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己の願いに焼かれる前に  作者: 藍ねず
第三章 光り輝く願望編
109/113

光源は見届ける


 地面を滑った光と影の呼吸は荒い。


 荒々しく大地を燃やしていたクイーンと天明は同時に火を消し、辺りには切羽詰まった呼吸が重なり合った。


 零は自分を抱き留めて転がった影法師(ドール)を理解できない。目を見開いたまま魔術師(ザ・マジシャン)を見つめ、体を起こした影法師(ドール)に引き上げられた。


 青白い手は震えている。弱々しく零を抱え、縋るように背中に手が回される。


 零は魔術師(ザ・マジシャン)の肩口に額をぶつけ、座り込んだ姿勢で抱き締められた。


 枯れた喉は苦言や文句を呈する前に、冷たい雫に閉ざされる。見上げた零の頬に、魔術師(ザ・マジシャン)の濡れた布から透明な水が滴った。


「零、零……れぃ」


 背中を丸めた魔術師(ザ・マジシャン)は声を震わせ泣いている。


 零は口角を上げようとしたが、影法師(ドール)の涙が頬に落ちたので、笑顔は作れずに終わった。


 魔術師(ザ・マジシャン)は零の背中に指を立てる。フードの落ちた頭は光源の首元に埋まり、詰まる声で訴えるのだ。


「頼む、頼むから、零、お願いだ。死なないでくれ、死に、急がないでくれ」


 我慢し続けた吐露が零の鼓膜に浸透する。


「零の怒りは私が受ける。望むならば消えていい。だが、零、零は消えないでくれ。どうか……どうか、お願いだから」


 涙が止まらない影法師(ドール)は、隠し続けた願望を口にした。


「私の、私の名前を――呼んでくれ」


 与えられたはずの名前。いらないと剥ぎ取られた音。


 それを、魔術師(ザ・マジシャン)が忘れたことはなかったのだ。


「怒号でいい、嫌悪でいい。それが零の生きる糧になるなら構わない」


 希望や勇気だけが生きる燃料になるとは限らない。終わらない憤怒、尽きない憎悪。それもまた、人を生かす為の動力となる。


 魔術師(ザ・マジシャン)はそれを知っている。自分を殴る零が苦し気に呼吸する姿を見てきた。振るう暴力に込められた叫びを受け止め続けた。


 面白いことを探す人間は、いつも笑って、虚空を見上げていたから。


「頼む、頼む零。頼むから生きてくれ。私を恨んで生きてくれ。私の名前を、呪いのように吐いて……生きてくれ」


 細い腕に力を込める魔術師(ザ・マジシャン)。零の背中に爪を立て、脱力しきった光源の意識を保とうと嗚咽を溢す。


 零は影法師(ドール)の肩口に白い空を見上げ、自分に駆け寄る足音を拾い上げた。


「零、零!!」


「「怪我してない!? 息してる!?」」


 汗で張り付いた前髪を払うこともせず、きょうだいの顔を覗き込んだ封寿。眼鏡には熱気で亀裂が入っており、白衣も焦げ跡が残っている。


 慌ただしく動き、焼けたバクを掲げた嵐と凪。双子は「栄養補給!!」「水分もいる!?」といつになく声を張り上げていた。


 零は自分の体に意識を向ける。


 力が入らない右足に、痺れて感覚が遠くなっている右腕。右の瞳は世界を眩しく映し、自然と瞼を閉じさせた。


「……うるさいなぁ、ほんと」


 零は疲れ切った様子で文句を吐く。汗の浮いた体を冷気に包まれ、影法師(ドール)の腕の強さを知りながら。


「からだが、ひえるだろ」


