崩壊
欧州の朝は、東アジアの朝よりも少しだけ冷たい、それは単なる気温の話ではない。
空の色も、街の輪郭も、石造りの建物に差し込む光も、どこか鈍く、静かで、そして油断ならない。
大陸の中心に近いその一角、厚い石壁と複数層の防御結界に守られた会議施設の一室で、三つの国家が同じ空気を吸っていた。
ドイツ、フランス、イギリス。
本来ならそれだけで一つの均衡だ。
規律、正面戦、支配。
それぞれ違う形で国家を体現する三人は、揃えば強い。少なくとも、そう簡単に外から揺さぶられる組み合わせではない。
だが今、その均衡はわずかに音を立てていた。
「……異常だ」
最初に口を開いたのはドイツだった。
銀髪を几帳面に揃えた少女は、モニタに映る波形から視線を外さない。青い瞳の焦点が鋭く一点に固定されている時は、大抵ろくでもないものを見つけている時だと、フランスは知っていた。
彼女は椅子に浅く座ったまま、足を組み替える。
「さっきも聞いたわ、その台詞」
「さっきより状況が悪い」
ドイツは即答した。
「東アジア方面、ロシアの観測波形が完全に別物へ移行している」
「だから、その別物って何なの」
フランスの声音は平静を装っているが、苛立ちは隠れていなかった。今日は朝からずっとそればかり、異常反応、不明波形、過去の歴史の再起動、説明不能の重複信号。
分からないものが多すぎる。
「現段階で名称断定はできない」
「その前置きも聞き飽きたわ」
「だが」
ドイツの視線がようやくフランスへ向く。
「おそらく、ソビエト連邦の再現体だ」
その言葉に、フランスの表情が一段だけ険しくなった。窓際に立っていたイギリスだけが、かすかに笑っていた。
「へえ」
楽しそうですらある声音。
「やっぱりそうなんだ」
フランスがすぐさま睨む。
「何がやっぱりよ」
「気配がね」
イギリスは窓の外を見たまま言う。
「古いのに新しい。終わったはずなのに、まだ自分で終わる気がない感じ。ああいうの、だいたい厄介なんだよ」
「人ごとみたいに」
「人ごとだよ。今のところはね」
「あなた、それ本気で言ってる?」
「半分くらい」
イギリスはにこやかに振り返る。その笑顔はいつも通り柔らかい。柔らかいのに、言っていることは相変わらず一つも柔らかくない。フランスは大きくため息をついた。
「朝から最悪」
「ありがとう」
「褒めてない」
「知ってる」
ドイツは二人のやり取りにほとんど反応しない。
視線をモニタへ戻し、別の波形を拡大する。
「問題はソ連だけじゃない」
「まだあるの?」
フランスが顔をしかめる。
「日本も反応が不安定だ」
その一言で、イギリスの青い瞳がわずかに細くなった。
「へえ。そっちはまた?」
ドイツは頷く。
「未完全な状態だが、明らかに別出力が混在している。表面上は日本本体だが、局所的に歴史層が上書きされている」
フランスが首を傾げる。
「難しい言い方やめてくれない?」
「日本の中に、過去の日本がいる」
ドイツが簡潔に言い換えた。
それなら分かる。フランスは小さく息を吐き、天井を見上げる。
「東も西も、ほんとに面倒なことになってるわね」
「そうでもないよ」
イギリスがくすくす笑う。
「こういうの、私は嫌いじゃない」
「でしょうね」
フランスが呆れたように返す。
「あなたって、世界が少しでも平穏から外れると嬉しそうだもの」
「だって退屈じゃなくなる」
「そういうところが一番怖いのよ」
「心外だな」
「どこが」
フランスが言い返しかけた、その時会議室の壁面モニタが一斉に赤へ染まる。
警告音。
今までとは比べ物にならないほど強い干渉。
ドイツがすぐに立ち上がった。
「何」
フランスも一緒に腰を浮かせる。
