第十三話 残響
拘束三日目の朝。アーク統合防衛基地は久しぶりに警報の鳴らない朝を迎えていた。空は晴れている。格納庫の大型シャッターが開き、朝日が滑走路を黄金色に染めていた。平和な光景だった。だが基地でその景色を平和だと思う者はいない。誰もが知っている。警報が鳴らない日は、次の警報が近付いている日でもあることを。カイは窓際に立っていた。拘束期間は今日で終わる。部屋の机には読み終えた報告書が積まれている。ヴェスター戦闘記録。スレイヴァー接触報告。TypeN解析資料。どれも頭に入っていた。休養を命じられていたはずなのに、結局いつも通りだった。
扉が開く。
「相変わらずだな」
ヘンリー・クロフォード中将だった。
「司令」
カイは敬礼する。
「楽にしろ」
クロフォードはソファへ腰掛けた。
「休んだか」
「一応は」
「嘘だな」
即答だった。
カイは否定しない。クロフォードも追及しない。十年いや二十五年以上の付き合いだった。今さら言葉を重ねる必要もない。しばらく沈黙が流れる。窓の外では輸送機が離陸していく。その姿を見ながらクロフォードが口を開いた。
「TypeNの解析結果が出た」
「どうでした」
「予想通りだ」
短く答える。
「最後にヴェスターを沈黙させたのはノアだ」
カイは小さく頷いた。予想していた。あの瞬間、自分は操縦していない。重力バリアを突破した時点で戦術リンクは解除されていた。だから最後の一撃は間違いなくノア自身だった。
「成長したな」
クロフォードが言う。
「ええ」
それ以上の言葉は出なかった。ノアの才能は知っていた。だが才能だけでは戦場は越えられない。越えたのは覚悟だった。そして覚悟というものは、多くの場合、何かを失った後にしか手に入らない。サミュエル。オスカー。マーカス。三人の名前が脳裏を過ぎる。勝利はした。だが安い勝利ではなかった。むしろ高すぎる勝利だった。
クロフォードはしばらく黙っていたが、やがて懐から一枚のデータパッドを取り出した。
「今日は別件で来た」
カイの表情が少しだけ変わる。クロフォードがわざわざ拘束区画まで来る時は、たいてい面倒事だ。
「何です」
「これを見ろ」
データパッドが机へ置かれる。表示されていたのは古い事故報告書だった。十五年前。ブラックホール事故。レイヴン部隊消失記録。何度も読み返した資料だった。カイは画面へ目を落とす。そして数秒後、眉が動いた。
「修正されていますね」
クロフォードは頷く。
「気付くと思った」
普通なら見逃す程度の差異だった。数字が一つ。文章が数行。時刻表記が微妙に違う。だが長年戦場で報告書を読み続けてきた人間の目は誤魔化せない。そこには確かな違和感があった。
「いつ修正されたんです」
「不明だ」
クロフォードが答える。
「アクセス記録が消されている」
部屋が静まり返る。偶然ではない。誰かが触った。誰かが隠した。その事実だけが残る。カイは再び資料を見る。ブラックホール事故。レイヴン部隊。消失。全滅。十五年間疑われることのなかった記録。だが今、その土台が揺らいでいた。
「誰かが事故報告書を書き換えた」
「そういうことだ」
クロフォードは腕を組む。
「しかも軍の中枢データベースでな」
それは軽い話ではなかった。軍内部犯行を意味する。あるいは軍以上の権限を持つ何かか。カイは窓の外を見る。朝日が基地を照らしている。穏やかな景色だった。だがその光景の向こうで、見えない何かが動いている気がした。
「十五年前の事故と、今の敵が繋がっていると思いますか」
カイが聞く。
クロフォードは即答しなかった。しばらく考え込み、やがて低く答える。
「分からん」
正直な返答だった。
「だが嫌な予感はする」
カイは苦笑する。
「それは同感です」
十五年間。嫌な予感は何度も当たった。だから今も信じてしまう。理屈ではない。戦場を生き残った人間だけが持つ感覚だった。
クロフォードは立ち上がる。
「拘束は今日で終わりだ」
「助かります」
「ただし」
司令官の目が細くなる。
「今度は勝手に他人の機体を操縦するな」
カイは珍しく視線を逸らした。
クロフォードは鼻で笑う。
「反省してない顔だな」
「努力はします」
「期待していない」
短いやり取りだった。だがどこか昔に戻ったような空気があった。クロフォードは扉へ向かう。その背中を見ながら、カイは再び事故報告書へ視線を落とした。レイヴン部隊。ブラックホール事故。改ざんされた記録。十五年間埋もれていたはずの傷跡が、再び疼き始めている。まるで誰かが意図的に封印を解いたかのように。窓の外では輸送機が雲の向こうへ消えていった。青空はどこまでも穏やかだった。だがカイには、その向こう側で嵐が形を成し始めているように見えた。