 気だるそうな喋り方で、零は魔術師(ザ・マジシャン)のローブを掴む。小うるさい周囲は無視をして、耳を傾けるのは殴り続けた影の異形にだけ。


「……なさけはいらない、あわれみも」


「そんな気持ちで、零を受け止めたわけではない」


 魔術師(ザ・マジシャン)の腕にはより力がこもる。


 林の中で魔術師(ザ・マジシャン)を見つけたイドラと(ザ・タワー)はそれぞれの光源の元へ舞い戻り、いつも態度を変えなかったきょうだいを見守るのだ。


 火のクイーンは緩く自分の首が掴まれたと感じる。見ると黒く巨大な手がレリックの首に添えられており、アルカナの所持者である愛恋は食い入るように女王を見つめていた。


「愛恋、愛恋……かぁいい愛恋」


 今にも力が入りそうな愛恋の細腕。そこに浅黒い手が重なり、黒い長髪が背後から少女を覆った。愛恋の白い髪と、ルトの黒い髪が微かに混ざる。


「……ごめんなぁ」


 ルトの手がゆっくりと愛恋の両目を撫でる。瞼を下ろした少女は静かな呼吸を心掛け、クイーンの首を絞めることはやめた。


「まだ、まだ離さないから、ね」


「あぁ、それでいいからなぁ」


 口角を上げたルトは愛恋の髪を指先に絡める。


 その様子を見た昴はクイーンの両手足を拘束し、錠前をかけた。火の女王は音を立てて地面に両膝を埋もれさせる。


「いいこ、いいこだね、昴はいいこだ」


「知ってるよ」


 銀の短髪を揺らしたイドラは足首の鎖を鳴らす。昴の青い髪に鼻を埋め、旋毛(つむじ)に頬を寄せながら。


 昴は冷たい重みを感じながら目を伏せて、影法師(ドール)に受け止められた光源へ視線を投げた。


 零は脱力しきった様子で目を開けない。白く切り揃えられた髪は堕ちかけた人間の表情を隠し、魔術師(ザ・マジシャン)の裾を握る左手から力が抜けた。


「れい、零ッ」


「ぅるっさい」


 上擦った魔術師(ザ・マジシャン)の声に零は眉をしかめる。重たそうに上がった左手は影法師(ドール)の頬を叩くのだ。


 今までで一番弱い掌。衝撃を与えず、罵詈雑言もなく、魔術師(ザ・マジシャン)の頬に触れたまま止まった手。


 魔術師(ザ・マジシャン)は白い光源の手の甲に自分の手を重ねた。壊れ物に触れるように。これ以上、壊してしまわないように。


 その触れ方に、零は目頭の熱さを感じていた。


 人間の中で滾っていた猛火に霧雨が降り始める。静かに静かに降り注ぐ。


 際限なき憤りを一心に受け止められた時、焦げた体内で水蒸気が上がる。


 熱さと冷たさが混ざり合い、零はただただ、眠りたかった。


 だから魔術師(ザ・マジシャン)の頬に柔く爪を立て、影を黙らせる為に口を開くのだ。


「ねむいから、だまってろよ……アルバ」


 魔術師(ザ・マジシャン)の――アルバの息が止まる。


 肩に力が入り、鳩尾の奥から震えが生じる。


 力の抜けた零の手を握り締めたアルバは、黒い布を首まで下ろし、金の睫毛を濡らして泣いた。


 光を起こしてしまわないよう唇を噛み締めて。嗚咽を必死に飲み込んで。


 脳裏に浮かんだのは遠い遠い過去の会話。逆さに吊るされていた頃のきょうだいの声。


『……名という響きの抗えなさ。温かさを知ってしまった事実と、何度も繰り返したいという愚かな欲求。これは毒薬。しかし私は解毒を拒む……名もなき吊るされた男(ハングドマン)の頃に戻るには、これはあまりに、優しすぎます』


