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天玄堂仙譚  作者: 由花子
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銀の小箱

「老師(ろうし)、今日はお客様いらっしゃるかしら?」

耳の横で結えたお団子を揺らして翠玥(スイユエ)が尋ねた。今年10歳を迎えた彼女は、骨董店『天玄堂(てんげんどう)』の店主の養い子で、今日初めて店頭に上がることを許された身だった。翠玥は翡翠色の瞳を輝かせ、店の正面扉の硝子を覗き込む。

「小玥(シャオユエ)、気になる気持ちはわかりますが、そこにいては扉が開いた時に頭をぶつけますよ」

優雅にお茶を飲んでいた青年が嗜めた。腰まで伸びた長髪に臙脂色の上品な色柄の華服に身を包んでいる、一見すると女性のような美貌の持ち主が天玄堂の店主である迪遼(ディーリャオ)だった。

「はぁい」

翠玥は返事をしながらなかなか扉から離れない。つま先立ちをして熱心にくもり硝子の奥を見つめている。迪遼が声をかけるともう少し、もう少しと繰り返すので、最終的に「こっちへいらっしゃい」と迪遼に引き剥がされた。

「不安になってきました。まだお店に出すには早かったかも」

「そんな、老師。お客様がいらしたら私、しっかりします」

迪遼はため息をついて、翠玥に尋ねた。

「私との約束は覚えてますか?」

「はい、老師。元気よくいらっしゃいませということ、商品には直接手を触れない、お客様とは節度を持った距離感で、お約束は守ります」

うちの子、本当にお利口さんと迪遼は内心思った。

ドアベルの華やかな音と共にその人は現れた。仕立てのいい単色の上下の服を着た、穏やかそうな老紳士だった。顔の凹凸がはっきりとしていて、全体的に色彩が柔らかい。彼は店内に入ると、帽子を片手に持ち迪遼に会釈をした。

翠玥は迪遼に倣って老紳士に「いらっしゃいませ」と声をかけた。

老紳士は店内の調度類を見回して、ショーケースに目を留め、最後に迪遼と翠玥を見つめた。

老紳士からは見慣れないものに対する戸惑いを感じたが、異国人に対する好奇や興味の視線ではなかった。

老紳士は翠玥を手招いた。翠玥が近寄ると紳士は上着から色とりどりの柄のついた小さな包みを取り出した。

「レモン・キャンディだよ。お嬢さん」

「ありがとうございます」

翠玥は飴を握りしめてお礼を言った。

迪遼が微笑みを浮かべると、老紳士はじっと見たことを不躾だったと詫びた。

「失礼ついでですが、あなた方は東洋人ですね?……長いことこの街に住んでいましたがこんな異国風のお店があったなんて、知りませんでしたよ」

「当店は必要とされている方しかお招きしませんので、広くは知られていないんです」

「ですが、私はもう30年来、土曜日には同じ道を通って図書館に行くのが習慣なんです。このお店は突然現れたようにしか思えない」

「当店を訪れる方は皆そうおっしゃいますよ。この店を見つけて、かつ訪れたということは、お客様には求めるものがおありなのでしょう。私共はそのお望みを叶えて差し上げるためにいるのですよ」

老紳士は淡々と返した。

「いいえ。私には何の望みもないのですよ、求める心さえも」

「本当に、求めるものがないと?ご覧なさい、この店は古今東西のあらゆる品物が並んでいるのですよ」

迪遼は一歩前に出て、店内のショーケースを指し示した。

「たとえばこれは、竜巻で飛ばされてきた家の下敷きになった魔女が履いていたという靴。履く者の本当に帰りたい場所に連れていってくれます」

迪遼は小さな赤い宝石で覆われた踵(かかと)の高い靴を取り出した。

「この紗の領巾(ひれ)は天女の羽衣で、身につけると空を飛べるのだとか」

今度は空気のような質感の七色に輝く細布を取り出した。

他にも、素晴らしい細工のついた金の鳥籠や、物々しい三面鏡など、次々と広げられる目にも美しい品々を、老紳士はなんの感動もない瞳で眺めていた。

「……いかがです?どれも当店でしかお目かけられない名品ですよ」

迪遼は反応を試すように老紳士に尋ねた。

「どれも御伽話(おとぎばなし)のようで……いいえ、信じる信じない以前に、私は自分で何かを望むということができないのです。空を飛ぶことに憧れられたらどれほどいいか」

「憧れたい、ですか……」

「あなたのご紹介してくれたものは、美しかった。ですが、私にとってはそれだけです。何も感じない。全てのものは私をただ通り過ぎていく……誰に会っても何をしていても、型通りの普通をなぞっているに過ぎない」

