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第19話 帰還

 カイ・ソーマが王都に戻ったのは、麦の穂が金色に傾き始める晩夏のことだった。


 リーナがラーテ村を訪れてから、二十日が経っていた。


 その間にも、王都では変化が続いていた。レンは通信塔の全体設計を手記から読み解き、二十三基のうち十五基までの運用を自力で管理できるようになっていた。ガルス将軍の副官ドルクは、砦間の分散通信を独自に運用し始め、小規模な盗賊の掃討をカイ不在のまま完遂した。マーサは商人ギルドの若手に物流の経路計算を教え、簡易版ではあるが毎日の掲示板更新を再開させていた。


 仕組みは、回り始めていた。


 だが、完全ではなかった。


 通信塔の残り八基——山岳地帯と沿岸部の塔は、気象条件の変動が大きく、レンひとりでは調整しきれない。物流の経路計算も、季節の変わり目に精度が落ちる。そして何より、通信塔の自動化計画はまだ設計段階で、実装には魔術師の協力が不可欠だった。


 カイが王都の東門をくぐったのは、早朝だった。


 出迎えは誰もいなかった。カイが戻る日時を知っていたのはリーナだけで、リーナはあえて誰にも伝えなかった。カイが望まないだろうと思ったからだ。


 だが、一人だけ、門の前にいた。


 エリスだった。


 侍女は東門の石段に座り、膝の上に布の包みを置いていた。カイの姿を認めると、立ち上がり、小さく頭を下げた。


「おかえりなさいませ、カイ様」


「……エリスさん。なぜここに?」


「リーナ様はおっしゃいませんでした。でも、カイ様が戻るなら朝だろうと思いました。カイ様はいつも、人が少ない時間に動きますから」


 カイは少し笑った。見透かされている。


「これ、よろしければ」


 エリスが差し出した包みの中には、焼きたてのパンと、小さな水筒が入っていた。水筒の中は——お茶だった。いつもの銘柄の、いつもの濃さの。


「旅でお疲れでしょうから」


 カイはパンを受け取り、しばらく言葉を探していた。


「ありがとうございます。——あの、ひとつ聞いてもいいですか」


「はい」


「わたしがいない間も、書記官棟の掃除は?」


「もちろん、毎日しておりました。カイ様のお机も、いつでも使えるように」


 カイは東門の向こうに広がる王都の朝を見た。通信塔の頂上で青い光が点滅している。馬車が石畳を走る音が聞こえる。パン屋の煙が立ち上っている。


 二十日前に去ったときと同じ街だった。だが、何かが違う。


 仕組みは変わり始めている。


 そして——自分も変わらなければならない。


「エリスさん」


「はい」


「わたしは今日から、『調和官』という役職に就くことになるそうです」


「はい、存じております。宰相閣下から伺いました」


「どんな仕事か、まだよくわかりません。書記官のときは、何をすべきか自分で見つけられた。でも、調和官というのは——」


「カイ様がなさることが、調和官の仕事になるのだと思います」


 エリスはそう言って、静かに微笑んだ。


 カイは頷いた。パンをひとくちかじり、お茶を飲んだ。


 そして、王都に足を踏み入れた。


────


 宰相の執務室で、ヴェルナーがカイを迎えた。


 部屋は二十日前より片付いていた。混乱がわずかに収まった証だ。


「よく戻ってきた」


「ご迷惑をおかけしました」


「迷惑はおかけされた。だが、必要な迷惑だったとも思っている」


 ヴェルナーは机の上から、一枚の辞令書を取り出した。


「王国調和官。直属は宰相府。ただし、全部署への助言権と情報アクセス権を持つ。正式な役職だ。予算もつく。報告義務は宰相にのみ」


「……正式な役職ですか」


「リーナ・ヴァレスの提言だ。そして、わたしも同意見だ。見えない仕事を見える形にする。それが、この国が君に対してできる、唯一の正しいことだと」


 カイは辞令書を受け取った。


「ただし」


 ヴェルナーは付け加えた。


「ひとりでやるな。それだけが条件だ」


「ひとりでやるな——」


「君が消えて初めてわかった。君がひとりで回していた仕組みは、君がいなくなれば止まる。同じことを繰り返してはならん。仕組みを作るなら、仕組みを動かせる人間も育てろ。君のあとを継げる人間を」


 カイはしばらく黙っていた。


「……わたしは、人を育てるのが上手ではありません」


「知っている。だが、レンを見ろ。彼は君に教わって、通信塔の全体設計を理解し始めている。君に才能がないのではない。君が育てようとしなかっただけだ」


 カイは辞令書を見つめた。


「やってみます」


「期待している」


 カイは執務室を出た。


 廊下を歩きながら、かつてと同じ宮廷の空気を感じた。文官たちが書類を抱えて行き交い、衛兵が所定の位置に立ち、侍女たちが忙しそうに動いている。


 以前なら、カイはこの廊下を誰にも気づかれずに通り過ぎていた。


 だが今日は、すれ違う文官のひとりが足を止めた。


「あの——カイ・ソーマ殿ですか?」


「はい」


「徴税局のハイネスと申します。あなたが作った徴税集計の仕組みについて、お聞きしたいことがあるのですが——」


 カイは少し驚いた。以前は誰も、カイの仕事について聞いてくることなどなかった。


「はい。何でしょうか」


「実は、例外処理の基準がよくわからなくて。あなたがいない間、自分たちで判断してみたのですが、合っているか確認していただけませんか?」


「……見せてください」


 カイはその場で、ハイネスが持っていた書類に目を通した。


「ここと、ここ。判断は合っています。ただ、この三番目のケースは——少し修正した方がいいですね。理由を説明しますので、メモを取ってもらえますか?」


「もちろんです」


 カイは説明を始めた。


 以前なら、自分で直していた。その方が速いし、確実だから。


 だが今日は、説明した。時間はかかったが、ハイネスは理解した。


「ありがとうございます。次からは自分で判断できます」


「何かあれば、いつでも聞いてください」


 ハイネスが去った後、カイは廊下にひとり立っていた。


 説明した方が、時間はかかる。自分でやった方が速い。だが——仕組みを自立させるためには、この時間が必要なのだ。


 カイは歩き始めた。


 新しい仕事の最初の一歩は、廊下での立ち話だった。


 数式では設計できない、不格好な一歩だった。

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