外伝3 憧れのイケオジ辺境伯の嫉妬に、きゅん。
その日は珍しく辺境で晩餐会が行われた。
私室へ戻ったアシュリーは、肩の力を抜きながらため息をついた。
胸の奥が、まだどこかざわついていた。
――ルーアン聖国の王弟であるキリアンが、手の甲へ口づけたあの瞬間。
貴族の紳士が親愛の証にした、たったそれだけ。
……なのに、マルクスの瞳が、沈んだ気がした。
◆
彼はいつも通り穏やかに見えた。
しかし今、暖炉の前で静かにグラスを置いたマルクスは微かに張りつめた空気が漂っていた。
「……着替えたのかい」
「ええ、マルクス様は……」
「……こちらにおいで?」
アシュリーは振り返り、彼の表情をうかがう。
「……マルクス様?」
彼がゆっくりと近づく。
空気が濃くなる。
「――キリアン・ルーメニア卿が、手に口づけていたね」
アシュリーは瞬きをした。
「あ……あれはただの、ご挨拶で」
マルクスがアシュリーの指先に口付けをした。
「わかっているよ。だが、あの瞬間……私は……」
アシュリーは口をぱくぱく開けたり閉めたりする。
マルクスは舌で爪先をなぞる。
「君の手に、他の男の唇が…たったそれだけで、私の理性は崩れてしまう…」
声は静かだが、熱が滲んでいた。
アシュリーの唇が震える。
「……嫉妬、してくださったのですか」
「……そうだよ」
マルクスはアシュリーの手を引き寄せた。
口づけが落ちる。
最初は優しく、けれど次第に深く熱くなってゆく。
アシュリーの呼吸が乱れ、身体がふるえた。
「……こんな私に、そんなっ……」
「君は誰が見てもとても美しいよ。……だが、私は君を離したくない……」
彼の唇がもう一度重ねられる。
呼吸が混じり合う。
優しい彼のいつになく乱暴なその口付け。
アシュリーの胸にも、静かな火が灯る。
「……マルクス様っ…ん……苦し、です…」
「君のことになると……私は、理性を失ってしまう…」
マルクスの手が彼女の髪に伸びる。
結い上げられた黒髪がするりとほどかれた。
波打つように肩へ流れ、明かりに照らされて煌めく。
「……きれいだね」
マルクスは息を上げるアシュリーの髪をゆっくりと撫でる。
「この髪に触れるたびに、私は愛を知る…」
アシュリーは顔を上げ、彼を見つめた。
「マルクス、さま……私は、あなたが、すき、です……」
アシュリーの腰が強く引き寄せられる。
炎の音と鼓動の音が混ざり合い、時間が溶けていった。
◆
アシュリーはゆっくりとまぶたを開けた。
寝具の衣擦れの音。
遠くで鐘の音が鳴っている。
(……夢、みたい)
指先を見つめる。
昨夜――彼の手を握りしめた感触が残る。
――マルクスの指が、声が、いつになく自分を求めていたこと。
思い出すたび、胸の奥が熱くなってしまう。
アシュリーは伸びをして起き上がった。
ふと、サイドテーブルが目に入る。
(……ほんとうに、律儀な方)
アシュリーはそっと微笑んだ。
既に寝室にマルクスの姿はなかった。
しかし、テーブルの上に彼の筆跡で手紙が置かれていた。
『君が目覚める頃、私は公務に出ているだろう。
朝の紅茶を淹れてあげられず、すまない。
昨日は無理をさせてしまったから、
侍女たちには起こさないよう言伝をした。
――私はいつも、君を想っている。
マルクス』
その手紙にまた、胸がきゅぅっと締めつけられる。
(……いつも、ですって)
思わず笑みがこぼれる。
昨夜の彼は、いつもの“紳士的で優しい年上の夫”ではなかった。
ひとりの“男”としてアシュリーを見つめていた。
――その熱を、彼女は全身で覚えている。
アシュリーは頬に手を当てた。
「……私も、少し嫉妬していたんです」
彼が王都で囲まれる視線の数々。
王弟であり辺境伯として国防の要でもある。
それに加え、端正な顔立ち。
心奪われる女性は数えきれない。
立派で誰よりも冷静。
優しく、包容力もある。
そんな年上の彼は、女性の扱いも当然、とても上手だ。
前世でも全く恋愛経験がないアシュリーは、いつも自信がなかった。
でも、昨夜、マルクスが見つめていたのは、自分ただ一人。
「マルクス様……」
アシュリーはぼんやりと鏡の前に座る。
彼女はそっと目を閉じた。
そして小さく囁く。
「……私、もっと綺麗になります。マルクス様の隣で、胸を張って立てるように」
彼女は微笑んだ。
まるで少女のように。
「だって、私も……嫉妬、って感情を知ってしまいました」
アシュリーは胸に手を当てて彼を想った。
(私、本当に貴方の花嫁になったのですね)
そして、胸の奥で続けた。
(……貴方も、私だけの……旦那様です!)
外で遠吠えが聞こえる。
――ハティルの声だ。
アシュリーは微笑んだ。
辺境の館には、確かな幸福が流れていた。
窓辺に歩み寄る。
雪の向こうに広がるのは、辺境の白い大地。
あの時、初めて訪れた時よりも――
すべてが美しく見えた。
完結後、初めての外伝。
マルクスは38歳くらいの設定です。




