婚できます。結婚できないのは神父。プロテスタントじゃなくて、カトリックです」

「プロテスタントが牧師で、カトリックが神父だっけ?」

 貴史が混乱した顔で尋ねる。

「そうです。だから、祖父も牧師ですね」

「プロテスタントとカトリックって、どう違うの?」

「さぁ? 最近、何が違うのかあんまりはっきり解らなくなりました。根っこの根っこは同じですから、大同小異だと思うんですけどねー」

 うーん、と大きくのびをして、じゃあそろそろ戻りますか、と提案する。

「あ、ねぇ」

 思いついたように、哲也が声をかけた。

「はい?」

「時計草の花って、いつ咲くの?」

「だいたい八月くらいですね。ブラジル原産の花ですから、やっぱり熱い時に咲くみたいです」

「ふーん……」

「八月、見に来られますか?」

「そーだね……」

 生きていたらね、と、哲也は頭の中で付け足した。

 あ、と小さく声を上げてから、思い出したように百合が振り向いた。

「夕食はクリームシチューとビーフシチューとカレーライスとハヤシライスのどれにします?」

「「クリームシチュー」」

 二人が同時に同じメニューを答えた。偶然もあるものだ、と思わず笑いがこみ上げてくる。

「じゃ、決定ですね……付き合わせて済みませんでした」

「いえいえ。お気になさらず」

 ひょいひょいと先に立って歩いていく百合を見ながら、哲也は今更ながら、疑問を抱いた。

「百合さん、学校はどうしてらっしゃるんですか?」

「通信制です」

 短く答えると、彼女はそのまま日陰に飛び込んだ。

 数秒後。

「パンセッ! また人のスリッパで爪研いでッ!」

 あわただしい物音が、家の奥の方へと移動していった。

「大人なのか子どもなのか解らんね……」

 苦笑混じりに貴史が言った。

「少なくとも俺よりは大人でしょうよ……」

 低い声でそう言った哲也の肩を軽く叩いて、貴史は、入ろうか、と呼びかけた。そうですね、と返して、百合の消えていった方へ歩き出す。

 戻ってみると、糸のほつれたスリッパが一組目に入った。

「あの猫野郎……」

 哲也が忌々しそうに舌打ちした。

「なんで永居さんのスリッパだけ無傷なんだよ」

 爪研ぎの被害にあったのは、先刻まで哲也が履いていたスリッパだった。

「嫌われてるみたいだねぇ」

「人ごとだと思って、のんきに言わないで下さいよ」

 抜き出した糸くずをふっと吹き払うと、哲也は恨めしげに貴史を見上げた。

「でも不思議だねぇ……」

 そう呟いて、貴史はスリッパに足を入れた。いざ履いてみて、猫の毛まみれになっていることを知り、顔をしかめる。

「何がですか?」

 主立った糸くずを払い終え、ややみすぼらしい感じになったスリッパを履き直した哲也が、軽い調子で訊いた。

「君と前田さん、そんなに似てるってほどでもないのに……」

 パンセの毛を拭いながら、貴史は答えていく。

「何故かみんな、似てる似てるって言う……山村先生も、主任も……」

「前田さん本人もね」

 哲也の言葉に、貴史は少し目を見開いた。




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 適当なところで、毛を払うのは止め、あきらめて履き直す。

