第三十一話 終焉
レイス三機の反応が戦術モニターから消えた瞬間、ヘリオス艦橋を満たしたのは歓喜ではなく、嵐の目に迷い込んだような不気味な静寂だった。誰も笑わない。拳を突き上げる者もいない。喜ぶには、まだ空があまりにも黒かった。主スクリーンを埋めるヴォイドⅡの群れ。その遥か彼方には、人類の十五年間を喰らい続けてきたアトラスが浮かんでいる。あまりにも巨大で、それはもはや兵器には見えなかった。世界の上に置かれた黒い墓標。その中心ではブラックホールが脈打ち、周囲の星明かりを飴細工のように捻じ曲げながら呑み込んでいる。三機の亡霊を葬ったところで、人類はまだ死神の喉元へ刃を届かせただけだった。
「第一、第二、第三アークキャノン、状況報告。」
ガイウスの声が静まり返った艦橋を切り裂く。
「第一、砲身正常。重力収束率七十二パーセント。」
「第二、外郭装甲に損傷。発射機構は正常です。収束率六十九パーセント。」
「第三、側面装甲損傷。主機構に異常なし。収束率七十四パーセント。」
ライラの指が震えるほどの速度で戦術画面を切り替えていく。三基のアークキャノン。その砲身内部では青白い重力光が幾重にも渦を巻き、少しずつ密度を増していた。それは地上から天空の神へ突き立てる、人類最後の三本の槍だった。だが、まだ穂先は完成していない。
「最終収束まで?」
「推定六分四十秒です。」
六分四十秒。その数字が告げられた瞬間、艦橋にいる全員の視線が同じ場所へ吸い寄せられた。戦術モニターを埋め尽くす赤い光点。レイスを失ったヴェスター軍は退こうとしていない。それどころか、散開していたヴォイドⅡが一斉に機首を巡らせ始めた。第一へ。第二へ。第三へ。数百の敵影が、三基のアークキャノンを目指して殺到する。空そのものが意思を持ち、人類を押し潰そうとしているようだった。
「敵機、全隊進路変更! 推定三百二十……増加! 三百八十! 後方からさらに接近! 四百を超えます!」
ライラの声が上擦る。
「全部……アークキャノンを狙ってる。」
イザベラが唇を噛む。レイス三機を倒した。その安堵が胸に触れるより早く、敵は次の刃を喉元へ突き付けてきた。ガイウスは黙ってモニターを見つめていた。もはや策略も奇襲も必要ない。敵も理解しているのだ。この六分四十秒が、人類という種に残された最後の時間だと。
「全軍へ。」
通信回線が開かれる。カイ、アッシュ、ガレス、ローガン、ダリウス。そして戦場に残った全ての兵士へ、その声が届く。
「聞いての通りだ。アークキャノン最終収束まで六分四十秒。」
ガイウスは一度だけ息を吸った。命令を下す声は冷静だった。だが、その拳は白くなるほど握り締められていた。
「それまで三基を守れ。一本でも失えば、ここまで死んだ全員の命が無駄になる。」
数秒の沈黙。その重さを吹き飛ばすように、通信の向こうから乾いた笑い声が聞こえた。
「六分四十秒か。」
ローガンだった。
「長いな。」
ガレスが返す。
「お前にはな。」
「何だと?」
「死ぬなよ、ローガン。」
わずかな間。
「そっちこそな。」
それ以上はいらなかった。明日また会おうとは言えない。生きて帰ろうとも言えない。それでも二人の短いやり取りには、死地へ向かう男たちが口にできる精一杯の願いが詰まっていた。カイはType-Kのコックピットで残弾表示を見つめる。重力ライフル残量三十二パーセント。アークシールド出力六十一パーセント。右脚部損傷。左肩部冷却系異常。警告表示は傷口から流れる血のように赤くモニターを染めていた。それでも不思議と恐怖はなかった。十五年前、自分は何も守れず闇へ呑まれた。今度は違う。今、この手には守れるものがある。