『理解しがたいな』


『貴方も名を貰えば分かりますよ』


『私に名をつける物好きなどいない』


『いつか現れてくれるでしょう。今から練習しておくのも一興かもしれませんよ。名を貰った時の感謝の伝え方など』


 先人の言葉は核心をついている。


 アルバという響きの温かさに、何度も呼んでくれと溢れる欲。


 優しい優しい猛毒で魔術師(ザ・マジシャン)を侵し、アルバでありたいと願わせてしまうのだから。


 感謝の伝え方など知らないのに。想いの伝え方など学ばなくていいと思っていたのに。


 かつての自分に会えたなら、アルバは告げるだろう。練習しておくべきだと。きちんと気持ちを伝える、練習を。


 彼は魔術師(ザ・マジシャン)のアルバ。


 意味は夜明け。


 夕暮れの名を持つ光が与えた、夜に射し込む柔らかな輝き。


 隠者(ザ・ヘルミット)はアルバの背中に手を添える。女教皇(ハイ・プリーステス)は祈るように隣へ膝を着く。


 嵐と凪は気が抜けたように座り込み、封寿はきょうだいの髪を繊細に撫でるのだ。


「……頑張ったね、零」


 しゃがみ込んだ封寿は目元や鼻に皺を寄せ、壊れた眼鏡を取る。息を吐きながら俯いた兄はまだ、きょうだいの体の異変に気付かないまま。


 (ザ・タワー)はアルバ達の様子に息を吐き、バクが寄らないように筆を走らせていた天明を振り返る。


 天明は弱く火の柵を作り、無粋なバクは余すことなく燃えていた。


 少年は白紙の空を見上げる。


 そこにはエースを抱き締めたユエが浮いており、焚火は崩れ落ちた零の針を空気に捨てた。


 少女は火のエースを確認し、レリックの体を貫いていた針も消えていく。


 同時にエースは――足先から崩壊を始めた。


「ッ、エース!!」


 水晶の目を見開いた(ザ・タワー)は思わず飛び上がり、右目を開いたユエの隣に並ぶ。


 ユエは細く涙を流していた。鼻を啜り、悩まし気に眉を寄せて。(ザ・タワー)はきょうだいとレリックを交互に確認し、見え過ぎる瞳が現実を示した。


 エースの体内で核に亀裂が入っている。零の怒りを乗せた針は、確かにレリックを射抜いていたから。


「くそ、(ザ・ムーン)!!」


「駄目よ……(ザ・タワー)


 破壊の(ザ・タワー)は癒しの(ザ・ムーン)の腕を掴む。ユエは弱く首を横に振り、慈しみを込めてエースの肩に額を寄せた。


 亀裂程度、普段のエースならば治せたはずだ。だが今日は普段と違う。両腕をもがれ、食われ、バクを摂取する間もなく燃え続けた。


 怒り狂った業火となって、その身を焦がしきってしまった末路。


 たとえ何でも叶える願望器がいても、死だけはどうにもできない。死を遠ざけることは出来ようとも、死を破壊することには繋がらない。既に死が迫っている者を元に戻すことは叶わないのだ。


