第61章~第65章
このあたりから話の複雑さというか煩雑さが、指数関数的に増大していったのだった……アンドロゲン不応症は実在のDSDですが、書いた人は高校生だったので記述は鵜呑みにしないように。
61
テープの最後は、パニック状態に陥った紗希を、数人がかりで取り押さえているような音で終わっていた。悲痛な絶叫が、何度も何度も貴史の脳の中で、繰り返し響き続ける。
「こうまでして『暗黒師団』の情報が欲しかったのかよ?」
その呟きは、貴史にしては乱暴な口調だった。
二十歳にもならない女の子を捕まえて、嫌で封じた昔の記憶をほじくり返す……そのことがどんなに残酷であるか、このテープ一本で十分すぎるほど十分にわかった。
哲也は身動き一つせず、ベッドに寝転がったまま、天井を仰いでいた。
<薬への耐性が強い……何かいなげな薬物を投与されとったんかもしらん>
<快復力が強いんも、訳ありげじゃのぉ>
美夏の手首の傷を思い出しながら、哲也は瞬きを繰り返した。
何故、あんなことをしたのか、このテープからは判らない。
ただ、山村の言葉の中には、ヒントがあった。
<あがぁなぁら(あいつら)の受けた教育の中にゃぁ、何本かの柱があるんじゃ……一つ、上からの命令にゃぁ絶対に服従すること。一つ、絶対に人を信用せんこと。一つ、絶対に人を愛さんこと……じゃけぇ、愛っちゅうもんを罪だゆぅて考えとった。悪いことじゃ、と。人を殺すために作り出された兵器みとぉなもんじゃけぇな……>
美夏は、自分への罰のつもりで、手首を切ったのかも知れない。
『暗黒師団』の教育は、愛情そのものを禁止するもの。
美夏の身体には、おそらく、育ってきた世界の慣習が、以前強く染みついているのだろう。
だから、禁止事項に手を出した自分を、罰する意味を込めて、手首を切るのに違いない。
そして、だから、美夏の「愛してる」の言葉には、虚ろな響きがあるのだ。
多分あの言葉を発する時、美夏の中では、意識されているにしろ、されていないにしろ、貴史に対して紗希が抱いたのと同様な葛藤が生じているに違いない。だから表層だけのような……上滑りなものに聞こえる。
(苦しいのだろうか?)
自分の気持ちは美夏にとって、重荷以外の何ものでもないのだろうか?
美夏を支えに出来ていない自分に、そんな負担をかける権利があるのだろうか?
自分は、血を流してまで愛する価値のある人間なのだろうか?
否。
愛される価値なんかない。
三年前、江波に撃たれた仲間を見捨てて逃げ出した自分。
美夏を支えに出来ない自分。
他者に頼ることしかできない自分。
愛される価値なんかない。
もういい。もういいよ、美夏。
こんなにダメな俺のために、血を流す必要なんかないよ。
自分を傷つけてまで、愛する価値のある男じゃないんだよ、俺は。
俺との関係を続けるために、血を流さなければならないんなら、いっそのこと止めてしまってくれ。
傷ついてるお前を見たくない。
見たくない……だから……だから……
だから、苦しくて仕方ないのなら……耐えきれなくなったのなら……
俺を殺して。
こんな俺には、愛する権利も、愛される価値もないんだから。
……でも、心の奥底には、惨めな生に縋りたがっている部分がある……
生きている価値なんかないんだよ。
あの日、仲間を見捨てて逃げ出したくせに。
生きている価値なんかないんだよ。
いつまでも、死んだ兄貴の幻に縋っているバカな俺。
生きている価値なんかないんだよ。
いつだって最後は、我が身が可愛い、エゴイストなんだから。
生きている価値なんかないんだよ。
命をかけて、お前を愛しきる自信がないんだから。
自分で自分の命を絶つことさえ出来ずに、三年間、惨めな生に縋ってきた。
楽になりたい。
悪夢から逃げ出したい。
……ほら……生きている価値なんか、俺にはないんだよ。
愛される価値がないのと同じように。
62
貴史は、重い気分でテープの巻き戻しボタンを押した。
(紗希は、江波の首を落とそうとしたのがきっかけで、『暗黒師団』から抹殺されかけたって言うのか?)
何故、江波の首を落とそうとしたのだ?
