第307話《来影》
迷宮都市ナユタの朝は穏やかだった。
石畳には商人の声が響き、屋台の煙が細く空へ昇る。
子ども達は走り回り、職人は今日の仕事の段取りを話していた。
この街は安全だ。
誰もが、そう思っていた。
領主が規格外だから。
結界があるから。
ここは迷宮都市ナユタだから。
不安など、遠い話だった。
屋敷では書類の山が積み上がっていた。
「次はこちらです」
ミナが淡々と差し出した。
「ありがとうミナ」
セバスチャンが静かに受け取る。
封書を確認し、指示を書き、印を押す。
次の書類。
さらに次。
領主が不在でも、街は止まらない。
「物資搬入の最終確認は済んでおります」
「良いですね。午後の会議は予定通り進めましょう」
淡々と処理されていく。
日常だった。
◆
その頃。
城壁上。
サバリネが、ふと空を見上げた。
表情が変わる。
「……来ますわね」
低い声だった。
隣でザヴェルも視線を上げる。
「来るのか……ナユが帰って来るまで待ってほしかったんだがな」
短い言葉。
空は青い。
雲が流れているだけ。
だが。
遠く。
ほんの一点。
黒い影。
最初は、ただの雲に見えた。
だが違う。
動いている。
ゆっくりと。
だが確実に。
こちらへ。
ザヴェルが目を細める。
「……でかいな」
影は形を変える。
長い輪郭。
丸みを帯びた巨体。
尾のような揺らぎ。
まるで。
空を泳ぐ、巨大なクジラ。
だが黒い。
濁った黒。
見ているだけで胸がざらつく色。
サバリネが静かに呟く。
「負の集合体……」
空気が重くなる。
黒いクジラが、ゆっくりと進む。
その口元が歪む。
次の瞬間。
黒い光が収束した。
「来るぞ」
ザヴェルが短く言った。
轟音。
暗黒のレーザーが放たれる。
一直線に、街へ。
――だが。
空が白く光る。
見えない膜が浮かび上がる。
白竜の結界。
黒光が触れた瞬間、激しい衝突音が響いた。
閃光。
レーザーが弾かれ、空に散る。
結界は健在。
だが。
クジラは止まらない。
巨体が向きを変えた。
今度は。
体当たり。
空が唸る。
巨大な影が、迷宮都市ナユタへ落ちてくる。
街の人々が、ようやく気づいた。
空を見上げる。
ざわめきが広がる。
平和な朝が、終わる。
黒い巨体が、結界へ迫っていた。




