第72話《歴史》
午前の光が差し込む書斎の中、バルドランは分厚い本を机に置いた。
ページの端が擦れ、長い年月を感じさせる。
机の上には光の板——魔法で投影された大陸地図が浮かんでいる。
「さて、今日はこの世界の“今”を知る授業じゃ」
その声に、ナユはぱっと身を乗り出す。
リカリーネは頬杖をついて、半分あくびをかみ殺した。
「また座学〜?昨日もだったじゃない!実戦やりたい!」
「知識は力なのです、リカちゃん!」
「誰がリカちゃんよ!」
小さなやり取りに、バルドランは咳払いをして地図を指す。
「よいか。この数年――人界、魔界、そして精霊圏を巻き込んだ“勇者と魔王の戦争”があった」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ重くなった。
地図の中央に赤と青の光がぶつかるように映し出される。
「勇者は“光の加護”を、魔王は“深淵の理”を操った。両者の戦場となった地――“神域”は、今も灰の大地のままじゃ」
「勝ったのは、どっちなのです?」
ナユの問いに、老魔法使いは静かに首を振った。
「……誰も知らん。どちらも帰らなんだ。それでも各国は“自分達は敗北していない”と主張し続け、今も火種を隠しておる」
「つまり、平和じゃないって事?」
「表向きはな。だが裏では、互いに剣を研いでおる。いわば、冷戦の時代よ。ーー火種は消えぬまま、息を潜めておるのじゃ」
ナユは光の地図を見つめた。
青と赤の境界線に、ふっと指を伸ばす。
「……それでも、誰かが止めたから今があるのです」
その一言に、バルドランは短く目を閉じた。
「……そうかもしれん。だが、その“誰か”が誰だったのか——それを知る者はもうおらん」
風が窓を撫でる。
古書のページが一枚だけ、静かにめくれた。
「先生」
「なんじゃ?」
「勇者と魔王……その“光”と“闇”の力。もしも両方を使える人がいたら、どうなるのです?」
バルドランはわずかに息を止め、杖の先で机を叩き、静かに目を細め、語り口を変える。
その声音には、重みがあった。
「——そうじゃな、昔の話をしよう。光と闇——この二つの属性を、同時に扱おうとした魔導師がいた」
「え……同時に、なのです?」
「そうじゃ。光は“創造”を司り、闇は“終焉”を支配する。本来、一つの器にはどちらかしか宿らん。だがその男は、両方を手にしようとした。理由は知らん。理を超えた力を求めたのか、それとも真理を覗こうとしたのか……」
リカリーネが息を呑む。
ナユは身を乗り出していた。
「それで、その人はどうなったのです?」
バルドランは目を閉じる。
静寂が流れ、時計の音が遠くで鳴る。
「――存在ごと、消えた。光と闇が交わる時、そこに生まれるのは“混沌”。形あるものを無に還す、理そのものの崩壊じゃ」
「む……無、なのです?」
「うむ。“虚無”とも呼ばれる。この世界を支える法則を溶かし、記録も記憶も残さず喰らう。ゆえに、両属性を持つ者は、今も禁忌とされておるのじゃ」
バルドランの表情には、わずかな悲哀が滲んでいた。
語りながら、彼の瞳はどこか遠くーーまるで過去を見ているようだった。
「……その人、師匠のお友達だったのです?」
ナユの素直な問いに、バルドランの肩がわずかに動く。
「……ああ。儂の、唯一の友だった。今でも、あの時止められなかった事を悔いておる」
沈黙。
風が窓を鳴らし、紙の端をめくる。
◆
ナユは小さな声で呟いた。
「……混沌、無……それって、すごく怖いのです」
「怖いだけではない。それを理解し、扱える者が現れれば、世界は再び“形”を変えるじゃろう。じゃが――それが“救い”か“破滅”かは、誰にも分からん」
リカリーネは腕を組み、ふっと鼻を鳴らす。
「ま、そんな馬鹿は二度と出ないでしょうね」
その言葉に、バルドランはほんのわずかに微笑んだ。
「……そうであってほしいのう……明日は座学ではない。“確かめる”授業をする。――覚悟しておけ」
◆
授業が終わり、机の上にはインクの染みが残っていた。
ナユはノートに震える字で、こう書き残す。
『混沌と無。光と闇。――それは、触れてはいけない力。』
そして、小さく呟く。
「でも……わたし、知りたいのです。本当の“光”って、なんなのか――」
その琥珀の瞳に、わずかな決意の光が宿っていた。
◆
「今日の記録:バルドラン先生の授業“魔法史”。光と闇の魔法は危険。混沌=無になる。友を失った話が悲しかったのです。……でも、わたしは“光”を信じたいのです!日報完了。」




