第17話 再会
「わたしはリーナ・ヴァレス。王立図書館の記録官です。宰相ヴェルナーの命で、あなたの調査をしていました」
カイは少し驚いたようだったが、すぐに落ち着いた表情に戻った。
「そうですか。……中に入りますか? お茶くらいは出せます」
小屋の中は簡素だった。木の机と椅子、寝台、小さな棚。棚には数冊の本と、紙の束が置かれている。紙には例によって数式が書かれていた。
カイは慣れた手つきでお茶を淹れた。侍女のエリスに教わったのだろうか、と思った。
「何から聞きますか?」
──なぜ消えたのですか?
「手記を読んだのなら、おわかりでしょう?」
──数式は読めませんでした。でも、文章は読みました。
「そうですか」
カイは少し笑った。初めて見る、穏やかな笑みだった。
「文章の部分は、書くつもりはなかったんです。数式だけで十分だった。でも、時々——数式では書けないことがあって」
──数式では書けないこと。
「感情、でしょうか。仕組みの設計には感情は不要です。でも、人間はそうはいかない」
──カイさん。あなたが設計した仕組みは、今、少しずつ回り始めています。あなたがいなくても。
「本当ですか」
その言葉に、かすかな震えがあった。
「本当です。ガルス将軍は部下に通信連携の引き継ぎを始めました。レンは通信塔の全体設計を手記から読み解いています。マーサは物流の判断基準を自分で運用しています。オルグレン卿は——」
「オルグレン卿が?」
「通信塔の自動化計画を承認しました。予算は魔術師の塔から出すと」
カイは目を見開いた。それから、視線を落とし、長い沈黙の後、小さな声で言った。
「……そうですか」
たった一言だった。だが、その一言に込められたものを、わたしは数式では計測できない。
──カイさん。あなたの手記に、一つだけ書きかけの文章がありました。「この仕組みが、私なしで回る日が来たら——」。続きは何ですか?
カイは茶碗を両手で包み、湯気を見つめた。
「わたしは六年間、仕組みのことだけを考えてきました。仕組みが自立すれば、わたしの仕事は終わる。終わった後、何をすればいいのか——わからなかったんです」
「宮廷にいた頃は、それを考える余裕がありませんでした。毎日が調整と計算で埋まっていた。でも、ここに来て——初めて、何もない時間ができた」
──何もない時間。
「最初の三日間は、何をしていいかわかりませんでした。朝起きて、確認すべき通信塔がない。計算すべき経路がない。調整すべき仕組みがない。自分が空っぽだと気づきました」
「四日目に、村の水路が壊れているのを見つけました。流れが悪い。見ていると、原因がわかった。水路の勾配が途中で逆転している箇所がある。それを直せば、流量が改善される。計算したら、三十分で終わりました」
「それで、村の人に教えたんです。『ここを直すと、水がよく流れますよ』と。村の人は驚いて、ありがとうと言ってくれました」
──それが嬉しかった。
「嬉しかったんだと思います。宮廷では、わたしの仕事に対して『ありがとう』と言ってくれた人は——」
カイは言葉を切った。
「——エリスさんだけでした」
小屋の外で、風が麦畑を渡る音がした。
「リーナさん。わたしは自分の仕事に価値があると信じていました。でも、価値があるのは仕事であって、わたしではない。仕組みが自立すれば、わたしの価値はなくなる。——そう思っていました」
「でも、ここに来て、水路を直して、村の人に感謝されて、気づいたんです。わたしが作っていたのは仕組みだけじゃなかった。人との関わりも——不器用で、下手で、ほとんど言葉にできなかったけど——作っていたんだと」
「ガルス将軍に認められたのは、仕組みの価値だけじゃなかった。わたしが現場に足を運んだから。レンが教わりたがったのは、知識だけじゃなかった。わたしが夜中の塔に一緒にいたから。マーサが信用してくれたのは、計算が正しかったからだけじゃない。わたしが嘘をつけなかったから」
「仕組みは数式で設計できます。でも、人との関わりは設計できない。計算できない。それが——わたしがずっと見落としていたものでした」
──続きを聞かせてください。「この仕組みが、私なしで回る日が来たら」——。
カイは茶碗を置き、まっすぐわたしの目を見た。
「この仕組みが、私なしで回る日が来たら——」
「そのときは、仕組みではなく、人のそばにいたい」
「それが、今のわたしの答えです」
──戻りますか? 宮廷に。
「わたしが戻って、何になりますか? 仕組みは回り始めている。わたしがいなくても」
──仕組みは回ります。でも、あなたを待っている人がいます。
カイは黙った。
──ガルスはあなたを友と呼びました。レンはあなたを師と呼びました。マーサはあなたを信用できる人間だと言いました。エリスはあなたのためにお茶を淹れ続けています。オルグレンは——素直には言えませんでしたが、戻って来いと。
「オルグレン卿が?」
──はい。
長い沈黙があった。
外では風が止み、麦畑が静かになっていた。
「……わたしは、数式で答えを出すことに慣れすぎていました。最適解を計算し、それに従って行動する。自分が消えることが最適解なら、消える。それが合理的だと」
「でも——人間の問題には、最適解がないのかもしれません。あるのは、選択だけだ。消えるか、残るか。どちらが正しいかは、計算では出せない」
──なら、どうしますか?
カイは窓の外を見た。夕日が麦畑を金色に染めている。
「少しだけ——もう少しだけ、ここにいさせてください。この村の水路の設計が途中なんです。それが終わったら、戻ります」
「戻って——仕組みではなく、人と向き合ってみます。下手ですが」
わたしは頷いた。
「下手でいいと思います。完璧な仕組みより、不完全な人間の方が——たぶん、温かいですから」
カイは少し笑った。今日二度目の笑みだった。