表示されたのは東アジア方面の生体・戦闘・歴史出力の同時観測データだった。
日本、中国、韓国、アメリカ。
そして赤いソ連。
複数の波形が入り乱れ、乱雑なようでいて、一つの巨大な異常としてまとまっている。
ドイツの声が、いつもよりわずかに低くなる。
「なぜ、ソ連の反応がある」
その言葉は独り言ではなかった。確認に近い。否定を期待していない問いだ。フランスはモニタを見つめたまま、わずかに唇を引き結ぶ。
「本当に、出てるのね」
「出ている」
ドイツは短く答える。
「しかも不完全体ではない。現在のこれは、明確に独立した出力を持っている」
イギリスだけが、数秒ほど黙ってモニタを眺めゆっくりと口元を上げる。
戦闘継続、損耗上昇、出力低下。
それでもなお、ソ連の反応はほとんど落ちない。ドイツの青い瞳が、わずかに細くなった。
「東は持たないかもしれない」
その一言だけで、部屋の温度がさらに下がったように感じられた。
東アジア。
ソ連は、まるで倒れる気配を見せなかった。
日帝の拳は確かに本体へ届いている。
韓国の高速連打も、アメリカの火力投射も、浅くないダメージを与えているように見えた。
それでも、ソ連は立っている。
立っているどころか、戦況の流れそのものを徐々にこちら側から奪っていた。
「ちっ……!」
韓国が高速で飛び退く。
直後、彼女がさっきまでいた場所へ、赤い兵士たちが一斉に突き立てた銃剣めいた影が降り注いだ。
地面が抉れ、凍ったアスファルトが音を立てて砕ける。
「多すぎるって!」
韓国が叫ぶ。
「これ本当に兵士!? 虫じゃないの!?」
「虫の方がまだ可愛いわね!」
中国が言い返しながら前方へ防壁を展開する。
万里の長城。
金色の壁が広く弧を描き、波のように押し寄せる兵士たちを正面から食い止めたがその数は異常だった。
斬っても、砕いても、吹き飛ばしても減らず、地面の裂け目、凍結した道路の継ぎ目、壊れた工場の影。あらゆる隙間から滲むように現れ続ける。
ソ連の能力、《五か年計画》
その第一段階、兵士の増産。
「増産」
ソ連が低く告げるだけで、兵士はさらに増える。
数そのものが戦術になっていた。
「っ……!」
日帝が拳を振り、目前の兵士を数体まとめて吹き飛ばす。
兵士そのものは倒せる。
だが、本体への道が作れない。
斬った瞬間に次が現れ、その次のさらに奥から新しい列が押し寄せてくる。
韓国が兵士の群れを蹴り飛ばしながら叫ぶ。
「中国! 壁でまとめて押し込めない!?」
「やってる!」
中国の声には余裕がなかった。
彼女の壁は優秀だ。
前方防御としてだけでなく、戦場の進路制御にも使える。だが今目の前にいる相手は、そんな理屈を平然と物量で踏み潰してくる。中国自身、まだ負傷が癒えきっていない。
「……ああもう!」
中国が舌打ちする。
「ほんと嫌い! こういう数で全部解決しますみたいな思想!」
「らしいと言えば、らしいけどな!」
アメリカが上空から砲撃をばら撒きながら返す。
火力投射。
高出力の光弾が兵士の集団をまとめて薙ぎ払う。
普通ならそれだけで制圧できるだけの威力だ。だがソ連の軍勢は、穴が空いた瞬間に周囲から埋まる。
「ねえ、これマジでキリなくない!?」
アメリカの声は軽いが、余裕は確実に減っていた。
昨日までの彼女なら、こういう状況でももっと楽しそうにしていたはずだ。だが今は違う。
目の前にいるのが、ただの強敵ではないと理解しているからだ。
「日本!」
中国が声を飛ばす。
「本体、左から!」
日本は即座に反応した。中国の壁がわずかにずらされ、本体へ通じる一瞬の通路ができる。韓国がその逆側で兵士を引きつけ、アメリカの砲撃が上から視界を切る。理想的な連携だった。
日帝が踏み込む。