基地地下深くに存在する特別解析区画は、昼夜の区別がない場所だった。厚い隔壁に囲まれた空間には人工照明だけが降り注ぎ、無数のモニターが青白い光を放っている。そこでは今もヴェスター残骸の解析が続けられていた。人類史上初めて撃破した超大型機動兵器。その内部構造は軍だけでなく科学者達の常識までも揺さぶっていた。巨大スクリーンにはヴェスターの分解図が映し出されている。複雑な内部構造。未知の合金。理解不能なエネルギー循環機構。どこを切り取っても説明のつかない技術ばかりだった。
「解析進捗三十七パーセント」
AIが機械的な声で報告する。主任研究員は腕を組んだまま画面を見つめていた。
「三十七でこれか」
思わず漏れた独り言だった。解析開始から数日。それでも理解できた部分は半分にも満たない。若い研究員が隣のモニターを確認しながら首を振る。
「あり得ません」
「何がだ」
主任研究員が聞く。
「このエネルギー構造です」
研究員はスクリーンの一部を拡大する。
「理論上は成立します」
「だが?」
「実現不可能です」
部屋が静まり返る。誰も反論できない。それが問題だった。資料の上では成立する。数式も破綻していない。物理法則にも違反していない。だが実際に製造する方法が存在しない。少なくとも人類には。
「理論だけなら百年前からあった」
別の研究員が言う。
「だが誰も実現できなかった」
主任研究員はスクリーンを見上げる。ヴェスターはそこに存在していた。つまり誰かは実現したのだ。人類ではない誰かが。
「まるで」
主任研究員が呟く。
「別の歴史を歩んだ文明だな」
冗談のつもりだった。だが誰も笑わなかった。十五年前のブラックホール事故。説明不能な敵技術。アトラス。ヴェスター。そしてスレイヴァー。常識では説明できないものが増え過ぎていた。
その時だった。
「主任!」
研究員の声が響く。全員が振り向く。研究員は興奮した様子でモニターを指差していた。
「ここです!」
大型スクリーンへ映像が切り替わる。ヴェスター中枢部。コアが存在していたはずの領域。そこには奇妙な痕跡が残されていた。
「これは……」
主任研究員が目を細める。破壊痕ではない。切断痕だった。しかも極めて精密な。
「コアは爆発して消えたんじゃない」
研究員が言う。
「誰かが持ち出したんです」
空気が変わる。それは既にレオン達が推測していたことだった。だが今までは推測だった。これで事実になった。主任研究員は映像を拡大する。傷跡は滑らかだった。熟練した外科医が臓器を摘出したような精密さだった。
「回収目的で来たのか」
誰かが呟く。ヴェスターを助けるためではない。残骸を守るためでもない。コアだけを回収するため。あの黒い機体は戦場へ現れた。スレイヴァー。その名前が自然と全員の脳裏へ浮かぶ。
「ますます分からんな」
主任研究員が呟く。敵は何を考えている。何を目的としている。なぜヴェスターを回収した。なぜ人類を攻撃する。答えはどこにも無かった。ただ一つ分かるのは、人類が相手にしている存在は単純な侵略者ではないということだった。
その頃、第一格納庫ではTypeKの改修作業が進んでいた。拘束解除されたカイは整備主任と共に機体を見上げている。失われた右腕は完全に撤去され、新型フレームの取り付け準備が進んでいた。
「予定より早いな」
カイが言う。
整備主任は鼻で笑った。
「誰のせいだと思ってる」
周囲の整備員達も苦笑する。
「今回は本当に死ぬかと思ったぞ」
「俺もだ」
カイが平然と答える。
「そこは否定しろ」
格納庫に笑いが広がった。少しずつ基地に日常が戻り始めていた。だがその日常の下には、不穏なものが流れている。誰も口にはしない。だが全員が感じていた。ヴェスターは終わった。それでも戦争は終わっていない。むしろ何かが始まりつつある。
格納庫上部の窓から差し込む午後の日差しが、TypeKとTypeNを照らしていた。二機は並んで修理を受けている。傷だらけの機体達だった。だがその姿は敗者には見えない。嵐を生き延びた獣のようだった。
遠く離れた宇宙空間では、誰にも観測されない暗黒の海を一隻の艦が静かに航行していた。艦橋中央に立つ男はモニターへ映る戦闘記録を見つめている。そこにはTypeNがヴェスターへ突撃する映像が映し出されていた。男は無言だった。映像だけを見続ける。やがて停止した画面の中で、ノア機の姿へ視線を止めた。
「面白い」
低い声だった。
誰も返事をしない。必要がないからだ。
男は腕を組む。その目は獲物を見つけた猛獣のようだった。
「なるほど」
