稲光愛恋は止まらない
私の世界は、ぐちゃぐちゃになった。
ルトがいなくなった。影が空っぽだ。寒い、寒い、寒くて堪らない。ルトの笑い声が聞こえない。ルトが私を呼んでくれない。私の頭を撫でて、ギザギザの歯で笑ってくれる、ルトがいない。
昴くんが死んじゃうかと思った。冷たくなりかけてた彼を焚火ちゃんと焔さんが温めてくれなかったら、どうなってたんだろう。
二人は私の家に昴くんを運んで、アルカナでつくった温風を私達に当ててくれた。
服も体も渇いた昴くん。彼は暫くして目を覚まし、イドラがいなくなったことを悟っていた。
「ごめん、ごめんね恋さん、ごめんなさぃ」
どうしてこの子が謝るのか分からない。ごめん、ごめんは私だ。弱くてごめんね、一瞬の判断を迷ってごめんね。
ごめんねを告げる前に、過呼吸になりそうな昴くんの手を握り締めた。覗き込んだ森の目には酷い雨が降り続いてる。
「大丈夫、大丈夫だよ、大丈夫」
どうか落ち着いて。君が自分を責める理由はないんだから。謝らないで、泣かないで、自分を嫌いにならないで。
目を真っ赤にした昴くんに頑張って笑う。君はいつも笑ってくれるから、いま笑うべきは、私だ。
昴くんの目は私の背後に向き、焚火ちゃんと焔さんに眉を歪めていた。
「なんで、篝火さんと焔さんが……?」
「ジキルの路地で見つけただけだ。夜鷹少年を抱えた稲光愛恋を。焱ちゃんが」
焚火ちゃんと合流した焔さんは気乗りしてなかった。私達にガントレットの肘から出る風を当ててた焚火ちゃんはずっと玩具みたいな笑顔だったし。
今も彼女の笑みは変わらず、私と昴くんを観察してる。
「聞けば審判の光源にやられたと言われるので、情報を貰っておこうかなって」
焚火ちゃんの目はいつも通りだ。自分の為に必要なものを得ようとする黒々とした目。
でも、この子の言い方はそれだけじゃない。
「たきび、焚火ちゃんは知ってる? 審判の光源」
「知ってますよ」
その返事に、私の額は熱さを帯びた。
「誰、誰あれ。教えて」
願えば焚火ちゃんの両目が開く。一人ぼっちの目。それでも何かを求めてる目。
光なんて入らない。それでも光を求めることをやめてない目。
「では、先に私の質問に答えて頂けますか?」
「いい、いいよ」
焚火ちゃんの両目は笑わない。深い黒の瞳はたしかに私を射抜いていた。
「心はどこにあると思いますか?」
それは、なんて簡単な問いだろう。
「目の、目の奥にあるよ」
目は口程に物を言う。目は心を代弁する。
寂しがり屋の昴くんみたいに。
奪われたことがない焔さんみたいに。
独りぼっちの焚火ちゃんみたいに。
目は全てを語る。だからルトの目も、イドラの目も、あんな雑な縫い方をされたんだ。
焚火ちゃんの底なし沼のような暗さから、私は目を逸らさない。目を丸くして、ゆっくり伏せたのは焚火ちゃんの方だ。
「ありがとうございます」
焚火ちゃんは少し間を取った後、やっぱり何も期待してない目でこちらを見てきた。
「審判の光源の名前は朱仄祀さん。属性は火。その様子だとアルカナはご存知ですよね。彼のアルカナは、」
「待て焱ちゃん」
焚火ちゃんの言葉を焔さんが止める。
彼は浅く息を吐いて、焚火ちゃんを見下ろした。
揺れた彼の目は焚火ちゃんから外れない。それは初めて彼が見せた動揺だったけど、私からすれば興味もない。だから私は焚火ちゃんとの会話を再開させた。
「見た、見たよ、朱仄さんのアルカナ。金の瞼の赤い眼球。火を吹くよね。爆発したり、光線みたいになったり」
「はい。私も彼と会ったのは一瞬だったので多くを知っている訳ではありませんが、」
「焱ちゃん」
また、焔さんが焚火ちゃんを止める。
焚火ちゃんは笑った口元のまま焔さんを見上げて、私の苛立ちは募るばかりだ。焔さん、ほんと邪魔。
笑みを浮かべた焚火ちゃんは、彼ともちゃんと会話をしようとした。