大東亜共栄拳。
空気が裂ける。
ソ連の懐へ、一瞬で入り込む。
拳が連続して叩き込まれる。
今度は浅くない。
確実に、見えていた。
腕、肩、脇腹。
斬撃の軌道が赤い衣服と肌を裂き、細かい血飛沫が舞う。それなのに。
「……無意味だ」
ソ連は、やはり止まらない。日本の喉がわずかに強張る。見ていた韓国が顔を歪めた。
「いや、絶対当たってるって!」
中国も奥歯を噛む。
「なんで効かないのよ……!」
ソ連の第二段階、影響遮断。
あらゆる技の影響を受けない。
その再現が、今の目の前で現実になっていた。
「計画継続」
ソ連の低い声。
次の瞬間、日本の足元から兵士の腕が伸びる。
日帝が即座に飛び退く。
代わりにアメリカが上空から急降下し、ソ連の頭上めがけて巨大な衝撃波を叩きつけた。
轟音。
建物の壁面が吹き飛び、地面が大きく抉れる。
「これなら!」
アメリカの叫び。
しかし、煙が晴れたその中心で、ソ連は立っていた。傷はある、髪も乱れている。
明らかに当たっているのに、損耗が戦況に反映されていない。
「……は?」
アメリカの口から、珍しく本気で間の抜けた声が漏れる。
「マジで……?」
「だから言ってるでしょ」
韓国が言う。
「効いてないのよ、こいつ」
「いやでも、あれ直撃だぞ!?」
「ええ、直撃だった」
中国も顔をしかめる。
「なのに立ってる。だから最悪なの」
その言葉に、アメリカの青い瞳が細くなった。ようやく本当の意味で危険性を理解したようだった。
「……久々だな、ソ連」
ぽつりと、彼女が言う。その声音はこれまでと少し違っていた。ふざけ半分でもなく、挑発でもない。過去を知る者の声。中国がすぐに反応する。
「やっぱり、知ってるのね」
「知ってるっていうか……」
アメリカは砲撃の余熱が残るグローブを握り直す。
「昔から、嫌でも知るだろ。こういうのは」
ソ連の深紅の瞳がアメリカを向く。
「確認」
低い声。
「アメリカ」
「おう」
アメリカは苦笑する。
「向こうはちゃんと覚えてんのかよ」
「計画に記録あり」
ソ連の声は機械的だった。
「敵性対象」
「だろうな」
アメリカはそこで初めて、ほんの少しだけ日本の方を見た。
「な、日本」
「何」
「昨日の昔のお前もやばかったけどさ」
「こっちは明らかに出ちゃいけない方の歴史だ」
日帝は言葉を返さなかった。返せないというより、それを否定できなかった。日帝も確かに危険だ。だが少なくとも、日本自身が手綱を持っている。嫌悪しながらも、自分で封じ、自分で出すかどうかを選べる。
目の前のソ連は違う。
歴史そのものが独立している。
人格として完成しつつある。
ロシアの中から出てきたくせに、もうロシアの一部では収まらない気配を放っている。
「日本!」
韓国の叫び。思考が一瞬だけ切れた、その隙をソ連は見逃さない。兵士たちが一斉に動く。
日帝の退路を塞ぐように左右から押し寄せ、その中央からソ連本人が歩いてくる。速くはない。だがその歩みには奇妙な圧がある。追い込まれた、という感覚だけが先に来る。
「下がって!」
中国の万里の長城が日本の前に立ち上がる。兵士たちが壁へぶつかる。アメリカがその上空へ砲撃。韓国が側面から兵士の列を分断。なんとか日帝は後方へ跳ぶ。
「……ごめん」
「その台詞、戦闘中は禁止!」
中国が鋭く言い返す。
「気が散る!」
「うん」
「返事も軽い!」
だが日帝の声は本当に軽かった。というより、疲労で削れている。
「……アメリカ」
日帝が低く呼ぶ。
「ん?」
「ソ連って、昔はどうやって止めたの」
アメリカは一瞬だけ黙った。軽く答えられる問いではないと、表情が物語っていた。それでも彼女は、正直に口を開く。
「……止めたっていうより」