「レオン、ノア。」
「はい。」
「まだ動けるか。」
「誰に聞いてるんです?」
レオンが笑う。その声には疲労が滲んでいた。それでも笑った。
「隊長が動くなら、俺も動きます。」
「僕もです。」
ノアが続ける。
「最後まで行きます。」
カイは二人の声を胸の奥へ刻むように聞いた。十五年前にはいなかった仲間。失った時間の先で出会った、新しい戦友たちだった。
「なら、行くぞ。」
Type-Kが大地を蹴った。重力エンジンが咆哮し、三機の機体が蒼い尾を引いて戦場へ飛び込む。それを合図にしたように、地上も空も一斉に燃え上がった。第一アークキャノン前面ではローガン率いる第七部隊が横一列に展開し、迫るヴォイドⅡへ重力ライフルを浴びせる。蒼い閃光が黒い群れへ突き刺さり、一機、二機、三機と爆炎の花を咲かせる。だが一つの花が散れば、その向こうから十の黒影が現れた。敵の群れには終わりが見えない。夜そのものを銃で撃っているようだった。
「第七、撃ち続けろ! 照準なんぞ丁寧に合わせるな! 前から順番に叩き落とせ!」
ローガンの怒号とともに砲火が重なる。撃墜されたヴォイドⅡが炎を纏って墜落し、その燃える残骸を蹴り飛ばすように次の敵が突っ込んでくる。レーザーブレードが交差する。装甲が裂ける。重力ビームが道路を抉り、地面から土砂が噴水のように吹き上がる。第一アークキャノンの前には、鋼鉄と炎と人間の意地で築かれた最後の城壁が立ちはだかっていた。第二ではガレスが先頭にいた。Type-Gの左腕は既に沈黙し、装甲の至る所から火花が散っている。それでも右手の重力ライフルは止まらない。一機を撃ち抜き、二機目の攻撃を肩で受け、その衝撃を殺すことなく懐へ飛び込む。レーザーブレードが三機目の腹部を薙ぎ払い、黒い機体が上下に分かれて燃え落ちる。四機目が背後から銃口を向けた。
「ガレス!」
リナの重力ビームがその頭部を吹き飛ばす。
「借り一つ。」
「あとで返す!」
「生きてたらね!」
「縁起でもないこと言うな!」
二人の笑いが爆音へ溶ける。怖くないはずがなかった。死にたくないに決まっている。だからこそ笑った。恐怖に心を食われる前に、自分たちの声で塗り潰すために。二機は背中を合わせ、迫る黒い波へ再び銃口を向けた。第三アークキャノンでは、地と空が一つの巨大な罠へ変わっていた。ヘクトパスは崩壊したビル群と瓦礫を盾にして敵を市街地へ誘い込み、その頭上ではレイヴン隊が空を越えようとする敵を狩る。地上の牙と天空の爪。二つが噛み合い、第三へ迫るヴォイドⅡを一機ずつ引き裂いていく。
「三機、そっちへ落とす!」
アッシュが叫ぶ。
「寄越せ!」
ダリウスが応える。Type-Iが高度を捨てる。追い縋る三機のヴォイドⅡを引き連れ、砕けたビル群へ向かって垂直に落下する。地面が迫る。百メートル。五十。二十。
「アッシュ!」
激突する、その寸前。Type-Iは鳥が翼を翻すように機首を跳ね上げた。追従しきれなかった一機がビルへ激突し、爆炎が窓という窓を内側から吹き飛ばす。残る二機が慌てて減速した瞬間、瓦礫の陰からヘクトパスが飛び出した。
「もらった!」
コールとルーカスの重力ビームが二機の胸部を貫いた。爆発が連なり、空から炎の破片が降り注ぐ。
「次だ!」
ダリウスが叫ぶ。勝利を噛み締める暇など一秒もない。見上げれば、黒い群れはまだ空を覆っている。残り五分。カイたちは三基のアークキャノンの間を休むことなく駆け続けていた。第一へ迫る敵を撃ち、第二の防衛線を抜けた敵を斬り、第三へ向かう編隊へ横腹から突撃する。中央遊撃隊。それは今や部隊名ではなく、戦場の傷口を塞ぎ続ける針と糸だった。塞いだそばから別の場所が裂ける。それでも走る。止まれば、その瞬間に世界が血を流して死ぬ。