紗希は自分に言っていたはずだ。
<好きになった人の首を、落とさずにはいられない>
紗希が江波を愛していたと?
いや、『サロメ』が『アドヴァーセリ』を愛していたと?
これが、ただのとんでもなく悪趣味な冗談であれば、まだ良かったのに。
たしかに疑問の余地はある。
何故『愛情』を知ることが出来たのか、ということだ。
この事に蓋をして、思考を一歩先に進めてみよう。
紗希の愛情表現は、事実、非常に歪んでいる。
それは、『人を愛すること』を禁止された環境下で育てられた結果だろう。
紗希はおそらく、一つの抜け穴を、自分で作ったのだ。
人を愛してもよい。ただし、その人間を殺せ。
殺してしまえば、愛情の対象となる人間はいなくなる。
そうすれば、禁止事項に事実上触れずに済むわけだ。
そうやって、一体何人の首を切り落としてきたのだろう?
(次は、俺が落とされる番か……?)
構いやしない。
正義を気取って、嬉々として人を殺していた自分に、逃れる権利などない。
所詮、自分も罪人なのだ。
血に濡れた手が清められることなど一生あり得ないし、許されてはいけないとも思っている。
ただ、運良く生き延びてきただけ……運良く生き残っただけ……運良く……今まで捕まらなかっただけ。
綱渡りの毎日。
こんな生活を送っている自分が、紗希の支えになどなれるものか。
紗希への気持ちに偽りはない。
だが、自分が紗希のために出来ることと言えば、血を与えることと……命を与えること……紗希のために死ぬこと……これだけだ。
出来ることなら、生きて紗希を愛したい。
でも、それは不可能なのだろう。
愛した男たちを、切り刻み続けてきた紗希の指。
<みんな、最後は、私のことを、憎しみに満ちた目で睨みつけるの>
平坦な声。
<でも、アドヴァーセリだけは、笑っていたわ……すごく、恐かった……信じられなかった……私が怯えるなんて!>
震えが混じり、トーンが高くなる。
<首を切り落とそうとした私を、逆に締め上げながら、楽しそうに笑っていた……背筋が凍りつきそうなほど冷たい笑い……>
気味が悪いほど透明な声。
<最後に彼が言った言葉……?>
抑揚さえ消えた。
<「愛していたよ、アンジュ」>
その後は引きつけを起こしたような音が続き、その合間に、どこか正気ではない笑い声が混じる……無論、紗希の声だ。
アンジュ……フランス語で「天使」か。
それとも、森鴎外の「山椒大夫」に出てくる、「安寿と厨子王」の安寿か。
まぁ、おそらく前者だろう。サロメと天使はどう考えても結びつかないが、しかし、「安寿」であるはずはない……だって……
そこまで考えてから、貴史は、江波が『ブラッディ・エンジェル』を裏切った五年前に起こした、ある事件を思い出した。
「アンジュと呼ばれた、か……」
声に出して呟くと、哲也がどこか澱んだ目を、自分に向けるのが判った。
「誰が?」
「知らなくていいよ」
顔を焼かれてもなお、あの闇色の目は、縋るように江波を見つめていたのだろうか?