青い瞳がわずかに陰る。
「持久戦と、圧と、何より」
そこまで言いかけたところで、ソ連の兵士たちが一斉に形を変えた。銃剣の群れだったものが、今度はさらに密度を増し、塊で押し潰すように壁へ近づいていく。中国がすぐに目を見開く。
「ちょっと待って、あれ!」
ソ連の声が低く落ちる。
「統合」
その一言と同時に、兵士の群れが一つの大きな質量となって前へ出る。
中国の万里の長城へ、真正面からぶつかった。
轟音。
金色の壁が震え、中国の顔が歪む。
「――っ!!」
「中国!」
日帝が叫ぶ。
「平気じゃない……!」
中国は歯を食いしばったまま答える。
「でも、まだ持つ……!」
「無理しないで!」
「今それ言う!?」
叫び返す声すら震えてる。ここで壁が崩れたら終わる。だが前へ出れば兵士の群れに飲まれる。後ろでは韓国もアメリカも動いているが、流れそのものを変えきれていない。詰んでいるわけではない。詰みに近づいている。
「……まずいな」
アメリカが低く言う。その言葉に、日帝も韓国も返事をしなかった。分かっているからだ。今ここで何かを変えなければ、戦況は確実に沈む。ソ連はゆっくりと前へ出る。壁を押し、兵士を増やし、傷を負いながら、それでも止まらない。その姿を見つめながら、日帝は小さく唇を噛んだ。
このままでは、勝てない。その事実だけが、あまりにも冷たく、確かにそこにあった。
中国の万里の長城が、悲鳴のような音を立てていた。金色の防壁はまだ立っている。立っているが、その表面には無数の亀裂が走り、押し寄せる赤い兵士の群れに対して、明らかに耐えるためだけの形へ追い込まれていた。
ソ連は前へ出る。ただそれだけで、戦況が沈む。
韓国が兵士の塊へ飛び込み、蹴りで数体まとめて吹き飛ばす。アメリカが上空から火力を落とし、空間そのものを削る勢いで押し返す。日帝が本体への線を作ろうとする。
それでも、まだ足りない。
「っ、は……!」
韓国が兵士の肩を蹴って後方へ跳ぶ。着地した瞬間、膝が僅かに揺れた。
自分でも気づきたくなかったが、体力の限界は近い。高速戦闘を維持し続けた反動は大きいし、ここまで休みなく動いていれば当然だ。
「最悪……」
口から漏れたのはいつもの悪態だったが、そこに普段ほどの鋭さはない。
中国も肩で息をしている。
防壁を張り続け、しかも本来なら安静にしているべき負傷状態でこの消耗戦だ。気力で立っているに近い。
アメリカもまた、余裕があるような顔をしてはいるが、そのフライトスーツの随所が裂け、露出した肌には浅くない傷が増えていた。グローブの片側は一部出力が不安定になっており、時おり火花を散らしている。
その事実が一番、心を削った。
「日本!」
中国の叫び。日帝は反射で跳ぶ。
次の瞬間、さっきまでいた場所へ兵士たちの銃剣めいた影が何十本も突き立った。アスファルトが砕け、氷混じりの破片が頬を掠める。
「……ありがと」
「感謝は後!」
中国が言い返す。
この瞬間にもソ連は兵士を増やし続け前へ進んでくる。
中国の壁を押し潰し、韓国の速度を飽和させ、アメリカの火力を耐えるという一点だけで無意味に近づける。
そしてこのままでは中国が、持たない。
「……くそ」
日帝の口から、珍しく乱暴な言葉が漏れた。
アメリカがその声を聞き、上空から日本を見下ろす。
「やっと言ったな」
「何が」
「そういう汚い言葉」
「今そこ?」
「今そこだよ」
アメリカは光弾を三連射しながら笑う。
「余裕がなくなった証拠だ」
「嬉しそうに言わないで」
「少しだけな」
彼女はそう返したが、その声にも疲れが混じっていた。
そして次の瞬間、ソ連がわずかに顔を上げる。
日帝が一歩、前へ出た。
それだけで兵士の群れがわずかに割れる。