小さく呟く。
「そういうことか」
艦橋の窓の向こうには無限の闇が広がっていた。星々が流れていく。静かな宇宙だった。だがその静寂の奥で、誰にも見えない歯車が少しずつ回り始めていた。十五年前に始まった物語の残響が、ようやく再び響き始めようとしていた。
夜が訪れていた。アーク統合防衛基地の灯火は昼よりも多い。戦争が長く続く基地ほど夜は明るくなる。闇の中にいると、人は自分がどこにいるのか分からなくなるからだ。格納庫の照明は白く輝き、整備アームは眠ることなく動き続けている。その光景を基地外周の展望デッキから眺めながら、ノアは缶コーヒーを握っていた。冷えた金属の感触が妙に心地良い。三日前まで、自分はヴェスターの前に立っていた。今はこうして夜空を見ている。不思議な感覚だった。戦場と日常は紙一枚で繋がっている。誰かが死ぬ。誰かが生き残る。それでも翌日は来る。世界は止まらない。だからこそ理不尽だった。背後で足音が止まる。振り向く。カイだった。拘束が解けてから初めての夜だった。
「眠れないんですか」
ノアが聞く。
「お前もだろ」
その返答に少し笑う。カイは隣へ立った。二人で夜空を見上げる。星は変わらない。十五年前も。五年前も。今日も。宇宙だけは何も変わらない。
「少佐」
「何だ」
「敵って何なんでしょうね」
カイはすぐには答えなかった。遠くを飛ぶ輸送艇の灯火を見つめている。やがて小さく息を吐いた。
「分からん」
正直な答えだった。
「だが一つだけ言える」
ノアは顔を向ける。
「兵器には思想がある」
「思想?」
「ああ」
カイは頷く。
「アトラスも」
「ヴェスターも」
「スレイヴァーも」
夜空を見上げたまま続ける。
「誰かが作った」
その言葉は妙に重かった。怪物にも目的がある。兵器にも理由がある。つまり敵は災害ではない。意志だった。誰かの願い。誰かの理想。あるいは誰かの絶望。その全てが兵器という形になっている。
「なら」
ノアが言う。
「いつか会うんですね」
カイは少しだけ笑った。
「会いたくない相手ほど会うもんだ」
その時だった。基地全域へ電子音が鳴り響いた。警報ではない。戦闘配備でもない。司令部優先招集。最高優先度の呼び出しだった。カイとノアは顔を見合わせる。嫌な予感しかしなかった。十五年間戦場を生き残った男の勘も。数か月前まで一般兵だった若者の勘も。同じ結論へ辿り着いていた。何かが起きた。
司令部へ到着した時には既に主要メンバーが集まっていた。クロフォード。レオン。イザベラ。そして情報解析部の責任者達。誰も雑談をしていない。大型モニターには宇宙空間の映像が映し出されている。
「来たか」
クロフォードが言う。その顔は硬かった。
「何があったんです」
レオンが聞く。
クロフォードは答えず、モニターを操作した。映像が拡大される。長距離観測網が捉えた光点群だった。暗黒の宇宙に無数の光が並んでいる。艦隊だった。一隻や二隻ではない。数十。いや、それ以上。誰も言葉を発しない。
「敵ですか」
イザベラが呟く。
クロフォードは首を振った。
「分からん」
その答えが最も不気味だった。敵なら戦える。味方なら歓迎できる。だが正体不明は違う。何を考えているのか分からない。だから恐ろしい。
解析担当官が前へ出る。その顔色は青かった。
「通信を受信しました」
司令室が静まり返る。
「識別コード付きです」
クロフォードが目を細める。
「所属は」
担当官は返答しない。いや、できなかった。画面を見つめたまま固まっている。
「どうした」
クロフォードの声が低くなる。
担当官がゆっくり振り返った。その顔から血の気が引いていた。
「あり得ません」
誰も動かない。
担当官は震える声で続ける。
「識別コードを確認しました」
司令室の空気が張り詰める。
「発信元コードは――」
短い沈黙。誰も呼吸をしない。
そして。
「レイヴン部隊です」
世界から音が消えた。ノアは意味が分からない。イザベラも固まっている。だがクロフォードとカイだけは違った。二人の表情から血の気が消えていた。
十五年前。
ブラックホール事故。
帰還者ゼロ。
生存者ゼロ。
全滅認定。
そのはずだった。
「確認しろ」
クロフォードが言う。
「確認済みです」
担当官が答える。
「三回照合しました」
部屋が静まり返る。モニターには依然として識別コードが表示されている。
RAVEN SQUADRON
十五年前に消えたはずの部隊。
存在しないはずの信号。
死者からの通信。
誰も言葉を発しなかった。司令室を満たしていたのは沈黙だけだった。そしてその沈黙は、十五年間閉ざされていた扉がゆっくり開く音にも似ていた。