あの後、彼が手術を承諾するまでに、かなりの紆余曲折があったらしいと、本部連絡員からチラリと聞いた。
結局、あれだけのことをされながらも、憎しみを抱けなかった彼は、やはり処刑執行者として指名されるべきではなかったのだろう。
どれだけ憎もうと思っても、彼の……前田の心は、江波に依存していた。
離れたくても離れられないほど、前田は江波に依存していた。
そして、無邪気な顔で、自分の居場所を次々に奪っていく前田が、江波には憎くて堪らなかったのだろう。
だがそれなら何故、江波は紗希に、あんなことを言ったのか。
63
「ねぇ、誰なんですか? アンジュって……」
哲也がどこか甘えるような声で訊いてきた。
「紗希だろ」
答える声がぶれていたのを、哲也は一発で見抜いた。
「違う……絶対……」
そう言いながら、哲也はクスッと笑った。貴史はぷいとそっぽを向いた。
嘘が下手なのは、こんな場合には嫌なことだ。入念に別の人格を作り込んだつもりでも、いざという時にうっかりボロが出たこともある。おかげで、特別狙撃手としてはかなりの割合で、連絡員の補助を受けた。
(高いんは殺しの腕だけかい)
報告書をのぞき込んだ金城が、あきれたように言っていた言葉は、今も耳に残っている。
(ま、正直なんはえぇことじゃがね)
昔のことを思い出したのは一瞬だけだ。気がつけば、哲也の真っ黒な目が、真っ直ぐに自分を見据えている。
「本当は、誰のことなんですか?」
「知りたがりは火傷するぞ」
「もう恐いものなんかありませんもんね」
何か投げやりな口調に、少しばかり腹が立って、貴史は哲也の額を指で弾いてやった。
「あたぁっ!」
「知りたがり~な哲也君にクイズです。明治の二大文豪と言えば、夏目漱石ともう一人は誰でしょう?」
済ました顔を取り繕って、第一問、とでも言うように、貴史は右手の人差し指を立てて、哲也の目の前に掲げて見せた。
「坪内逍遙……ジョークです。幸田露伴……イヤだからジョークですってば! 森鴎外でしょ?」
「国語が苦手な俺へのイヤミかそれは!」
苦笑混じりに怒鳴ると、哲也はケロリとして答える。
「あるかもしれません」
「シメちゃろか」
「遠慮します……で、森鴎外が何ですか? あ、ひょっとして山椒大夫?」
ハァーッと、貴史はわざとらしくため息をついた。
「何でそう先を読むかね……そう、あの姉弟の姉の名前は?」
「安寿……で、それが紗希さんか、永居さんの言う『もう一人のアンジュ』とどう関係するんですか?」
「小説の中で、安寿は罰として山椒大夫に何をされる?」
「熱した火箸を押しつけられて、額を焼かれる……十文字に。で、それをお守りの仏様が身代わりになってくれる」
「江波に顔を焼かれた人が、ウチの組織にいるんだよ……」
しばしの間、沈黙が流れる。
「その安寿って誰ですか?」
貴史は覚悟を決めたように目を閉じた。
「前田浩一」
哲也は我が耳を疑った。しばらくの空白。
「何ですってぇ!?」
前田が江波に顔を焼かれた?
ちょっと待て。
なんで自分にそんなことをした人間を、今でも憎み切れていないとか言えるんだ? 右足を潰されているだけでも納得しがたかったのに!
混乱している哲也を横目に、貴史の言葉は続く。
「熱したナイフを頬に当てられてね……今の顔は、手術で作った顔さ……整形手術とは言う気がしないな……前の方が綺麗だったから」
「男に綺麗って言いますか?」
半ば呆れたように、哲也が返した。尋ねたことを後悔している節が見受けられる。危険な領域に踏み込んでいっている気がした。
貴史は、信じられないほど残酷な笑いを浮かべた。
「五年前まで、あの人は半分女だったんだけどね」
「はい?!」
立ち入り禁止区域に自ら足を踏み込んでしまったような感覚が、じわじわと哲也を浸食しつつあった。
「まぁあの当時の組織じゃ、知っている奴は知ってたよ。アンドロゲン不応症とかなんとか言うので……まぁ要するに男でも女でもある身体……つーても、尾崎さんの話を聞く限りでは、男でも女でもないと言った方が当たっていそうだけど……子宮もないし、精嚢もない。アンドロゲンって男性ホルモンのレセプターが欠如してるせいで、両方とも未分化になってるんだと。生物はとってなかったから、よく解らないけど……
本人は男のつもりで、だから浩一って男の名前なわけだけど、一時期女として育てられてたことがあったらしくってね……」
64
訊いてはいけないことを、無理に訊いてしまうのは自分の欠点だ。
開けてはいけなかった箱を開けたパンドラを、自分は非難などできない。
「自分が壊れるのを防ぐために、自分を分解したんだと、一緒に組んだ時に話してくれた……父親は自分を、事故死した母親の身代わりにしたんだと。その結果、自分はどこまでも男のつもりでも、自分の中には、別に、自分を女だと思っている部分が出来てしまったんだ、と……