「どけ」
低い一言。
拳を握る。
中国の壁がその瞬間だけ動きを変え、日帝のための直線を作る。
「行きなさい!」
中国が叫ぶ。
日帝は返事をしない。
返事をする必要がないくらい、もう前しか見ていない。
踏み込む。
大東亜共栄拳。
圧縮された暴力が、一直線にソ連へ叩き込まれる。
ソ連は避けない。
正面から受ける。
轟音。
兵士たちがまとめて吹き飛ぶ。
ソ連の身体が初めて大きく揺れた。
赤い靄が乱れ、深紅の瞳の奥が揺らぐ。
「……効いた!」
韓国が叫びアメリカも空から笑う。
日帝は追撃に入る。
拳、肘、膝。
剣ではなく打撃のみで構成された連撃が、ソ連の影響遮断を力と精度で貫こうとする。
ソ連の身体に傷が増える。
衣服が裂ける。
血が散る。
それでもソ連は、完全には崩れない。
「影響なし」
またその言葉。
だが今度は、ほんの僅かに遅かった。
確かに、効いている。
「行ける……!」
韓国が兵士の列を蹴散らしながら前へ出る。
「今なら押せる!」
「中国!」
アメリカが叫ぶ。
「壁ずらせるか!」
「やってる!」
中国が歯を食いしばる。
万里の長城が兵士たちの隊列を歪め、日帝の進路だけを通す。
完璧ではない。
だが十分だ。
日帝の拳がさらにソ連へ入る。
深紅の瞳が初めて、わずかに細まる。
そして。
ソ連が、静かに言った。
「……日帝」
その声に、日帝の拳が一瞬止まる。ほんの一瞬だが戦場では致命的な一瞬ソ連はその隙を逃さなかった。
血の滲む口元で、ほとんど感情のない顔のまま、ただ一言だけ落とす。
「お前を倒したのが誰か」
その瞬間、日帝の呼吸が止まった。
ソ連の深紅の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。
「忘れたか?」
世界が、揺らいだ。
音が遠ざかる。
目の前のソ連ではなく、もっと古い光景が脳裏に走る。
冷たい大地。
終わらない戦線。
崩れていく味方。
届かなかった拳。
勝てると思っていた戦争が、音を立てて足元から抜け落ちていく感覚。
そして最後に残った敗北。
「……っ」
日帝の目が見開かれる。
紅い瞳に、明らかな動揺が走った。
「日本!」
中国の叫び。
だが遅い。
日帝の肩が僅かに震える。
拳が鈍る。
ソ連の次の一撃が真正面から叩き込まれた。
氷ではない。
ただの打撃。
それでも十分だった。
日帝の身体が吹き飛ぶ。
背後のコンクリート壁へ激突し、崩れた瓦礫の中へ叩き込まれる。
「日本!!」
中国が壁を維持したまま叫ぶ。
韓国も顔色を変えて振り向く。
アメリカが即座に上空から兵士の群れを爆破し、ソ連と日本の間に火力の壁を作った。
「くそ!」
アメリカの声に余裕はなかった。
「日本! 立てるか!」
瓦礫の中で、日帝は動かない。
いや、正確には日帝ではなかった。
紅が引いていく。
軍装が白い和服へ戻る。
髪の赤が消え、肩が小さく震える。
そこにいたのは、日本だった。
「……戻った!?」
韓国が叫び中国の顔が強張る。
「最悪……!」
ソ連の言葉が、日帝にだけ届く記憶を抉ったのだ。
敗北の記憶。
過去の敗戦。
その痛みが、日帝という形を一瞬で剥ぎ取った。
日本は瓦礫の中で咳き込む。
「っ……」
視界が揺れる。
頭が痛い。
胸の奥に、さっきまで自分を満たしていた赤い圧がもうない。
代わりにあるのは、嫌というほど生々しい敗北感だけだった。
ソ連がゆっくりとこちらを見る。
「確認完了」
その声に、日本の背筋が冷える。
中国が歯を食いしばりながら叫ぶ。
「アメリカ!」
「分かってる!」
アメリカが即座に降下し、日本の前へ着地する。
グローブを展開し、ソ連へ向けて笑った。
だがその笑みはいつもの軽さより、少しだけ硬い。
