【第1話「勘当と辺境の廃村」】
燭台の炎が、三本同時に揺れた。
クライン伯爵家の広間。天井まで届く大窓の向こうには、夕暮れに染まった庭園が広がっている。薔薇の手入れを、昨年まではアリシアがひとりでやっていた。今は誰もしていないから、枝が徒長して見苦しい。
「アリシア・フォン・クライン」
父の声が、石床に落ちた。
「お前を、本日をもって勘当とする」
広間に集まった使用人たちが、一斉に視線を外した。誰も助けない。助けられない。アリシアにはそれがわかっていたから、ただ静かに父の顔を見ていた。
父の隣に、義母が座っている。口元に薄い笑みを浮かべたまま、微動だにしない。そのさらに隣、少し引いた位置に義妹のイザベラが座って、白いレースの手袋をいじっていた。退屈そうに。まるで芝居の結末を知っている観客のように。
「勘当の理由は」と父は続けた。「お前のせいで、この二年、領地経営が滞った。万能職人などという役立たずのスキルに現を抜かし、婚約者を蔑ろにし、クライン家の名誉を傷つけた。相違ないな?」
アリシアの喉の奥に、何かがこみ上げてくる気配があった。
相違ある。相違しかない。
二年間、領地の用水路を設計したのはアリシアだ。老朽化した製粉所の歯車を作り直したのも、村の薬師に保存薬の製法を教えたのも、伯爵領の年間収支をわずかな黒字に保っていたのも、すべてアリシアだった。それが「滞った」というなら、自分が追い出された後の経営はどうなるのか。聞いてみたい気もしたが、やめた。どうせ理解できない。
「……はい、お父様」
かわりに、こう言った。
「相違ありません」
父の目に安堵が走った。義母の口元の笑みが、少し深くなった。
そのとき、扉が開いた。
「待たせたな、アリシア」
金髪を撫でつけた青年が、広間に入ってきた。レオンハルト・フォン・バルター。隣領の伯爵家嫡男。アリシアの婚約者だった男。
「レオンハルト様」
「婚約は破棄する」
間もなく、続けた。「お前のような職人娘が伯爵家の妻に収まれるとでも思っていたのか。鉄を叩いて、土を掘って、汗をかいて。そんな女が俺の隣に立てるか」
彼はアリシアを見ていなかった。その視線は、イザベラに向いていた。
イザベラが、にっこりと微笑んだ。
ああ、とアリシアは思った。そういうことか。ずいぶん手際が良い。
「わかりました」
アリシアはもう一度、同じ言葉を使った。
「相違ありません」
レオンハルトが眉をひそめた。拒絶も嘆きも懇願もなく、ただ「わかった」と言われることが気に食わなかったのだろう。
「貴様、わかっているのか。お前はもう、この家にも、どの伯爵家にも——」
「辺境の領地を下賜するという話でしたね」
アリシアは遮った。
「ヴェルドラ村。魔物が出て、人が住めないと言われている土地。それが勘当の条件であるなら、受け取ります」
広間が、しんと静まり返った。
父が、かすかに目を細めた。そこにあったのは驚きではなく、むしろ——どこかの良心が「本当にこれでいいのか」と囁いているような、微かな逡巡だった。しかしその一瞬はすぐに消えた。義母が夫の腕にそっと手を置いたから。
「ならば良い。明朝、出立するように」
「承知しました」
アリシアは礼をした。
踵を返しながら、背後でイザベラの声が聞こえた。
「地味な姉さん、野垂れ死にしてね」
くすくすと笑う声。レオンハルトが「イザベラ、品がないぞ」と軽く窘める声。それきり、聞こえなくなった。
廊下に出てから、アリシアは一度だけ立ち止まって、石壁に手をついた。
震えていた。手が、ではない。胸の奥の、もっと深いところが。
二年間。ずっと。
……いい。
アリシアは息を吸い込んで、吐いた。
自室に戻ると、すでに最小限の荷物しか残っていなかった。使用人が整理したのか、それとも誰かが先に引き上げたのか。どちらでもよかった。アリシアが持っていくものは、最初から決まっていた。
作業用の革鞄。工具一式。そして——布張りのノート、七冊。
ノートを手に取り、背表紙を指で撫でる。インクの匂い。紙の感触。前世の記憶をすべて書き写した、アリシア・フォン・クラインの「もうひとつの人生」の記録。蒸気機関の設計図、電気回路の基礎、精錬技術の原理、農業工学、建築力学——この世界の「常識」とは一線を画した、あの時代の叡智の断片たち。
ろうそくの炎に照らされながら、アリシアは笑った。
誰もいない部屋で、ひとりで。
むしろ好都合じゃない。
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馬車が止まったのは、昼をとうに過ぎた頃だった。
「お嬢様」と御者が言った。「ここが……ヴェルドラ村に、なります」
その声に、迷いがあった。
アリシアは窓の外を見た。
広がっていたのは、荒野だった。
枯れた土。風に倒れたまま放置された柵。かつて畑だったらしい区画は、白い粉を吹いたように変色している——塩害だ。井戸は蓋が外れ、縄は腐って使えない。村の入口を示す標柱は折れて、半分が地面に突き刺さっていた。
家が、五軒。そのうち二軒は屋根が落ちていた。
「…………」
御者が恐る恐る振り返る。「お嬢様、やはり一度街まで戻って——」
「大丈夫です」
アリシアは扉を押し開けて、降りた。
足の裏に、乾いた土の感触が伝わってきた。踏みしめると、かすかに白い粉が舞い上がる。塩分が地表まで浮いてきている。ひどい状態だが、深さはおそらく三十センチ程度。客土と排水路の組み合わせで、一シーズンで回復できる。