「十一時! 二機!」
ノアが叫ぶ。
「任せろ!」
レオンが飛び出す。レーザーブレードが一機の胸部を斜めに斬り裂く。しかし爆炎の向こうから二機目が現れ、重力ライフルを向ける。
「レオン!」
カイは考えるより早く射線へ割り込んでいた。アークシールドへ重力ビームが直撃する。世界を巨大な槌で殴られたような衝撃がType-Kを襲い、カイの身体がシートへ叩き付けられる。肺から空気が押し出され、視界が一瞬白く弾けた。
「隊長!」
「構うな! 撃て!」
レオンの一撃が敵機を貫く。警告音が耳を刺す。アークシールド出力二十三パーセント。カイは荒い息を吐きながら操縦桿を握り直した。腕が震えている。恐怖なのか疲労なのか、自分でも分からない。ただ一つ分かるのは、まだ動くということだけだった。残り四分。空は赤く染まっていた。夕焼けではない。無数の爆炎が雲の腹を焼き、砕けた装甲が火の粉となって降り注いでいる。燃料の臭い、焼けた金属、土煙。街は巨大な火葬場のようだった。それでも、その炎の中央で三基のアークキャノンは天を指して立ち続けている。砲身を覆う青白い重力光はますます強くなり、まるで死にかけた世界の心臓が最後の鼓動を打ち始めたようだった。
「重力収束率八十五パーセント!」
ライラが叫ぶ。
「敵増援、さらに百二十!」
「どこからだ。」
ガイウスの問いに、ライラの指が止まった。
「……アトラスです。」
主スクリーンが切り替わる。遥か天空に浮かぶアトラス。その巨体の周囲から、黒い粒が次々と零れ落ちている。ヴォイドⅡ。まだ生み出している。まだ送り込んでくる。底のない傷口から血ではなく悪夢が溢れ続けているようだった。
「どこまで……人間を殺せば気が済むのよ。」
イザベラの声が震えた。それは科学者の言葉ではなかった。十五年間、奪われ続けた一人の人間の声だった。残り三分。第一防衛線が崩れる。
「第七、後退! 砲身前面へ再集結!」
ローガンの叫び。二機が撃墜され、三機が損傷。開いた穴へ十数機のヴォイドⅡが一気に雪崩れ込む。それは堤防を破った濁流だった。
「第一、突破されます!」
ライラが叫ぶ。その瞬間、横合いから一本の蒼い閃光が走り、先頭のヴォイドⅡを胸部から吹き飛ばした。爆炎の向こうからType-Kが飛び込んでくる。その左右にはType-LとType-N。
「カイ!」
ローガンの声に、安堵が混じる。
「ここは俺たちが押し返す!」
カイは重力ライフルを連射しながら敵群へ突っ込む。一機を撃破。二機目の射撃を身体を捻ってかわす。三機目へ肩から激突し、装甲同士が潰れる衝撃と同時にレーザーブレードを腹部へ突き刺す。背後から四機。
「隊長、伏せて!」
ノアの重力ビームがType-Kの頭上を掠め、二機をまとめて撃ち抜く。
「残り二機!」
レオンが一機を斬り捨てる。最後の一機が二人を迂回し、アークキャノンへ重力ライフルを向けた。遠い。間に合わない。カイの心臓が跳ねる。十五年前の光景が一瞬だけ脳裏を過った。届かなかった手。消えていった仲間。何もできなかった自分。
「今度は……届かせる!」
右腕を突き出す。アンカー射出。極細ワイヤーが空を裂き、ヴォイドⅡの腕へ絡み付く。発射寸前の銃口が空へ逸れ、重力ビームが雲を貫いた。
「こっちを見ろ!」