「久々だな、ソ連」
その声には、明らかな敵意と、そして奇妙な郷愁が混ざっていた。
ソ連がアメリカを見る。
「確認」
「それもう聞いた」
アメリカは息を吐く。
「お前ら、ほんとそういうところブレねえな」
「計画にブレは不要」
「知ってるよ」
アメリカの青い瞳が細くなる。
「でもさ」
グローブの出力が一段上がる。
「今はこっちも、引く気ねえんだよ」
アメリカが前へ出る。
兵士たちの波を真正面から火力で薙ぎ払い、その熱で中国の壁の負担を一瞬だけ軽くする。
中国がその隙に息を整え、韓国が兵士の列へ斬り込む。
日本も瓦礫の中から立ち上がろうとする。
だが、膝が一度沈む。
「……くそ」
感情ではなく、ただ悔しさだけが残る。
日帝が削がれた。
ソ連の言葉に、確かに崩された。
自分はまだそこまで弱いのかと、日本は歯を食いしばった。
「立ちなさい」
中国の声が飛ぶ。
日本が顔を上げる。
中国は傷だらけのまま、防壁を支えながらこちらを見ていた。
「今は落ち込む時間じゃない」
「……」
「あなたが日本だろうが日帝だろうが、今ここで止まったら意味がないの」
その言葉はきつい。
だが、優しさよりずっと日本には効いた。
「分かってる」
日本が低く返す。
「だったら来なさい!」
中国が叫ぶ。
「まだ終わってない!」
日本は刀を支えに立ち上がる。
呼吸は浅い。
足元も不安定だ。
それでも、前を見ることだけはできた。
前方ではアメリカがソ連と真正面からやり合っている。
昨日までのような余裕や遊びはもうない。
火力と速度、手札の切り替えをほぼ限界まで回し、兵士の群れごと本体を押し込もうとしている。
「っ、は……!」
アメリカの拳がソ連の肩へ直撃する。
ソ連の身体がぐらりと揺れる。
同時にソ連の反撃がアメリカの脇腹へ入った。
「ぐっ……!」
アメリカが後ろへ滑るがそれでも笑う。
「いいねえ……!」
「何がいいのよ!」
韓国が兵士を蹴り飛ばしながら叫ぶ。
「今のどこに楽しむ余地あんの!」
「あるだろ!」
アメリカが息を切らしながら返す。
「こういう最悪の局面、逆に燃える!」
「ほんと意味分かんない!」
中国ですら、さすがにこの返しには小さく呆れたように笑った。
「でも、助かるわ」
「だろ?」
アメリカはその一言で少しだけ救われたように笑う。そして再びソ連へ向き直った。
だが、その瞬間だった。
ソ連の足元が、大きく揺らぐ。
今まで無限に近い勢いで増えていた兵士たちの動きが、一瞬だけ鈍った。
中国がすぐに気づく。
「……何?」
韓国も眉を寄せる。
「今、止まった?」
アメリカの青い瞳が鋭くなる。
「……来たか」
ソ連の身体に、細かな亀裂のような赤い筋が走っていた。
内部から歪みが浮き出ている。
能力を維持し続けた負荷か。
あるいは、ロシアという器自体が限界に近づいているのか。
日本がその様子を見て、低く呟く。
「……崩れてる」
ソ連はそれでも立っている。
だが、さっきまでの“絶対に止まらない”圧がわずかに揺らいでいた。
「負荷……増大」
ソ連の口から機械的な言葉が漏れる。
「計画……継続……」
「継続できてないわよ」
中国が鋭く言い返す。
「見なさい、その身体」
ソ連は答えない。
深紅の瞳が一瞬だけ曇る。
兵士たちの数も、わずかだが減ってきていた。
アメリカが口元を上げる。
「やっと穴が見えた」
「突くわよ!」
韓国が即座に反応する。
中国の壁が兵士の残りを押し返し、日本が再び前へ出る。
今度は日帝ではない。
日本として。
それでも構わない。
今なら届くかもしれない。
ソ連がふらつく。
赤い靄が薄れていく。
その中心にある何かが、明らかに形を保てなくなっていた。