アリシアはしゃがみこんで、指で土をつまんだ。
粘土質。保水性は低くない。本来なら小麦もじゃがいもも育つはずの土だ。
「お……お客人?」
かすれた声がして、顔を上げた。
老人が一人、壊れかけた家の入口に立っていた。腰が曲がり、日焼けした顔には深い皺が刻まれている。目だけが、警戒と微かな期待の光をたたえて、アリシアを見ていた。
「アリシア・フォン・クラインです」とアリシアは言った。「本日より、この土地の領主を拝命しました」
老人の顔が、複雑に歪んだ。
「……領主様が、こんな若い娘さんで」
「ええ」
「ここは、ひどい土地です。ご覧の通り。若様方も何人か来られましたが、みな三日も経たずに戻られた。魔物の気配はいつまでも消えないし、水も出ない。残っているのは儂を含めて五人だけ。もう誰も来ないと思っておりました」
「村長さん?」
「はあ、一応」
「話は後で聞かせてください。今は少し、作業させてもらっても構いませんか」
老村長が目を丸くした。「作業、とは」
「水を出します」
アリシアは立ち上がり、革鞄を開けた。
中から取り出したのは、小さなガラス管の束と、錬金工房で自作した触媒石——魔力を特定の化学変化に変換する素材だ。まずは地質を確認する必要がある。アリシアは村を横断するように歩きながら、五メートルおきに地面に触媒石を押し込んでいった。
三十秒後、石が反応した。地下二十メートルおちに帯水層がある。
「鶴嘴はありますか」
「は、はあ……あの納屋に」
「借ります」
アリシアが掘り始めてから二時間後、水が出た。
老村長は声も出なかった。他の住人——老婆が二人、青年が一人、少女が一人——が、音を聞きつけて外に出てきた。黒い泥と一緒に噴き出してきた水を見て、全員が信じられないものを見るような目をした。
しかしアリシアの手は止まらない。
次は浄水だ。
革鞄から陶管を取り出す。砂と砂利の層を精密に設計した、重力式の簡易浄水器。フィルター素材は途中の街で買い集めておいた。三十分で組み上がる。
「炭はありますか」
「あ、あります」
「粉炭にしてください。できるだけ細かく」
老村長が走った。初めて見る指示に戸惑いながらも、確かに走った。
浄水器が完成したのは、日が傾き始めた頃だった。
陶管の先端から、透明な水が細く流れ出す。
アリシアは手のひらで受け止めて、飲んだ。少し鉄の風味があるが、飲める。体に害はない。
「飲んでみてください」
少女が最初に手を伸ばした。六歳か七歳。服はぼろぼろで、頬がこけている。細い指で水をすくって、一口飲んで——。
泣いた。
突然、ぼろぼろと涙をこぼしながら泣き出した。意味がわからないという顔をしながら、自分でも止められないように泣いている。
老村長が、目頭を押さえた。
「……三年ぶりです」と老人は言った。「この村で、きれいな水を飲んだのは」
アリシアは空を見た。
日暮れまで、まだ一時間ある。
「次は光です」
再び鞄に手を入れる。今度取り出したのは、拳大の魔石と、銅板を巻いたコイル状の器具。これは電磁誘導の原理を応用した、アリシア自作の魔力変換発電機。理論は前世の記憶から、素材はこの世界の錬金術から。二つの知識を組み合わせて、この三週間で試作した一品だ。
設置は単純だ。水流を利用してコイルを回転させ、魔石を通じて電流に変換する。配線の代わりに魔力導管を使う——それだけのことが、この世界では「誰もやったことがない」。
一時間後。
ヴェルドラ村の五軒の家に、光が灯った。
魔石ランプではない。白く、安定した、電気の光だった。
老村長が、長い間それを見つめていた。それから、アリシアを見た。
「……あなたは、何者ですか」
アリシアは笑った。
「クライン工業領の、領主です」
老人の目に、初めて本物の感情が浮かんだ。疑いではなく、驚きでもなく——信頼、だった。
「この人は、本物だ」
老村長の呟きが、夕暮れの風に溶けた。
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夜。
住人たちが家に引き取ってから、アリシアは廃屋の一角に腰を下ろした。ランプの光に照らして、ノートを開く。
七冊の中の一冊。「農業・水利」と背表紙に書かれたもの。
明日からやることのリストが、すでに頭の中にある。塩害土壌の改良、風力発電機の設置、鉱物資源の探索、建材の確保、人員の確保——。課題は山積みで、手は一対しかなくて、資金はほぼゼロだ。
それでも。
アリシアはページの余白に、細かい文字で書き込み始めた。
どこかで、夜鳥が鳴いた。
書く手を止めずに、アリシアはふっと笑った。
今頃、あの広間ではどんな話をしているだろう。父は安堵しているか。義母は鼻歌でも歌っているか。レオンハルトはイザベラの手でも握っているか。
「役立たず、ね」
声に出してみたら、思ったより腹が立たなかった。
むしろ——楽しかった。
ノートの余白に、アリシアは一行だけ書いた。
『明日から、本気を出す』
夜風が、窓の隙間から吹き込んできた。ランプの炎が揺れて、設計図の線が影になって踊る。
あの人たちは、まだ何も知らない。
自分が何を捨てたのか。
アリシアはノートを閉じ、目を細めた。
さあ。
見ていなさい。
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【第1話・了】