Type-Kが全力でワイヤーを引く。ヴォイドⅡの巨体が宙を舞い、大地へ叩き付けられる。カイはその胸部へレーザーブレードを突き立てた。蒼い刃の向こうで敵の光が消える。今度は届いた。その小さな事実が、十五年間胸に刺さっていた棘をほんの少しだけ抜いた。残り二分。
「収束率九十四パーセント!」
第二アークキャノン前面で、ガレスのType-Gが膝をついた。右脚は膝から下を失い、立つことすらできない。
「隊長!」
リナが駆け寄る。
「俺はいい!」
「でも!」
「砲を守れ!」
ガレスは片膝のまま重力ライフルを構える。一発。敵が落ちる。二発。別の敵が爆散する。三発目。引き金を引く。しかし銃口は沈黙した。弾切れ。ガレスは一瞬だけ重力ライフルを見つめ、それを捨てた。レーザーブレードを抜く。迫るヴォイドⅡを見上げる。
「来い。」
声は静かだった。
「足がなくても、殺せるぞ。」
敵が突っ込む。ガレスは逃げない。逃げられないのではない。逃げる場所がないのだ。自分の背後には、人類の未来がある。レーザーブレードが閃き、敵機の胸部が真っ二つに裂けた。残り一分。ライラの声が全通信へ響く。
「アークキャノン収束率九十八パーセント!」
あと二パーセント。その数字はあまりにも小さく、そして宇宙より遠かった。ローガンが叫ぶ。ダリウスが叫ぶ。ガレスが叫ぶ。アッシュたちが空を駆け、カイたちが炎の海を横断する。もう部隊の境界などなかった。誰がどこの所属かも関係ない。二十一の鋼鉄で始まった彼らは傷付き、砕け、欠け、それでも残った全員で一枚の盾になっていた。その盾の材料は装甲ではない。帰りたいという願い。死にたくないという恐怖。失った者への想い。そして、自分の後ろにいる誰かだけは生かしたいという、あまりにも人間らしい執念だった。
「九十九パーセント!」
その瞬間、アトラスが動いた。天空に鎮座していた黒い巨体の中心でブラックホールが急激に膨張する。空が曲がる。雲が引き寄せられる。地上の瓦礫が重力を忘れたように浮き上がり、戦場全体が巨大な穴へ吸い込まれようと軋み始めた。
「アトラス、重力反応急上昇!」
イザベラが主スクリーンを見上げ、その顔から血の気が引く。
「向こうも撃つつもりよ!」
天空の闇が広がっていく。光が曲がる。星が消える。それは夜ではなかった。世界の終わりに開いた口だった。十五年間人類を見下ろしてきた怪物が、最後に地球そのものを噛み砕こうとしている。
「ライラ!」
ガイウスが叫ぶ。
「まだです!」
九九・二。九九・四。九九・六。数字が進むたび、一秒が永遠へ引き伸ばされる。九九・八。第三アークキャノンへヴォイドⅡが突っ込む。アッシュが射線へ飛び込み、一閃。爆発。別の一機をダリウスが撃ち抜く。さらに三機。カイが振り向く。
「レオン! ノア!」
「了解!」
三本の蒼い閃光が空を貫き、三機のヴォイドⅡが炎へ変わった。そして。
「一〇〇パーセント!」
ライラの叫びが全通信を貫いた。戦場にいた誰もが、一瞬だけ時間が止まったように感じた。ガイウスはゆっくりと立ち上がる。主スクリーンの向こうにアトラスがいる。十五年前から人類の空を奪い続けた黒い巨影。カイの時間を奪い、仲間を奪い、街を奪い、数え切れない人生を途中で断ち切った存在。その怪物へ、ようやく人類の手が届く。
「全機、射線から退避。」
三基のアークキャノンが動き始める。第一。第二。第三。街そのものほど巨大な砲身が地響きを立てながら天空を仰ぎ、その先端へ青白い光が収束する。大気が震える。大地が震える。遠くの海面まで細かく波打つ。三つの光は、滅びかけた世界が自らの命を燃やして灯した三つの太陽のようだった。
「照準。」
ライラの指先が震えている。それでも正確に操作を続ける。三本の射線が宇宙の一点へ集束する。