 だが、火のエースに後悔はなかった。レリックは満足そうに頬を上げており、肩や腹部も崩れていく。


 その色は、ハイドに溶けるような、白として。


「エース、エース悪い。全部俺が悪いんだ。俺が、お前達の自由をッ、あぁ、あぁぁ……」


「……我ガ、主……破壊ノ、(ザ・タワー)……」


 唯一喋ることを許されたレリックの声は淡い。


 吹けば消える蝋燭のような声色だが、たしかな喜びも乗せていた。


「探シ、マシタ……探シテ、イマシ、タ……貴方達ヲ」


 崩れるエースの頬を(ザ・タワー)は掌で押さえつける。顎から大粒の涙を滴らせて、壊すしか能のない自分では救えないと分かっていながら。


 それでも触れずにはいられない。それでも泣かずには、いられない。


 指の間から解けるように落ちるエースの粒子は、(ザ・タワー)の手も、ユエの体もすり抜ける。


 穏やかに気を抜いたエースは、燃え切ってしまったのだから。


「会エナイト思ッテ、デモ、イマ……コウシテ、オ会イ、デキタカラ」


 エースは煤にはならない。黒く冷たく、不完全燃焼するわけではない。


 優しい月光の腕で終われるのだから。


 自分の為に涙する主に、触れてもらえているのだから。


 掴めず砕かれたきょうだい達が望んでいた最期。


 すれ違って擦り切れて、己の願いに焼かれてしまったレリック達とは違う。


 何度も尊い存在の名を繰り返した、水のエースの一歩先。


 かの従者が届かなかった最期の瞬間。


 主の温もりを知ることができた残影は――


「――幸セ、デス」


 笑うエースの顔が崩れ落ちる。


 白い白い、灰となって。


 影の世界に舞い上がる。


 ユエの腕から落ちていく。


 (ザ・タワー)の手からすり抜けていく。


「ぁ、あ、ぁああッ」


 掌にわずかに残った灰を見て、(ザ・タワー)は水晶の瞳から止まることなく落涙する。


 燃えて燃えて、燃え切って。残った灰には懺悔の涙。堰を切った後悔の哀哭。


 声を上げて泣きじゃくる(ザ・タワー)にユエは向き直る。彼女の頬には美しい雫が流れて伝い、灰の欠片を残した腕を広げるのだ。


 きょうだいの頭を胸に抱き、ユエは頬を寄せる。


 (ザ・タワー)は鋭い指で必死にきょうだいに縋った。


 何も生みだせないきょうだい。彼が歩んだ道には何も残らない。


 だからこそ、破壊者に月光は寄り添うのだ。壊れた塔が冷え切ってしまわないように、共に痛みを抱える為に。


 潰れるような(ザ・タワー)の声にイドラもルトも顎を引く。女教皇(ハイ・プリーステス)隠者(ザ・ヘルミット)も顔を上げることは出来ず、アルバは黙って零を抱き締め続けた。


 愚者(ザ・フール)は荷物を地に下ろし、可能性の影法師(ドール)は顔を覆った。


 一番目の愚者(ザ・フール)。かつての旅人と一番似ている影のリーダー。


 かの影法師(ドール)には覚えている約束があったのに。大事な願いがあったのに。


影法師(ドール)を、頼む』


 その願いを、愚者(ザ・フール)は聞き届けたはずなのに。


 どうしてきょうだいは泣いているのか。どうしてこんなに、胸が締め付けられるのか。


 失敗ばかり、間違いばかり。きょうだいの自由を願った先で、旅の終着点は煤と灰の上に。自分達の過ちに巻き込んだ光源の屍の上に。


 謝ることも許されない。謝った所で解決しない。過去はやり直せない。時間は巻き戻らない。それもまた、叶わぬ世界の不変原理。


 永遠の影法師(ドール)。しかし完璧ではなかった影の願望器。幼く不完全で、きょうだいを想うだけの異形達。


 天明は(ザ・タワー)の嗚咽を聞いていた。崩れた背中を支えられる、己の影を見上げていた。


「破壊者にも、異形にも、きちんと涙腺はあるわけだ」


 筆を担いだ天明は(ザ・タワー)のさらに向こうへ視線を向ける。


 少し離れた空には、銀のガントレットをつけた焚火が浮いていた。


 少女は白い髪を払い、段違いの髪が白紙の空で微かに光る。


 天明は焚火の動作に焦点を絞り、自分に謝罪は許されるのかと思案した。


 知らない内に、期待してくれていた。そう思ってもらえるだけの距離にいた。自分の文字に恐怖する少女は、それでも天明が貪欲に願いを叶えるだろうと信じていたのだ。


 しかし天明は諦めた時があった。祀と共に燃えるならば致し方ないと笑ってしまった。自分を信じていた少女を裏切っているとも知らないまま。


 そこでふと、天明は腑に落ちてしまった。


 自分の願い。稚拙な願望。


 それは、それは既に。


「……焱ちゃん」


 天明が少女につけた勝手な愛称。


 呼ばれたことに気づかない焚火は、不意に視界が回る感覚を抱いた。


 ガントレットの輪郭がブレる。


 ソルレットから風が止まる。


 焚火を守るアルカナが、そよ風となって消えてしまう。


 思いがけない浮遊感を味わった焚火は、落ちる己を認識した。

不完全な燃焼は煤を生み、正しく燃え尽きれば灰となる。

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