「顔じゃないと思うけど……他の何が似てるんだろうな?」

「匂いとか?」

「何でまた?」

 予想外の答えに、貴史が苦笑するのが解る。

「あの陰険猫野郎が引っ掻くのは、俺と前田さんだけだっていうから、ひょっとするとそうじゃないかなって」

「だんだん悪意に満ちた呼び方になってないか?」

 貴史の表情は引きつっている。哲也は、それがどうした、とでも言うようにひらひらと手を振った。

「可愛いのは名前だけでしょ……憎たらしいったら……」

「だそうですよ。先生」

 途端、哲也が硬直した。恐る恐る振り返ると、しかめっ面をした山村が、腕を組んで立っている。

「わりゃあえぇ度胸しとるのぉ」

 顔の右半分が笑っている。残りの半分は無表情。それが何故か異様に恐い。哲也の背中を、冷や汗が一筋伝い降りる。

「だって僕ばっかり引っ掻かれるんですもん。不公平ですよ」

「不公平、な……パンセも理由があって引っ掻いとるんじゃろう」

「理由?」

「あがぁなぁは江波にひらわれた猫じゃけぇの」

「へっ?」

「江波は前田を嫌うとったし、わりゃあ江波を嫌うとる」

「猫にそんな知能ありましたっけ?」

 哲也の表情には、隠しきれない疑念が浮かび上がっている。

「あるかも知れんよ。ほんまのところ猫がどがぁな世界で生きとるんか、人間は何にも知らんのんじゃけ」

 そう言うと、山村は何か意味ありげにニヤリと笑った。



 部屋に戻ると、貴史はベッドに転がって、大きく息をついた。

「どうしたんですか?」

「いや。皮肉なモンだと思ってさ」

「江波が前田さんを嫌ってたってこと?」

 前田は今でも、江波のために死ねるであろうと、貴史は言っていた。

「うーん……でも、心の底から憎んでいたら、三年前、足を打たれて動けなくなった前田さんを、躊躇なく殺してると思うんだよね……イヤ、あの人のことだから、ただ殺すんじゃなくて、かなりえぐいことしてると思う」

 それに……、と、どこか戸惑いがちに、貴史は付け加えた。

「もし紗希……サロメに言ってた『アンジュ』ってのが、前田さんのことだとすると、今でも江波は、別に前田さんを憎んでいるわけじゃなさそうだ」

「でもあれ『愛していた』って過去形じゃないですか」

 哲也の突っ込みを、貴史は笑ってごまかした。

「それに、じゃあ何で、あの賢くも腹の立つ陰険猫野郎が……」

「修飾部が増えてるよ」

「茶々入れないで下さい……パンセは、どうして五年前からいきなりあの人を引っ掻くようになったんですか?」

「俺が知るか」

 軽く叩く真似をしながら、貴史は小さく笑った。

「あ、でも……」

 思いついたように停止する。

「ひょっとしたら、整形したことと関係あるのかもね」

「ないと思いますけど」

「仮説だってば、かーせーつ」

 猫のことは猫にしか解らんよ、と付け足すと、貴史は「この話打ち止め」とでも言うように、両手でシャッターを下ろすようなジェスチャーをした。

「話変わりますけど」

「何?」

「江波って、こっちにいた時から残酷だったんですか?」

 問いがあまりにもストレートすぎたのか、貴史の動きが固まった。

「永居さーん?」

 額をぴたぴたと叩くと、コラ、と言うようにその手首を捕まれた。

「あの人のことだから、って言ってたじゃないですか。俺、こっちで現役の江波は知りませんもん」

「俺だって二年しか付き合ってないよ……なんて言うか、つもりつもった恨みを晴らす……みたいな件に結構回されてたんだけど……やり口は……」

 ちょっと口ごもり、適当な言葉を探すように天井を仰ぐ。

「やり口は?」

「かなりえぐかった……惨殺と形容してもいいのもかなりあったらしい」

「処分とか与えられなかったんですか?」

 哲也は顔を引きつらせながら、問いを重ねる。

 貴史はひょいと肩を上げた。

「その頃のゼンソ統括、実質南野さんだったし……南野さんが正式に今の地位に就いたのは、俺の入った翌年だけど、俺の入った年には、もう矢代さん……つまり南野さんの前任者だけど……その人、かなり衰弱しててね……実際には補佐だった南野さんが、殆ど全部仕切ってたんだ」

