外伝3 吾輩は竜である② フィヨルのどきどき初めてのおつかい
吾輩は竜である。
名はフィオル。呼ばれるときは「フィーちゃん」――だが、それを許されているのはアシュリー様だけだ。
まだ若くて、鱗も小さい。翼の色も先輩ほど深くない。けれど、飛ぶことと食べることには自信がある。
今日の空は青く澄み、風は穏やか。
絶好の飛行日和――のはずだった。
◇
朝。
吾輩は竜舎の前で、辺境伯――マルクス殿に呼び止められた。
黒い外套を揺らしながら、彼は少し照れくさそうに手にした小さな籠を掲げた。
「フィオル。これを、アシュリーへ届けてくれるかな」
籠の中から、ふわりと甘い香りが広がる。
焼きたての糖蜜パイが、まだ湯気を立てていた。
(おおっ……!愛のこもった差し入れである!)
辺境名物「愛する人に贈る、心があたたまるお菓子」と言われる甘い焼き菓子だ。
地元の蜂蜜と森の木の実から作られる糖蜜を練り込み、生地の表面は焼き上がるとまるで黄金のように輝く…じゅるり…
吾輩の鼻先がぴくぴく動いた。
……なるほど。これはきっと“差し入れ”という名の惚気である。
マルクス殿は目をそらし「昼の会議が長引くから……」などと呟いている。
「任せてください!」
と、吾輩は誇らしく胸を張った。
けれども、そのとき――
ごぉぉぉおっ
轟音と共に、地面が震えた。
ヨルムガルド先輩が空から舞い降りたのだ。
大地がどーん、と鳴り竜舎の干し草がふわりと舞う。
「……」
吾輩とマルクス殿が同時に沈黙した。
(先輩……タイミングというものを……)
風圧で砂が飛び吾輩のしっぽに絡んでいたリボンがぴょんと浮いた。
マルクス殿は苦笑して手を振る。
「ヨルムガルド、あまり暴れないように頼むね」
先輩は「うむ」と言わんばかりに鼻を鳴らし悠然と空へ舞い上がる。聞いていない。
吾輩は決意を新たに籠を口にくわえた。
「絶対に落とさない……」
そう誓って、翼を広げる。
ひゅーん、と軽く空気を切り裂く音。
飛翔開始――!
◇
だが、空の旅は想像よりずっと厳しかった。
風が強い。
籠がぶんぶん揺れる。
(だ、だめだ……落ちるぅ……!)
落ちた。
その瞬間、下から銀色の影が飛び上がった。
着いてきてくれたらしいハティル殿である。
軽やかな跳躍!
そして精密な軌道!
ぴょーん
ひょいぱくっ
すとっ
見事に吾輩の落とした籠をキャッチ。
地面に着地すると口にくわえた籠を慎重に持ち上げ、ほら、と吾輩を見上げる。
「……ごめんなさい」
吾輩は翼でぺたぺたと地面を叩いてお辞儀をした。
ハティル殿は短く鼻を鳴らし、尻尾をゆるく振る。多分、「次は気をつけろ」かな。
その大人な対応がちょっとだけ眩しかった。
◇
再び飛び立ち、順調に空の旅は進んだ。
丘の上の温室――アシュリー様が花を育てている場所――が見えてくる。
籠をしっかり口にくわえ、あと少しで着陸――というところで。
ごぉぉん
……またである。
ヨルムガルド先輩が突如、真上を通過。
翼の一振りで、風が一気に渦を巻く。
(先輩ぃぃその高度はまずいですぅぅ!!)
ごうっ!と風が吹き抜け、吾輩はぐらりと傾いた。
だが――その風が、絶妙な角度で体を押し戻した。
結果として、吾輩は見事に温室の前へふわりと着地。ヨルムガルド先輩は、上空で満足げに一鳴き。
(……助けて…くれた……)
着いてきてくれていたハティル殿が、お座りでふぅ…とため息をついた。
吾輩ははっと籠を見る。
中のパイは――無事。
黄金のパイの上の琥珀色の蜜が陽光を浴びてきらめいている。
◇
「まあ……フィオル!ハティルも……!」
温室からアシュリー様が駆け出してきた。
白いケープがふわりと広がり、笑顔が花のように輝く。
「マルクス様が? ……ふふ、嬉しい。ありがとう」
吾輩は胸を張って籠を差し出す。
アシュリー様が手を伸ばし、そっと受け取る。
指先が触れた瞬間、ほんの少し震えていた。
――それは、嬉し涙の予兆。
アシュリー様はパイを見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「ちゃんと届いたんですね。……優しい人」
後ろから聞こえる低い声。
「無事に届いたようで、何よりだ」
振り返ればマルクス殿が立っていた。
どうやら、吾輩たちの後を追ってきたらしい。
いつもよりも少し表情が柔らかい。
アシュリー様は頬を赤らめ、
「マルクス様の方が、きっとお疲れでしょう? 半分こにしましょう」
パイを半分に割って、彼の手に乗せる。
甘い香りが漂い、二人の距離が自然に近づく。
「……君が食べさせてくれると思うと、さらに美味しい気がするよ」
「もう……そんなこと言って……」
風が通り抜け、金糸のようなアシュリー様の髪を揺らす。
マルクス殿がそっとその頬に触れ、指先で蜜を拭った。
「……ついてるね」
「えっ、あっ……」
アシュリー様の耳まで真っ赤になる。
その様子を見ながら、吾輩はぽかんと口を開けてしまった。
ハティル殿は長い尾で地面をとんと叩き、「もう見慣れた」とでも言いたげ。
ヨルムガルド先輩は上空で大きく翼を打ち、「仕事終わり!」とばかりに飛び去っていった。
◇
吾輩は竜である。
まだ未熟で、たまに失敗もする。
でも今日――大切な想いを届けることができた。
この広い空の下で、こんなに甘くて優しい任務があるなんて。
……竜に生まれて、本当によかった!