「どうしたんですか、焔さん」
「……審判の光源に、攻撃されたと言ったよな、前」
「はい、初見で」
「稲光愛恋と夜鷹少年を襲ったのも審判の光源だと言ったな」
「焔さん」
少し下がっていた焔さんの顔が上がる。顔色が悪くなってる彼は、玩具の笑顔を浮かべた焚火ちゃんだけを見ていた。
焚火ちゃんは、彼女が知る事実を繰り返す。
「審判の光源は、朱仄祀さんと名乗りましたよ」
焔さんの頬に冷や汗が浮かぶ。彼の喉から軽く息を吸う音がして、私は奥歯を噛み締めた。
「失礼する」
焔さんは袖を翻して部屋を出ようとする。彼は焚火ちゃんに背中を向けたままドアノブを握りしめていた。
「……焱ちゃん、審判の光源は、本当に朱仄祀と名乗ったんだな?」
「はい。私の記憶が不安ならユエさんも覚えているかと」
焚火ちゃんの影が揺れた気がする。彼女は自分の横に向かって「でしたよね、ユエさん」と確認していた。
私には、見えない。
何も見えない。
昴くんの方に顔を向けると、彼も首を横に振った。彼の舌からは縄の印が消えている。
あぁ……そうか。本当に離れちゃったんだ。
可愛いお化けは、私達に憑くのをやめちゃったんだ。
胸を冷たい風が抜け、私の視界が大きく滲む。
「……また連絡する」
焔さんは焚火ちゃんに告げて出ていった。残された焚火ちゃんは息を吐き、影がまた揺れる。
「朱仄さんは何か言っていたんですか? 目的とか」
「さぁ。救済だとか、影の寄生虫だとか、そんなことは言ってた」
昴くんが私の手を握ってくれる。
そこで私は、初めて自分が泣いていると気づいたんだ。
悲しい、寂しい、寒い。
また、また負けちゃった。
また奪われちゃった。私の大事な可愛いお化け。
また傷つけられちゃった。私の大事な昴くん。
ゴミ袋に捨てられた人形みたいに、取り上げられた裁縫道具みたいに、描き直せって言われた絵みたいに。
悔し涙が止まらない。喉の奥が熱くて堪らない。
焔さんは、きっと何か知ってる。そんな人を呼び止めることも出来なかった。
弱い、弱い、私は弱い。大きな手があっても、鋏があっても針があっても。奪われちゃったら意味がないのに。
焚火ちゃんは私に何も言わず、玩具の笑顔を続けていた。
「救済、私の時も似たようなことを言っていました。痛くないだとか何だとか、影法師に恨みでもあるんでしょうかね」
「それ、それならあの人が、光源を続ける意味ってなに。嫌いなら離れちゃえばいいのに、なんで人の、ルトを、ッ」
「自己満足では?」
私の顎から重たい涙が落ちる。
焚火ちゃんは淡々と言葉を続けた。
「救済を押し付ける。そうおっしゃっていたんですよね、朱仄さんは。それすなわち、彼は自分本位の善意の元に行動していると考えられます」
白い人差し指を顎に添えて、焚火ちゃんは黒い目を細めてる。
「整理すると、彼は光源を救いたいと思っているから、影法師を剥がそうとしているのではないでしょうか?」
彼の言葉を思い出す。
彼の目を思い出す。
そう、思った、思ったんだ。彼は影法師に敵意を向けるくせに、私や昴くんには一切の敵意を向けなかったって。
「こうげ、光源と光源は敵同士じゃないよ。願いを叶えてもらう為に影法師と一緒にいる。仲間って言ってもいいかもしれない。それは朱仄さんも同じはずだよね」
「ですね。ユエさん、影法師が願いを叶えてくれるのは、レリックを全員殺した時。その時光源だった者は全員、ですよね?」
焚火ちゃんが何もいない空間――実際はきっと、浮いてるユエに向かって首を傾ける。少し間を取ってから「ですよね」と焚火ちゃんは笑っていた。
「最後のレリックを倒した光源だけが願いを叶えてもらえる、なんていう条件でなくてよかったです。でもそうなるとやはり不思議ですよね、朱仄さんの行動は。光源が多ければそれだけ戦力が増える、自分の願いを叶えてもらえる時期が早まると考えても良さそうなのに」