「本当に血も涙もないのは南野さんの方ですか」

 あの冷たい双眸は、思い出しただけで背筋が凍りつきそうだ。

「かもね。あの当時を振り返ってみると、江波さ……江波は、自分を抑えるのにかなりのエネルギーを必要としてたみたいだから」

「前田さんの顔を焼きたい、って?」

「大方そんなところ」




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 本部。中央情報処理室。

 川崎美夏は、朝からずっとため息ばかりついていた。見るに見かねたのか、澤村達紀は、コーヒーを片手に声をかけに行った。

「美夏ちゃん、元気ないね?」

 声をかけられて初めて、美夏は自分の周囲の空間を認識したようにさえ感じられる。

「やっぱり、まだ本調子じゃないんじゃない?」

「えぇ……」

「悩みでもあるの?あ、戸川君のこと?」

 哲也のこと?

 そうだと言えばそうだし、そうじゃないと言えばそうじゃない。

 昨日の、紗希の不吉な予言が頭の中で回っている。

<戸川君が死ぬからよ>

 記憶が戻ったら、哲也が死ぬ。

 そんなことはあって欲しくなかったし、そんな事態にしたいとも思わない。

 しかし、振り払おうとすればするほど、紗希の言葉と共に蘇った記憶の断片は、自分の脳裏にこびりつく。

 血が滲んだような、赤茶色の虹彩。

「……ちょっと休んでもいいですか?」

「どうぞ。つっても君、さっきから手、完全にお留守だったんだけどね」

「すいません」

「いいよいいよ。事務員代わりにこき使われるツラサは、僕も知ってるから」

 言い方がおかしかったのか、美夏は少しだけ口元を緩めた。

「れーみさーん、澤村さんがあんなこと言ってまーす」

 プログラマーの蒲原が、実験結果の計測に来ていた麗美にチクった。

「よーく言うわね」

 美しい顔に毒のある笑みを浮かべて、麗美は達紀を振り返る。

「技術系って、昇進しても仕事内容全然変わらないんだもんよ……特にこっちは、余計な会議だのなんだのが増えるだけでさ……技術科の助言いるような件って年にいくつって所なのに」

「上に上がりたきゃ、出ないとね……ほぼ毎回サボってる人もいるけど」

 結果が思わしくなかったのか、チッと舌打ちする音が聞こえてきた。

「薬科二(薬品管理第二課)の北見逸輝?」

「誰とは言わないけど……あー、こんちきしょう……また一からやり直し!」

 嫌な予感はしてたけど、とブツブツ呟くのが聞こえてくる。

「何を?」

「整備……誤差の範囲に収まらないの。式は絶対合ってるはずなのに」

 こいつの絶対は信用できない、と、達紀の顔には書かれている。

「お疲れさん」

「人ごとだと思ってるでしょ!」

「人ごとだし」

 くったりと伸びている美夏の横に、するするとキャスター付きの椅子ごと移動しながら、達紀はコーヒーの残りを啜った。

「うわっ、超冷淡! 今度射撃の的にしてやるから!」

「十八番だね。その台詞。『食らえ、レーザービーム!』ってかい?」

「ちょっと顔貸してちょうだい」

 穏やかな言葉遣いとは裏腹に、凄みのきいた口調で、達紀の襟口を掴んで引っ張る。

「スケバンかい……わーかった、行くってば」

「ごめん、また後で」

 スライド式のドアの向こうに、麗美と達紀の姿が消える。

 相変わらずくったり伸びている美夏をチラリと眺めてから、蒲原はため息をついて首を振った。

「あれで幹部ってんだから、平和なもんだ」

 ブツブツ呟きながらコンピューターをいじっていたその表情が、サーッと青ざめていった。

「何だこれ……」




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 一方、処理室から引っ張り出された達紀と、引っ張り出した麗美は、非常口の外の階段へと出た。ここなら滅多に人は来ない。

