第303話《胎動》
迷宮都市ナユタの外縁。
夜。
そのさらに先、陽光も届きにくい深い森――魔の森。
その中心で、闇が蠢いていた。
地面に溶け込むように広がり、黒い泥のように脈動しながら、ゆっくりと、しかし確実に膨れ上がっていく。
中心にあるのは、街でナユが竜滅撃で消し飛ばした分体とは比べ物にならないほど巨大な影だった。
森の木々より高く、枝葉の隙間を覆い隠すほどの黒い塊。
闇が触手のように伸びる。
その先にいたウルフ型の魔物が絡め取られた。
ずぶり。
黒に沈み、音もなく消える。
肉も骨も、魔力も存在も、すべてが吸い込まれる。
塊がわずかに膨れた。
「……分体がやられたか……」
空気が歪む。
「……だが、本体が失われなければ問題ない……」
無数の窪みがゆっくり開く。
「……あの人間の娘……」
濁った声が漏れる。
「……食いたい……」
闇の表面がゆっくりと波打ち、地面の落ち葉が湿った音を立てて沈み込んだ。
空気が重く絡みつき、森の奥で小さな魔物が逃げ惑う気配が走る。
「……喰いたい……」
黒い触手のような影が幾重にも伸び、木々の幹を軋ませながら締め上げる。
枝が折れ、葉がはらはらと落ちる音だけが、不気味に長く響いた。
「……くいたい!!!」
次の瞬間、森全体が低く唸るように震えた。
淀んだ瘴気が一気に噴き上がり、黒い霧が地面から湧き立つ。
遠くで獣の断末魔が途切れ、風さえ止まり、闇だけがゆっくりと膨れ続けていた。
森の奥で鳥が一斉に飛び立った。
闇は理解している。
分体に何が起きたのか。
上空へ跳ね上げられ、逃げ場もなく破壊の光に呑まれた。
その記憶は、確かに共有されていた。
同じ攻撃は受けない。
そのためには、もっと大きく、もっと強く、もっと喰らう必要がある。
闇が森へ広がる。
遠くに散っていた黒い霧のような影達が、呼ばれるように集まり始めた。
分体。
無数の小さな闇。
それらが次々と本体へ吸い込まれる。
融合し、膨張し、密度が増していく。
さらに森の魔物達。
オーク。ゴブリン。巨大蛇。飛竜の幼体。
逃げる。
だが逃げきれない。
闇は森そのもののように広がり、逃げ道を塞ぎ、一体ずつ飲み込んでいく。
魔力。生命。恐怖。憎悪。
すべてを喰らい、闇は膨れ続ける。
空気が淀む。
霧のような瘴気が立ち込める。
本体は、負そのものだった。
森の中心で、闇はさらに巨大化していく。
◆
その時。
森の外縁近く。
五人組の冒険者パーティーが慎重に木々の間を進んでいた。
「……おい。なんか静かすぎねぇか」
前衛の剣士が低く言う。
「さっきから魔物の気配がない」
弓手の女が周囲を見渡す。
「消えてる……いや違う。集まってる……?」
魔術師の背に嫌な汗が流れる。
その瞬間。
前方の木々の隙間に、黒。
巨大な闇の塊。
「……は?」
誰かが声を漏らした。
木より高い。
山のような影。
地面が沈むほどの質量。
無数の窪みが、ゆっくりこちらを向く。
全員の背筋が凍る。
「……撤退だ!!無理だ、あれは無理だ!!」
リーダーが叫ぶ。
魔術師が懐から取り出す。
金属製の小さな筒。
最近ギルドに配備された装置――短距離魔導無線機。
震える手で起動する。
「こちら探索班C!!魔の森外縁!!未確認巨大魔物を発見!!規模は……規模は……街級の災害レベルだ!!至急応援――」
その時。
背後の地面が、ぬるりと揺れた。
振り向く。
足元。
影。
黒い液体のような闇が、すでに回り込んでいた。
「下――」
言い終わる前に、ずぶり。
後衛が沈む。
悲鳴。
剣士が振り向く。
「逃げ――」
言葉が途切れる。
木々の間から巨大な影が覆いかぶさった。
視界が黒に埋まる。
通信機だけが地面に落ち、雑音を吐き続ける。
短い叫び。
骨の軋む音。
そして静寂。
数秒後。
闇の内部から声が滲み出る。
「……やはり……人間は美味い……」
闇がわずかに膨らむ。
「……もっと……喰いたい……」
森の奥で、さらに多くの影が動き始めた。
迷宮都市ナユタへ向けて。
静かに。
だが確実に。
次の災厄が、動き出していた。