「計画……未達……」
ソ連の声が、初めて揺れた。
それは感情ではない。
だが、限界の音ではあった。
そして次の瞬間。
赤い靄が大きく裂けた。
兵士たちが一斉に消えていく。
深紅の瞳が揺らぎ、赤く染まっていた肌色が薄れていく。
中国が息を呑む。
「……戻る」
ソ連の輪郭が崩れる。
【崩壊】
その言葉が視覚になったみたいに、赤い存在そのものが内側からほどけていった。
日本はその光景を、黙って見つめる。
日帝もソ連も、歴史の再演だ。
だが、永遠ではない。
器に限界がある。
維持するだけの代償がある。
そのことだけが、今はわずかな救いに思えた。
やがて、赤が消える。
そこに残ったのは、色白の肌と銀髪の、ロシアだった。
彼女はふらりと前へ倒れかけ、片膝をつき、そのまま地面へ崩れ落ちる。
静寂。
赤い兵士たちは完全に消えた。
跡には戦闘の痕と冷たい風だけが残る。
「……終わった?」
韓国が最初に口を開く。
その声には、まだ信じきれていない戸惑いがあった。
「一応は」
中国が答える。
だが、その表情に安堵は薄い。
アメリカも肩で息をしながらロシアを見る。
「マジで無茶苦茶だな……」
日本はゆっくりとロシアへ近づいた。
中国がすぐに警戒する。
「日本、待って」
「大丈夫」
「今日その台詞何回目よ……」
「多分、かなり多い」
「自覚あるならやめなさい」
そう言われながらも、日本はロシアのすぐ近くまで行き、足を止める。
ロシアはまだ息がある。
意識も、薄くはあるが残っているようだった。
氷色の瞳が半ば開き、日本を映す。
「……終わった?」
かすれた声。
それはさっきまでのソ連とは違う、間違いなくロシア本人のものだった。
日本は少しだけ目を細める。
「一応」
「そうか」
ロシアは短く息を吐く。
「迷惑をかけたな」
韓国が思わず眉を上げる。
「今その台詞出るの?」
中国も小さく目を見張った。
ロシアがこういう言葉を素直に出すのは珍しい。
だがロシア自身は、本当に事務的な確認のつもりで言っているようだった。
「……まあ、かなりね」
中国が代わりに答える。
「でも生きてるから、今はそれでいい」
「そうか」
ロシアはまた短く頷く。
そのまま目を閉じかけたが、日本が低く言った。
「ロシア」
「……何だ」
「次は、もっと早く教えて」
その言葉に、ロシアの瞼がわずかに動く。
「私たちじゃなくてもいい。自分が危ないと思った時点で」
「……努力する」
中国がすぐに反応した。
「その返し、あんたたちの間で流行ってるの?」
韓国も肩を竦める。
「最悪の流行ね」
アメリカだけが、少しだけ笑った。
「でもまあ、似た者同士なんだろ」
日本はその言葉に答えなかった。
代わりにロシアから一歩下がる。
疲労が一気に押し寄せてくる。
身体は重く、頭も鈍い。
だが戦いは終わった。少なくとも今この瞬間だけは、問題は、その終わり方だ。
ソ連は消えた。
だが、完全に消えたわけではない。また出るのが全員分かっている。
今はただ器が壊れかけて、表に出ていられなくなっただけだ。
「……面倒ね」
中国がぽつりと呟く。
「ほんとそれ」
韓国が即答する。
「今日一番まともな意見かもしれない」
「それ私の台詞よ」
そんな軽口を交わす余裕が戻ったこと自体は、確かに救いだった。
けれど、日本の胸の奥には、まだ重いものが残っている。
ソ連に言われた言葉。
「日帝、お前を倒したのが誰か忘れたか?」
あれは効いた。
確実に、日帝だけを狙って崩した。
日本はそれを認めざるを得なかった。
自分の中にある過去は、まだ過去として片づいていない。
あの敗北は、今も傷になっている。
「日本」
アメリカが横に立つ。
「何」
「顔、また重い」
「いつも通り」