あの人当時から、一匹狼って組織じゃ有名だったから、俺の補佐に入るって話がまとまった時にはかなり騒がれたよ。あの人がなついていたのは、江波と尾崎さんだけだったんだから。なつくって言っても、気が向いた時だけ構ってもらいにいく、って感じだったし。
一緒に行動して初めて、あの人が一匹狼やってる理由が判ったんだけど。
一人が好きだから一人でいるんじゃなくて、一人でないと不安なんだよ……もし自分を支えようとする人間が現れたら、その人間に完全に依存してしまうだろう自分が、恐いんだと言っていた」
その後で、もう手遅れだがね、と、小さな声で付け加えていた。
貴史はいったん言葉を切った。
話してはいけないことを話している。
だが、もう聞き続けるだけには疲れた。黙っているのには疲れた。
人の話を落ち着いて聞けるほど、哲也の精神は成長していない。
それでも、もう言葉は、堰を切ったように溢れ、流れ出ようとしていた。
結局俺も自己中心なんだな、と、貴史は心の中で、自らを嘲り笑った。
「前田さんにとって、江波が特別な人間なのは、端から見てても判ったよ。それが何故なのかは、前田さん本人の口から聞いて判ったんだけど……
さっき言っただろ?父親に、事故死した母親の身代わりにされた、って……あの人は父親を殺して、この組織に入ったんだ。その時、手を貸したのが江波だった……あの人にとって、江波は救出者の象徴みたいなものさ。救世主だ。
毎回毎回あんまりにも完璧に任務をこなすから、妬みやっかみ混じりに冷血とか散々言われていたけど、前田さんも人間だよ。たぶん今もだと思うけど、あの人、江波のためになら死ねるんじゃないのかな?」
ため込んだものを一気に吐き出すように言って、貴史はやっと、哲也の目に気づいた。光のない真っ黒な目。
「んじゃ、今回俺らが江波を殺したら、あの人どうなるんでしょうね?」
「さぁね?」
「もう残骸だ、って笑ってましたよ、本部で」
「だろうな……もう自分の命以外、何も残ってないって、自分で言ってるっていうんだから……金城さんが愚痴ってきたんだけど」
ひょいと見ると、一瞬だが、哲也の瞳に光が戻った。
「ちょっと思ったんですけど……」
「何?」
「そうやって永居さんは、自分でも気づかないうちに、人の秘密を大量に握る身になってるんですね」
「人聞きの悪いことを言うね。悪用なんかしないよ」
少し睨むような目をしてみたが、哲也の目はすでに焦点が合っていない。
「そう。みんなそれを解っているから、永居さんには何でも話すんだ……他の人には言えないけれども、話さずにはいられないこと……」
「おい! ちょっと!」
ずるずると、哲也は身を乗り出してくる。そのしなやかな腕が、自分の身体に巻き付けられていくことを知るまで、時間は要らなかった。
「哲也!」
唐突に絡みついてきた哲也に、戸惑ったように声をかける。上の名前で呼ぶ余裕もなかった。
「いいでしょう……身代わりにしたって……」
弱々しくなっていく声とは対照的に、腕の力はどんどん強くなっていく。
絡みつく、というより、縋りつく、あるいはしがみつく、と言った方が良さそうなほどきつく、力を込めて。
「哲也!」
「もう会えるはずないって解っていても……でも……」
貴史は、哲也が何を言おうとしているのか悟った。
「哲也……」
自分を、殺された兄の身代わりにしているのだ。
「兄貴。もう、俺、疲れたよ」
あんまりにも自然に言われて、貴史は一瞬、自分が本当に哲也の兄であるかのような感じがした。だから、その髪に触れ、頭を撫でるのにも、以前の時のようなためらいは、全く感じなかった。
子どもみたいに柔らかい髪だ、と、頭を撫でてやりながら思った。
前に触れた時は、そんなことまで気が回らなかった。
髪のように、彼の心も、ひょっとすると子どものまま、ずっと停止しているのかも知れない。ずっと子どものまま。
「疲れた?」
「うん……だって俺、血を流してまで愛してもらえるような人間じゃない」
「どうして?」
「美夏を、裏切ってる……」
「どういうことだ?」
哲也は何も答えなかった。
階下から、百合の呼ぶ声が聞こえるまで、ずっとそのままだった。
(哲也はずっと、憎しみだけで生きてきたんだ……)
ごめんなさい、と言いながら、手の甲で涙を拭う哲也は、実年齢以上に幼く見えた。その様が、何故か紗希に重なった。
「任務に、戻れるか?」
自分だって不安なのに、何を尋ねているんだと、内心で思った。
哲也は、どこか痛々しいほど、元気な笑みを返した。
「大丈夫ですよ」
65
階段の方に出た瞬間、焼き菓子を作った時の、甘い匂いが鼻を衝いた。
「デザートって、先に作ってあったんじゃないんですか?」
昼の量が多くて、おやつに回したのではなかったか?