「アトラス、捕捉。」
息を呑む音さえ聞こえそうな静寂。ガイウスは目を閉じた。ほんの一瞬だけ、ここまで死んでいった者たちの顔が胸を過った。名前を覚えている者。知らない者。帰る場所を失った者。帰りを待つ者を残して死んだ者。彼ら全てが、この一撃の背中を押しているような気がした。ガイウスは目を開く。
「アークキャノン、発射。」
世界が白く染まった。三基の砲口から放たれたものを、もはや光と呼ぶことはできなかった。圧縮された重力そのものが奔流となり、大気を突き破り、雲を消し飛ばし、宇宙へ向かって駆け上がる。三本の青白い柱が地上と天空を縫い合わせ、その周囲で空間が水面のように歪んだ。遅れて轟音が大地へ落ちてくる。山が震え、海が揺れ、廃墟に辛うじて残っていた窓ガラスが一斉に砕け散る。戦場にいる全ての機体が動きを止めた。敵も味方もない。ただ天を見上げる。自分たちが守り抜いた三本の光が、人類の十五年分の怒りと悲しみと願いを背負って空を昇っていく。その光景は美しかった。あまりにも美しく、だからこそカイの胸は痛んだ。これほどの光を生み出すために、一体どれほどの命が闇へ消えていったのだろう。三本の重力奔流がアトラスへ到達する。一瞬、何も起こらない。黒い巨体は変わらずそこにいる。
「……効いてない?」
ノアの声が震える。カイは答えられない。心臓を冷たい手で掴まれたようだった。ここまで来て。これほど失って。それでも届かないのか。次の瞬間、アトラスの周囲で星空が割れた。亀裂のような歪みが宇宙へ走り、巨大な機体の右腕が不自然に曲がる。左肩が沈む。装甲が剥がれているのではない。空間そのものに握り潰されている。
「効いてる……!」
ライラが叫ぶ。
「出力維持!」
ガイウスの声が飛ぶ。アークキャノンがさらに咆哮する。アトラス中央のブラックホールが激しく脈動した。膨張。収縮。膨張。収縮。十五年間、光すら逃がさなかった絶対の闇が、初めて苦しむように形を歪ませる。
「ブラックホール、収束を開始!」
イザベラが叫ぶ。アトラスが巨大な両腕を広げる。その姿は、神ではなかった。初めて死を知った怪物だった。天空に君臨し続けた黒い王が、見えない何かへ縋ろうと手を伸ばしているように見える。しかし、その手を取る者はいない。三本の光が容赦なく巨体を圧縮していく。右腕が潰れる。左肩が胴体へ沈む。装甲が折れ重なり、数キロにも及ぶ巨体が自らの中心へ引きずり込まれていく。半分。さらに半分。さらに小さくなる。十五年間、人類には空そのものより巨大に見えていた怪物が、今や拳ほどの黒い影へ縮んでいく。
カイは息をすることすら忘れて見つめていた。脳裏に十五年前の光景が蘇る。警報。赤い光。仲間の叫び。ブラックホール。自分を呼ぶ声。そして、全てを呑み込んだ白い閃光。あの日から自分の時間は止まった。身体だけが十五年を飛び越え、心だけがあの瞬間に取り残された。何度目を覚ましても、あの光景は夢の底から追い掛けてきた。その中心にいたものが、今、目の前で消えようとしている。
「……消えろ。」
カイの口から声が零れた。怒鳴ることすらできなかった。憎しみだけではない。悲しみだけでもない。十五年間胸の奥で腐らず残り続けた全てを、その二文字へ押し込めた。
黒い点が震える。
一度。
二度。
そして、消えた。