「明日出るから」

 いきなり話を切り出されるのには慣れている。

「博士ンとこ?」

「うん。診断書下りたから……でも『あの人』は騙せるかしらね?」

 切れ長の黒い目が、一瞬その焦点をぼかした。

「どうして?」

「油断のならない人だもの……何を考えているのか解らない」

「そう……たしかにそうだね」

 達紀は長いため息をついた。胸の中に鉛が沈んでいくような感覚が、どうしても拭い去れない。

 何かを決意するように、麗美は空を見つめた。

「私は、自分の信じる道を生きたい」

 達紀は何も答えずに、ただ小さく笑った。そんなことは知っているよ、と言うかのように、麗美の肩に手を置く。

「でも、何か、私を縛ろうとするものがある……私の中に流れる血、その中の記憶……これは刷り込みかしら?」

 麗美はまとわりつく悪寒に耐えるように、自分の身体を抱いた。

「『それが』刷り込みだよ。君は君の意志で動ける。それは事実だよ」

 小さく頷いて、麗美は階段の手すりに背を預けた。思い出したように、口を開く。

「ねぇ……『あの情報』も、やっぱり、事実なの?」

「今のところ、確認をとる方法はないけど。薬科の誰かを仲間にして、DNA鑑定にでも持ち込んでみるかな……無理そうだけど」

 四課の連中は、曲者揃いだからなぁ……と、付け足す表情は、本当のところ確認などとりたくないんだ、と言っているも同然だった。

 麗美は自分の顔の中心軸をたどるように、額からあごに向かって、中指を滑り下ろしていった。

「なんだか、壮大な陰謀の中の、一つの歯車にされている気分」

「壮大……ね。どうだか。案外ちゃっちいかもよ?」

「それならそれに越したことはないわ……もしそうなら、ありがたいことね」

 達紀は困ったように笑ってから、そっと麗美の頬に触れた。

「何がしたいの?」

「キス」

 悪びれもなくそう言って、クスッと笑った。

「お断り」

「冗談だってば」

 麗美から手を離しながら、達紀は肩をすくめた。どこか寂しそうに笑いながら、麗美はすいっと手すりの上に腕を載せた。

「私の中にはあの男の血が流れているかもしれないのよ?」

「関係ないね。友人でいるうちは」

「そ。友人でいるうちは、あなたには関係ないわ……でも私には、一生逃れられないことなのよ……親は望んで選べない」

「君の中に流れる血が誰起源だろうと、別にそれで君がどうかなるって訳じゃないだろうが」

「どうかしてしまうかもしれないじゃない……たとえあの男を殺したって、私たちの中にある血が消える訳じゃない……私がいつかああならないって、誰が断言できるのよ? 私はずっと正気でいられるって!」

「血で狂うんじゃない」

 達紀の目を、麗美は見ようともしなかった。

「これなら納得がいくのよ……前田さんが戸川君に、過去を清算させようとしている理由……自分の手で精算できない理由……単なる未練以上の複雑な感情のもつれがあるのよ……ええ、そうでしょうとも!」

 堪えきれなくなったように、麗美は甲高い声を上げて笑った。綺麗だが、どこかぞっとさせられる姿だった。

「皮肉な話よ。滑稽なほど酷い悲劇……そしてあの人には、最悪のスキャンダル……最悪の、ね……」

 笑い止んだかと思うと、今度は涙が流れ出した。

 ハンカチを投げて渡しながら、達紀は呟くように言った。

「湯浅さんと南野さんの二人が、やっきになって江波を消そうとしているのには、確かに納得がいったよ……河西さんは、自分の意志で暗殺に賛成してるんだと思うけど」

「でしょうね……あの人は、ああいうややこしい駆け引きはしない人だから」

 それだけが救いかな、と言いながら、麗美は使用済みのハンカチを、達紀に返却した。

「話は微妙に変わるけど、そうすると、紗希と美夏の命も危ないかもな」

 そう言いながら、達紀は、濡れていない端の方をつまんで折り畳んだ。

「ええ……目障りだと思うかも知れないわね……」

「そう。南野圭司は、そんな男さ……」






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