「そうだと思ってたけど……まぁいいか」
細かいことは気にしない。
階段を下りると、私服になってすっかりくつろいだ格好の山村が、コップの水を干したところだった。
「勝手につまみ食いなんかするから、火傷するんよ」
大きな深皿に、焼き上がったクッキーをどさどさと落としながら、お小言を言う孫娘に、山村はいたって大人しい。
「えーと、こっちが明日の礼拝の後に配る分か……」
「今日のおやつの分はそっちよ」
ふさがった手の代わりに、目だけで示すその先には、青く透き通った厚手の硝子の深皿に、焼き上がったばかりのクッキーが盛りつけてあった。
「あ、先座ってて下さい」
使い終えたプレートに水をかけながら、百合が言った。
「お手伝いしましょうか?」
哲也の言葉に、百合はにこっと笑った。
「じゃあ、その小さい方のお皿、運んでもらえます?」
「はい」
見れば、ダイニングのテーブルには、抹茶のババロアとフルーツが、綺麗に並べられていた。
「豪勢なおやつだな」
「夕ご飯入らなくなるかもしれませんね」
「それはありえんじゃろ」
さっき使ったコップと、未使用のコップを併せて四つ並べながら、山村が会話に加わる。
「どうしてですか?」
「われの胃袋は底なしじゃけ」
クックッと笑いながら、山村は貴史の方を見た。
「そんなことないですよ」
苦笑する貴史の足下に、いつの間にかパンセがすり寄っていた。
「抹茶ダメなら私が食べます。イチゴのムースもありますから」
そう言いながら、百合がよく冷えた真鍮の薬缶を、クッキーを盛った深皿の横に置く。
「いけまーす」
「同じく」
「じゃ、問題なしですね……」
ミルクを入れた皿を、コトリと床に置く。貴史の足にじゃれついていたパンセが、ササーッとそっちの方へ移動した。
「腹の立つ猫」
哲也がぼそっと呟くと、残りの三人が吹き出した。
「まぁそう言わんと」
「だって俺のことは引っ掻くくせに……」
パン! と、手を打ち合わせる音がしたので、そこまで言ったところで、哲也は口をつぐまざるを得なくなった。
「あなたの与えて下さったこの食物を、感謝していただきます。アーメン」
いくら無宗教者でも、お祈りの邪魔をするほど無粋ではない。
「いただきまーす!」
さっきの火傷が痛むのか、山村は真っ先に薬缶からお茶を注いでいる。
「先生、クッキーは?」
貴史がさっきの仕返しとばかりに、ニヤニヤ笑いながら尋ねる。
「しばらく遠慮する」
「じゃ、お先に失礼して」
赤いドレンチェリーの載った一枚に手を伸ばすと、温度を確認してから口に放り込む。
「おいしい」
「ありがとうございます」
すでにババロアを三分の二ほど平らげていた百合が、ニッコリ笑った。
「げに、甘いもなぁ別腹じゃのぉ」
「別腹ちゃうの。甘いもんばかり入るんよ」
「同じことじゃろうが」
「ちーがーう」
答えながらも、百合の手は休まない。ババロアを平らげると、百合は今度はクッキーに手を伸ばした。本当によく食べる。ひょっとして、夕ご飯が入らなくなることはない、と山村が言ったのは、百合が食べるから……という意味だったのだろうか?
そんなことを考えながら、哲也は薬缶から注いだお茶に口を付けた。
「何かちょっと変わったお茶ですね?」
「庭で育てているハーブを混ぜてみたんです」
言葉遣いが、広島弁からいきなり共通語に切り替わって、哲也は一瞬面食らった。どうやら、祖父と話す時以外は共通語を通すつもりらしいが、目の前でポンポンと切り替わると、どうにも奇妙な感じがする。
「ハーブ?」
貴史が口を挟んだのが、哲也には助け船のように思われた。
「カモミールとかローズマリーとか……あとでご覧になります?」
「ええ、是非……全然知らないんですけど」
正直な貴史に、百合は面白そうに笑った。ミルクを平らげたパンセが、音もなく床を走っていった。