老紳士は一瞬翠玥に視線を向けた。

「私は図書館に通っていると言いましたね。昔、私は本が好きだった。でも今となっては習慣として頁を捲るだけ……」

老紳士は見ず知らずの異国の民に自分の内情を喋ってしまっていることには、何の疑問も抱いていないようだった。

迪遼はこの人ははじめから誰かに話したかったのだろうなと思った。

「そう、私は……強いていうならば自分の心を取り戻したいのでしょう」

迪遼は優雅に椅子に腰掛けて、少し考えるように顎に手を当てた。

「では、こういった物はどうでしょう」

迪遼は何かを思いついたように指を鳴らした。小気味良い音が響いたと同時に、店の奥から迪遼の式神の阿刀羅(アトラ)が投射機を載せた台車を押して現れた。よく見ると、性別こそ女性だが阿刀羅の顔は迪遼に瓜二つだった。迪遼は得意そうに立てた指を回した。

「過去を映すのはこれが一番。なんたって動きますからね。わかりやすい」

「過去を……?私の過去を見るということですか、なぜ」

老紳士は実に落ち着き払って尋ねた。

「たぶんね、あなたは心がないのではなく、感情を封じてしまったんです。楽しいとか憧れるとか、そういう感情を。ですから、あなたの過去をお見せして、あなたがかつて抱いていた望みを見つけて差し上げたいんです。無い願いは叶えられませんからね」

「魔法使いのようなことを言いますね。その投射機、本当に過去が映るのでしたら、そのお嬢さんにはお見せできません。私の過去は、子供に見せるような物ではない……直接戦地には赴いていないのですが……」

老紳士は初めて言いにくそうに言葉を濁した。感情の喪失は戦争が起因かと迪遼は当たりをつけた。珍しくはない。

「あぁ……なるほど、戦争のご経験者でしたか」

「えぇ……いや、申し訳ない。正直自分でも、見たく無いのです……」

「そうですか……それなら仕方がないですね」

迪遼は本当に残念そうに言った。大方新しく手に入れた道具を使いたくて仕方がなかったのだろう。阿刀羅は無言のまま台車を押して去っていった。

「お客様ご本人のお望みがわからなければ、商品の方にあなたを招いた事情を聞くしかないですね」

人と違って骨が折れるんだけどな、と迪遼が立ち上がったその時、パッと翠玥が駆け出した。

「待っててください」

翠玥は倉庫に向かうと、ぎっしりと物が詰まった棚の隅で、翠玥の掌ほどの銀の小箱を迷わず見つけた。

「声の主はあなたね?」

翠玥は商品に直接触れてはいけないという言いつけを守って小箱を手巾に包み、そうっと取り出した。

翠玥は店に戻ると老紳士に小箱を差し出した。

「このお姉さんがさっきからずっと呼んでます」

迪遼が翠玥の肩に手を置いて小箱を覗き込み、嘆息した。

「……小玥、あなたは波長が合いやすいですね」

老紳士はひたと銀の小箱を見つめた。

「これはキャンディ・ボックスですね。さっきお嬢さんにあげたあの飴が入っていた……」

老紳士は翠玥の手から銀の小箱を受け取ると、表面を撫でた。

「うちにもいくつかあるんですよ。これも習慣の一つでね。なぜ買っているのかは忘れてしまった。これは随分古い、30年以上前のデザインだ」


“パパ、忘れないで。私を見てよ。”


小箱はずっと老紳士に叫んでいた。

「開けて、見てあげてください」

翠玥は老紳士を促した。

老紳士は小箱を開いた瞬間、カッと目を見開いた。その手はぶるぶる震えていた。

「………アンゲラ」

老紳士の手から滑り落ちた小箱を翠玥は咄嗟に受け止めた。

「小玥!」

迪遼が声を上げた。

商品に直接触ってはいけないのだと気がついた時には遅かった。

小箱を掴んだ途端に、翠玥の脳裏に記憶の断片が流れ込んできた。

草いきれと日差しの中、見知らぬ女性と金髪碧眼の若き日の老紳士に駆け寄り、抱き上げられ、明るい笑い声が響く。

次の場面では、黒い制服を着た老紳士の精悍な姿を誇らしく見上げた。

「パパ、かっこいいわ」

景色が切り替わった。同世代の子供達と大騒ぎしている。いけないと知りつつお酒を飲んだ。ダンスホールで軽快な音楽に合わせて思っても気持ちは晴れない。

暗い室内の中に老紳士がいた。叱ってくれることを期待したのに「好きにしろ」と言い残した。

机の上に散らばる大量の書類。内容はほとんどわからない。それらを破っては捨てた。

「パパ、私を見てよ、私を愛してよ」

目に飛び込んできたのは、小さな黒い鉄の塊。オモチャのようなそれを、人目を避けて引き出しから持ち出した。震える手で仕掛けを立てる。

「見てよ……」

何度も視界が滲んだ。浅い呼吸だけが響く中、覚悟を決めたように指を引いた。

乾いた破裂音が空気を切り裂き、赤と黒が目まぐるしく入れ替わる。

翠玥は気がついたら迪遼に抱きしめられて、涙を流していた。迪遼の体温に硬直していた体の力が抜けていくのを感じる。

最後に聞こえた悲しい音は今も耳にこだましていた。

「……老師?」

「小玥、手を離せますか」

握り込んでいた手をそっと解いて、迪遼は翠玥の手から小箱を受け取り、ショーケースの上に置いた。そして、ぼんやりとしていた翠玥をゆっくり椅子に座らせると、水を注いで飲ませた。