後半から焚火ちゃんは独り言のように視線を斜め上に向けた。降り続く雨は窓を叩き、彼女の段違いの髪が肩の前に落ちる。
昴くんはベッドから足を下ろし、私の隣に座った。
「……どうしようもない自己犠牲で生きてる人って、いるよね」
顔色の良くなった彼に視線を向ける。私と繋いだ手を昴くんは離さないでくれた。
「誰かを助けたい。心の底からそう思って、身を粉にして行動しちゃう人はいるよ」
「す、昴くんのこと?」
「俺は……」
言い淀んだ彼は曖昧に言葉を濁す。だから私は彼の目元を撫で、暗い森を視認した。弱い風が吹いてる森は一周回って落ち着いたって感じ。
「俺は、助けたいって思ってる訳じゃない。役に立ちたいと思ってる。でも、あの朱仄さんは本気で光源を助けたいと思って、行動してるんじゃないかな」
「そう思われる根拠は?」
焚火ちゃんが壁に背中を預けたまま目を開く。食い入るように昴くんを見る目は絵の具を全色混ぜたように濁っていた。
昴くんの手に力が入る。
「あの人、俺や恋さんを攻撃はしたけど、致命傷は避けてたから。あれだけ早くて強い火が撃てるなら心臓を狙ったり、もっと急所を狙えたと思う」
昴くんは自分の右目を覆う。焚火ちゃんも何かを思い出す素振りをして、私は鳩尾を擦った。
光源は痛みを感じない。それでも心臓が止まると死ぬ。首をもがれたら死ぬ。即死は痛みを感じる間もなく命の糸が切れちゃうから。
だから私も即死にはならないよう配慮はした。掌で押し潰す時どこかでストッパーをかけた気がする。狙ったのは戦意喪失だ。窒息すれば気絶すると思ったんだけど。
黒い血を吐いた審判を思い出す。あれだけ深く傷つけられても、朱仄さんは起き上がっていた。
昴くんは前髪を握り、口を悔しそうに曲げている。
「……俺のこと、殺せたよ、あの人なら。右目を貫通してたらそこで終わってたと思う。でも、俺は生きてる。俺の立ち位置の問題か朱仄さんの意思かは知らないけど、あの人は俺を殺さなかった。篝火さんにもそんな体験があるんじゃない?」
「ありますね。彼と会った日、私は初めてハイドに行った日でもありました。そんなひよっこなら簡単に殺せたでしょうに、彼は私の足元を爆破させるという初手を選びましたね。気絶はしましたけど」
「篝火さんに気絶するって神経あるんだ」
「私のこと何だと思ってるんです?」
可愛い二人が可愛い会話をしてる。
一瞬だけ和んでしまった私は気を持ち直し、頭に上っていた血が下がるのを感じた。目元に残った涙を拭いながら。
「たき、焚火ちゃん、私と昴くんがルトとイドラと再契約するのは、可能なのかな?」
「どうなんでしょう。出来ます? ユエさん」
また、少しの沈黙。焚火ちゃんは玩具みたいな笑顔で私達に向き直った後、気づいたように話してくれた。
「出来るそうですよ。影法師と光源、どちらも望めば」
それは、希望だ。
消されてしまったと思った大事な灯。私の光。
「る、ルトを呼び出すことって、出来るの?」
昴くんと握った手にどちらともなく力が入る。彼は焚火ちゃんを真っすぐ見ていて、それだけ叶えたい願いがあるのだと感じられた。
焚火ちゃんは横を見た後、ユエの言葉を代弁してくれる。
「呼び出すことは出来ないそうです。かつては呼び出すための儀式があり、その声に従ってユエさん達は人間の前に現れていたようです。しかしその儀式との繋がりも逃げ出す時に断ち切ったそうなので、今では誰も自由に影法師を呼び出すことは出来ないそうですよ」
「だから、だからレリックは追ってくるんだね。呼び出せるなら、ルト達は今日まで逃げられてなかったわけだし……」
分かり切った質問をしたことに肩が落ちる。なら、私達に残された道は何があるの?