「嘘だろ」
アメリカは苦笑した。
「日帝が崩されたの、気にしてんだろ」
「……」
「図星か」
日本は数秒黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「気にしない方が無理」
「まあ、だよな」
アメリカもそれ以上は軽口を挟まない。
代わりに空を見上げる。
「でもさ」
「何」
「崩されたってことは、逆に言えば効くってことだ」
日本が少しだけ眉を寄せる。
アメリカは続けた。
「お前の中の過去も、ロシアの中の過去も、完全無敵じゃない」
「……」
「そう考えたら、まだマシだろ」
日本は答えなかった。
だが、その言葉は胸のどこかに残った。
完全無敵ではない。
それは多分、救いだ。
たとえ今は痛みの方が大きくても。
同じ頃。
欧州では、空がさらに曇っていた。
東アジアのソ連反応が急速に収束したことで、会議室のモニタに映る波形もようやく落ち着きを見せている。だが、それで終わりではない。
むしろ終わらないことが確信に変わっただけだ。
ドイツは表示された最終ログを見つめていた。
「……ソ連反応、消失」
フランスが小さく息を吐く。
「ようやくね」
「一時的だ」
ドイツは即座に否定した。
「器の限界で表層から剥がれただけだ。根本的な解決ではない」
「分かってるわよ」
フランスは椅子の背にもたれ、窓の外を見る。
「だから余計に嫌なの」
イギリスはその会話を聞きながら、机の上の端末に軽く指を走らせていた。
何かの記録を見ている、もしくは、送っている。
「あなた」
フランスがふいに目を細める。
「さっきから何してるの」
「少し確認をね」
「何の」
「色々」
「その色々が一番信用できないのよ」
イギリスはくすりと笑う。
「ひどいなあ」
ドイツは二人のやり取りを遮るように言った。
「もう東だけの問題ではない」
その声音は静かだが、重い。
フランスもイギリスも視線を向ける。
ドイツはゆっくり言葉を続けた。
「日本の中に過去の日本がいる。ロシアの中に過去のソ連がいる。なら」
一拍。
「こちらも、同じ構造を想定するべきだ」
フランスの表情が変わる。
「まさか」
「可能性の話だ」
「でも、否定はできない」
ドイツがそう言うと、会議室に短い沈黙が落ちる。
それを破ったのは、イギリスだった。
「面白いね」
青い瞳が、ほんの少しだけ愉しげに細まる。
「じゃあ次は、どこが割れるんだろう」
「そういう言い方、やめなさい」
フランスが苛立ち混じりに返す。
「人の心みたいに言わないで」
「でも似たようなものだろ?」
イギリスは笑う。
「国なんて、所詮は積み重ねた歴史の殻だよ。ひびが入れば、中にいたものが出てくる」
その言葉に、ドイツの瞳がわずかに曇る。
自分の中にも、確かにある。
認めたくはないが、ある。
記録としてではなく、もっと生々しい形で。
そしてそれを、イギリスは見抜いているのかもしれなかった。
「……くだらない」
ドイツは低く言った。
「何が?」
イギリスが穏やかに聞く。
「中に何がいようと、制御できれば問題ない」
イギリスは数秒だけドイツを見つめ、それからふっと笑った。
「そうだといいね」
その言い方が妙に引っかかった。
フランスもそれを感じ取ったのか、露骨に顔をしかめる。
「なんか嫌な含みがあるんだけど」
「気のせいじゃない?」
「絶対気のせいじゃない」
だがイギリスはそれ以上何も言わない。
窓の外へ視線を向けたまま、ただ静かに微笑んでいる。欧州の空は曇っているが、まだ嵐ではない。
けれど、雲の奥で確かに何かが育っている。
それは東アジアで目覚めたものとは別種の、もっと冷たく、もっと歪んだ過去の気配だった。