爆発はなかった。轟音もなかった。断末魔すらなかった。あれほど巨大だったアトラスは、まるで宇宙から存在そのものを消しゴムで拭い去られたように消失した。ブラックホールもない。歪んでいた星明かりが元の場所へ戻り、長い悪夢から目を覚ましたように宇宙が静けさを取り戻していく。その静けさは、十五年間誰も聞いたことのない音だった。何もないということが、これほど美しいとは誰も知らなかった。やがてヴォイドⅡが一機、空中で停止した。次にもう一機。さらに十機。百機。糸を切られた操り人形のように黒い機体が次々と力を失い、炎すら上げず地上へ落ちていく。誰も撃たない。もう撃つ必要がなかった。戦場を覆っていた銃声が一つずつ消え、爆発音が遠ざかり、最後には風の音だけが残った。カイはType-Kのコックピットから空を見上げる。そこには穴がなかった。黒い渦もない。アトラスもいない。ただ青い空があった。どこまでも続く、ごく普通の青い空。その当たり前の景色が、カイには涙が出るほど眩しかった。雲の切れ間から陽光が差し込み、砕けたビルを照らす。折れた鉄塔を照らす。倒れた機体を照らす。そして、傷だらけになりながらも立っている者たちを照らしていく。光は勝者と死者を分けなかった。ただ等しく、全ての上へ降り注いでいた。カイは操縦桿からゆっくりと手を離した。指が震えていた。今度こそ、それが疲労ではないことが分かった。胸の奥に張り詰めていた何かがほどけていく。十五年間、一本の細い糸だけで吊られていた心が、ようやく地面へ降り立ったようだった。仲間たちの声が聞こえる気がした。もう存在しないはずの声。十五年前、光の向こうへ消えていった者たちの残響。カイはその光を黙って見つめていた。頬を伝った一筋の涙を拭おうとはしなかった。十五年前に置き去りにした時間が、ようやく彼の背中へ追いついたような気がした。失ったものは戻らない。倒れた仲間も、崩れた街も、奪われた年月も、何一つ元には戻らない。それでも、人は失ったものだけで生きているわけではない。その先に残されたものを抱えて、また歩き始める。焼け落ちた街の向こうでは、細い煙が朝日に溶けていく。静まり返った戦場には、もう銃声も警報もなかった。聞こえるのは風の音と、遠くで誰かが泣きながら笑う声だけだった。人類はようやく空を取り戻したのだ。十五年間、頭上に居座り続けた黒い巨影は消え、地上を縛り付けていた長い夜は終わった。カイはゆっくりと顔を上げる。青い空。そのさらに向こうには、誰の目にも見えない無限の闇が広がっている。かつてアトラスが現れた場所。ヴェスターが来た場所。そして、まだ誰も知らない何かが待つ場所。
「……終わったな。」
しばらく返事はなかった。やがて通信の向こうから、アッシュの低い声が届いた。
「地上はな。」
カイはわずかに目を細めた。朝日の眩しさとは違う何かが、胸の奥で静かに灯る。終わったのではない。一つの戦いが、ようやく終わっただけだ。だが、それで十分だった。今はこの空を取り戻したことを喜んでいい。死者を悼み、生き残った者と笑い、また次の一歩を踏み出せばいい。地平線から昇る朝日は、傷だらけの大地を黄金色に染めながら、新しい時代の幕開けを告げていた。その光の遥か彼方、青空の向こうには宇宙がある。静かで、暗く、底知れないほど広い世界が。そこにはまだ、人類が知らない戦いが眠っていた。カイはその見えない闇を見つめたまま、もう一度だけ操縦桿へ手を置いた。今度は過去を追うためではない。未来へ進むために。地上の戦いは、ここに終わる。そして物語は、空の彼方へ続いていく。
――地上編・完。
宇宙編へ続く。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
終わりではなく続きも考え中で、考えがまとまった時にお見せできたらと思っています。