「彼女に応えられましたか、お客様」

翠玥の背を撫でながら、小箱に視線を向けて迪遼が言った。

老紳士が膝を折って翠玥と視線を合わせた。

「君も見たんだね?娘の記憶を」

翠玥は涙を流しながら頷いた。老紳士もまた、両目から熱い涙を流していた。

「すまないことをしたね。あの飴はこんな気持ちの時にこそ食べるんだ……あの子の好物だった」

老紳士は懐から残りの飴の包みを取り出すと、翠玥に全て握らせた。

「あげるよ。私にはもう必要ないんだ」

翠玥が飴を含むのを見届けると、老紳士は立ち上がって、脇に挟んでいた帽子を深く被った。

「お嬢さんを泣かせて申し訳ありませんでした。この小箱は娘が作った宝箱です。ビーズやリボン、そんなものばかりを集めている子だった。よく私に自慢していたものです」

老人は愛しそうに小箱を見つめた。

「これが、私の求めていたものです。私に、譲っていただけますか?」

「ええ。勿論です。お買い上げありがとうございます」

老紳士は支払いを終えて、最後に優しい目で翠玥を一瞥し、店を出て行った。

扉を開閉する一瞬街頭のざわめきが聞こえた。それもすぐにかき消える。

少しして、扉の向こうから微かな残響があった。

聞き覚えのある音に、翠玥の脳裏に浮かんだのは最後に見た老紳士の後ろ姿だった。翠玥は考えるより先に店の外へと飛び出していた。

扉を開くと老紳士も、街も、確かに聞こえた喧騒も、そこには何もなかった。

ただ、どこまでも続く草原と、風に揺れる木々があった。

「小玥、冷えます。中へ」

呆然と立ち尽くす翠玥に迪遼が寄り添った。

「あのお客様はどうなったの」

「店の扉は入ってきた場所に繋がります。ここは私達の場所。あのお客様はご自身の居場所に帰りました」

そっと肩を抱く迪遼の手から逃れるように翠玥は振り返った。

「でも、あの音は、あれは……老師はご存じだったの?」

「いいえ。誰がどのような結末を辿るかは、私にはわかりません」

「知っていたら私を止めましたか」

翠玥は俯いたまま尋ねた。

「いいえ。私の仕事はお客様をお客様の望みの品物と引き合わせること。望みの責任は彼らが持つべき物です」

迪遼は慰めるように言った。

「小玥。貴女のおかげで彼は望みを叶え、失われた記憶と心を手に入れました」

翠玥はかぶりを振った。

「わからないわ、望みを叶えることが死を招くなら、それは叶えて良い望みなの?」

翠玥の目から涙が溢れた。迪遼は少し間を置いてから静かに言った。

「望みの善悪を判断する立場に私はありません。彼の人生も。死が救いなのか絶望なのかすら、本人しかわからないこと」

迪遼は翠玥を抱きしめて、次から次へと流れる涙をそっと拭った。

「小玥、慣れろとは言いません。分かれとも。ただ知ってください。この店を訪れる様々な人間。彼らが何を望み、何を選び、どのような結末を迎えるのかを。あなたは人をよく知り、自分をよく知り、あなただけの基準で世界を見てほしい」

「老師、私は今悲しいの、悲しいのよ」

「そうですね、とても悲しい」

今言ってることの全てがわからなくてもよいと迪遼は思った。ただ、今日の悲しみがいつか糧になる可能性を知って欲しかった。

翠玥の背を撫でながら、迪遼は苦い気持ちだった。まさか、店に出すと決めた日からこのような残酷な面に触れさせてしまうとは思っていなかった。

次は、必ず手袋をさせて、彼女が駆け出したら止めなければ。迪遼は後悔でいっぱいだった。阿刀羅を側に付けておけば小箱に触れることもなかったかもしれない。

そもそも、店に出す必要など本当にあるのだろうかと頭をよぎる。しかし、彼女を閉じ込めて育てることはできない。それは分かりきっていた。迪遼に用意できる人と関わる場はこの店に限られる。迪遼は葛藤し、今まさに泣いている本人の意思を確認してみることにした。

「しばらく、心が落ち着くまでお店に出るのはやめにしましょうか?」

「それは嫌です。老師、お約束守りますから」

「また辛い思いをするかもしれないですよ」

「……老師の言ったこと、考えたいの。ダメですか?」

そう言われると、迪遼にできることは安全対策を講じることだけだった。

小箱に宿った娘の過去を見て、翠玥の心が受けた衝撃を思うと辛かった。あの様な死の記憶を見せたくはなかった。

迪遼は落ち着かない時はいつもそうするように、翠玥を抱き上げて歩いた。

「初めてのことばかりで、今日は疲れたでしょう。阿刀羅を呼んでお茶にしましょうね」

翠玥は迪遼に頭を預けて、首の動きだけで頷いた。

レモン・キャンディは爽やかな香りだけを残して、舌の上で小さく甘く、しかしほろ苦く溶けていった。

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