第一話 火薬エンジニア、異世界へ
ハルト――本名、一ノ瀬晴人。
彼は日本の防衛産業を支える民間メーカーに勤めるエンジニアだった。
化学と精密機械を専門とする技術者であり、特に火薬に関する知識は社内でも群を抜いている。もっとも本人は、それを特技だと思ったことは一度もない。
その夜、ハルトは会社の極秘プロジェクトに関わる作業のため、地下倉庫にいた。
巨大な特殊コンテナの中には、新型手榴弾が整然と並んでいる。
総数――一万発。
ハルトは端末を確認しながら、最後の検品作業を終えた。
「よし……これで全部だな」
小さく息を吐く。
あとはコンテナのロックを確認して帰宅するだけだった。
電子パネルに手を伸ばした、その瞬間。
空間が歪んだ。
「……は?」
倉庫の壁が波打つ。
床が揺れたわけではない。
まるで世界そのものが捻じ曲がったかのように、視界がぐにゃりと歪んでいく。
「なんだこれ……!?」
耳鳴りがした。
立っていられない。
次の瞬間、足元の感覚が消えた。
床が消失したのだ。
「うわっ!?」
ハルトの身体は闇の中へ投げ出された。
慌てて手を伸ばす。
指先が触れたのは、つい先ほどロックしたばかりの大型コンテナだった。
反射的に取っ手へしがみつく。
その途端――。
【時空の歪みを検知】
鈴の音にも似た、不思議な声が脳内へ直接響いた。
【対象個体『一ノ瀬晴人』を別世界へ転移します】
「は?」
【特例措置を適用】
【対象が強固に接触している所有物を初期所持品として認定】
【所有権を再設定します】
「待て待て待て! 何を勝手に――!」
思わず叫ぶ。
だが声は最後まで続かなかった。
眩い白光が視界を埋め尽くしたからだ。
意識が遠のいていく。
異世界。
転移。
そんな単語が頭をよぎる。
だがハルトが真っ先に考えたのは、もっと現実的なことだった。
(一万発……)
(会社の備品、一万発……)
(紛失扱いになったら人生終わるぞ……!?)
始末書どころではない。
クビかもしれない。
いや、もっと大変なことになる。
そんな悲痛な思考を最後に、彼の意識は闇へ沈んだ。
◇
ぽたり。
冷たい水滴が頬に落ちた。
ハルトはゆっくりと目を開く。
視界に映ったのは、見慣れた地下倉庫の天井ではなかった。
巨大なシダ植物。
どこまでも続く深い森。
空を覆う灰色の雲。
降り続く雨。
「……どこだ、ここ」
呆然と呟く。
立ち上がろうとして、すぐ横に巨大な影があることに気づいた。
灰色の鉄塊。
見間違えるはずもない。
手榴弾一万発を収めた特殊コンテナだった。
「……来てるのかよ」
思わず頭を抱える。
異世界に転移したかもしれないという事実よりも、コンテナまで一緒に来ていることのほうが衝撃だった。
そのとき。
カチッ。
電子パネルが自動で起動した。
表示された文字を見て、ハルトは固まる。
残弾数:10,000 / 10,000
所有者:ハルト
「所有者……ハルト?」
思わず自分を指差す。
誰に確認するでもない。
だが周囲には雨音しか存在しなかった。
スマホもない。
財布もない。
会社もない。
知り合いもいない。
あるのは見知らぬ森と、一万発の手榴弾だけ。
「いや……どうしろっていうんだよ、これ」
雨に打たれながら、ハルトはその場に座り込んだ。
後に世界中へその名を轟かせることになる「雷の英雄」。
ガルダ城を半日で陥落させ、幾つもの国を従える伝説の覇王。
その英雄譚は――。
雨の森で途方に暮れる、一人のエンジニアから始まったのである。
冷たい雨がシダの葉を叩く音だけが、静かな森に響いていた。