「イドラ達の姿も、俺達にはもう見えないんだよね。ユエのことが見えないように」
「あ、やっぱり見えてないんですね」
「見えてないよ、ユエの姿も、声も」
焚火ちゃんは納得したように頷いてる。昴くんは眉間に皺を寄せて、私の脳裏にはある二人の姿が浮かんだ。
「ど、影法師を見る方法はある?」
「さぁ……影法師が姿を見せてもいいと思ったら見えるようになるらしいですよ」
「そっか、そっか」
ルトは、近くにいればまた姿を見せてくれるよね。黒い長髪を揺らして、ギザギザの歯で笑ってくれるよね。
「わ、私は、ルトを取り返すよ」
『もうちょっと、かぁーいー愛恋や昴を見ててもいいかもなぁ』
あの言葉は、気紛れでも、嘘でもないって思ってるから。
「す、昴くんは……」
隣に視線を向けると、森の目で私を観察する昴くんがいた。
瞳の奥が言ってる。置いていくのかって、もう自分はいらないのか、って。
優しい優しい一等星。どうしようもないくらい自信がない、寂しがり屋の昴くん。
私は彼の手を握り、いつも君がしてくれるように笑ったよ。
「一緒に、来てくれる? 私の傍にいてくれる?」
昴くんの目が丸くなる。赤みの残ってる目元には再び雫が湧いて、それを零さないように彼は俯いてしまった。
「……もちろん」
握った手から痛みが伝わる。ギリギリと込められた力を感じたのは、もう一年近く遠ざかっていた感覚だ。
「何か考えがあるんですか?」
焚火ちゃんの黒い目が私達に問いかける。私は彼女に顔を向けて、独りぼっちの目にお願いするんだ。
「たき、焚火ちゃん」
「はい」
「わ、私のお願い、二つ、聞いてくれる? 焚火ちゃんなら、出来ること」
瞬間、昴くんの空気が一気に濁る。森の目の奥は不安の嵐が巻き起こり、焚火ちゃんは私達から一歩離れていた。
「ぜんぶ夜鷹さんに頼んだ方がいいと思うんですけど」
「す、昴くんは、私と一緒にいてもらう」
繋いだ手を軽く上げたら、数秒の間昴くんに凝視された。
この子は、そうだった。焚火ちゃんの話題を出したりすると嫉妬しちゃうんだ。それはとっても可愛いけど、今は泣きそうになってるから駄目だったね。
「昴、昴くんは、私と一緒に頑張ってくれる? 傍にいてくれる?」
「……篝火さんも?」
「たき、焚火ちゃんは、別行動で」
昴くんの目の奥がふっと落ち着きを取り戻していく。焚火ちゃんは玩具のような笑顔を浮かべて、両手を後ろに組んでいた。
「それなら私も、喜んで」




