閑話 真名の結び
仕事終わりの迪遼が執務室の長椅子の上で伸びていたところ、小さな翠玥がてとてとと寄ってきた。
「老師のお名前は、老師じゃないの?」
翠玥は好奇心に満ちたくりくりとした瞳で迪遼を見上げた。紅葉のような手で掴んでいる絵本の題名は『紅紅老師』だった。
迪遼は起き上がって話を聞く姿勢をとった。
「そうですよ。老師は本当は迪遼という名前なんです」
「迪遼?」
翠玥は目を擦った。名前を呼んだ途端、迪遼が淡く光っているように見えたからだ。ふくふくした手で目を覆っても光は消えずにじんわりと感じられた。翠玥は首を傾げた。目を閉じても開けても迪遼がそこにいるのがわかる。
「上手に言えましたね」
迪遼はよくできましたと笑って、目を眇めたり大きく開いたりしている翠玥を思う存分撫でた。揉みくちゃにされながら翠玥は迪遼を指差した。
「老師が光ってます」
「眩しいですか」
「眩しくはないです。でも、光ってます」
「私にもあなたが輝いて見えますよ。名前を知るというのはそういうことなんです」
翠玥は一旦は頷いたが、目の前の不可解な現象についてもっと知りたかった。
「なぜ光るの?」
「なんででしょう。わかりやすいからかな」
迪遼は内緒ですよというふうに、指を立てて唇に当てた。
「そう、大事なこと。普段は老師と呼んでくださいね。私たちの一族は軽々しく本名を晒さないものなのですよ。私もいつも、あなたのことを小玥と呼んでいるでしょう?」
「どうして本名を晒さないのですか」
「名前を知られると魂を掴まれるからです」
「たましい?」
「まだ難しいですね」
迪遼は笑った。
「かわいい小玥。魂というのは、この小さな胸の奥の奥に宿って、あなたの体と心を動かしているものです。私の目に輝いて見えるあなたの存在そのもの」
「魂は私なの?」
「そうですよ」
「老師も、魂なの?だから光ってるの?」
「そうです。私もあなたも一個ずつの魂です」
「老師は、私の魂を掴んでいるの?私も今、老師の魂を掴んだの?」
「そうですよ。私は、どこにいてもあなたがわかるでしょう?それは魂を掴んでいるから」
「それっていいことですよね」
「私とあなたの間ならね。だけど、知らない人を寝室に入れないように、名前も他の人には内緒にするんですよ」
翠玥は不思議そうな顔をした。
「でも老師、静雨は?静雨は名前を堂々と名乗ります」
「あれは呼び名で本当の名前ではないんですよ。仮名とも言いますね」
「私の呼び名は小玥?」
「そうですよ。実は私にも呼び名はあって、天玄と言います」
「お店の名前と一緒ね」
「そうなんですよ。私のお店だから『天玄堂』なんです」
「もし、老師のお名前が『老師』だったら『老師堂』になってたのね」
迪遼は相好を崩して翠玥の賢さを褒め称えた。翠玥は微妙な顔をして、迪遼の頬擦りから逃れた。
「なんで老師は呼び名を教えてくれなかったの?」
「天玄って呼びにくいので。老師の方が滑らかに言えませんか?呼びにくい呼び名だからあまり気に入ってないんです」
「阿刀羅はなぜ本名のままなの?」
「阿刀羅は式神なので、あの娘の魂は他の人が掴めないようになっているんです」
「先に掴んだら安心なの?」
「早い者勝ちではありません。だから、大事な人にだけ教えます」
「老師は、」
翠玥が少しもじもじして言葉を切った。
「なぁに?どうしたんですか、小玥」
「老師は、2人の名前を知っていますか?」
「阿刀羅の本名は阿刀羅です。静雨は知りませんねぇ。多分彼自身も覚えていないんじゃないかな。カラスですからね」
「ふぅん、静雨にはないの」
翠玥は不思議そうに目を瞬いた。
「じゃあ、老師のお名前を2人は知っていますか?」
「静雨は知っています。私の本当の名前はお店の正面扉の鍵でもあるので、知らないと望んだ時に入れないんですよ」
「お店、私も入ってみたい」
「あそこは老師の仕事場です。小玥が入れるのはもう少し大きくなってからですね」
「私はもう5歳よ」
「そうですねぇ。老師の読むような大人の本がわかるようになったらいいかなぁ」
迪遼は不満げな翠玥を抱き上げて膝に乗せた。
翠玥は少し唇を突き出して、『紅紅老師』の絵本を睨んでいた。そして、ふと視線を上げた。
「そういえば、阿刀羅は?老師。阿刀羅は老師のお名前を知ってるの」
「阿刀羅は私の式神なので、契約上私の本当の名前は教えたらダメなんです」
「ふぅん」
翠玥はいつの間にやら迪遼の指をいじって犬の形を作ろうと苦心していた。迪遼は膝からずり落ちそうになっていた絵本を取り上げて、執務机の上に置いた。
手遊びの中で翠玥はすっかり機嫌なおしていた。
「名前を知り合っているのは私と老師だけですか?」
「そうですよ、私たちだけです」
「ふぅん。うふふ」
「小玥、ご機嫌ですねぇ」
「老師との内緒が嬉しいんです」
翠玥のはにかみは迪遼の心を撃ち抜いた。
「ああもう!なんて、かわいいんでしょう。食べちゃいたい」
「食べちゃダメですよぅ、老師」
翠玥は少し怒った顔をした。それもまた可愛らしいなと、育ての親であり親バカでもある迪遼は思った。




