光源は譲らない
夕映封寿のアルカナはレリックを壊さない為に創られた。
元より、彼が愚者と契約した理由が「レリックを救う過程に協力する」だったのだ。ハイドの影の性質を利用したアルカナは理にかなっている。封寿の影の中には数体のレリックが沈んでおり、それはカードにされた影法師同様に眠っている状態と化していた。
眠っているレリックを影法師は探知できない。お陰でレリックは減っていると誤認させることができ、全てのレリックが破壊ないし眠りにつけば光源の願いは叶うのだ。
愚者は自由になったきょうだいに壊さなかったレリックの話をすればいいと考えていた。封寿もレリックと影法師が和解するまで付き合う気でいる。
だがしかし、影法師がレリックと上手く和解できるよう助言するつもりは微塵もなかった。
それは焚火の思考とはまた違ったベクトルである。大人からすれば、何故そこまで手を貸さなければいけないのかという嫉妬の表れだった。
封寿にとって影法師は空想の神様でしかなかった。幼い頃から神話の偶像を語られていた彼は、影法師などいない、影の国など存在しないと信じていたのだから。
少年だった封寿が両親の言葉を真に受けたことはない。視力が悪いという一点のみで自分を欠陥品とした者を親だと思わなくなったのも早かった。自分の家が異常であると学校に通い始めて直ぐに気づき、期待されずに空気として扱われる日々にも慣れさせられた。
息苦しく、家族と呼ぶには抵抗しかない環境において、封寿が唯一意識を向けたのが零だ。
十も離れたきょうだいはすくすくと健康に育ち、二足歩行する前から影法師の神話について教えられていた。両親は視力が悪いだけの封寿を気にかけず、健康体の零こそ神を呼び寄せる存在になれると期待したのだ。
両親が零を呼ぶ声が封寿は恐ろしかった。綺麗な子どもが醜く染められていく過程を見るのが堪らなく気持ち悪かった。
だが封寿も子どもだ。何もできない。誰に相談していいかも分からない。学校でしたことは、周りにおかしさを悟られないよう笑うことだけだ。
毎日食事を管理され、笑わなくなっていく零を封寿は見ていた。自分には全く見向きもしない両親が、零に過剰なまでの期待を押し付けて虐待していると知りながら。
零は覚えていないが、封寿は覚えている。朝の水の冷たさに泣いていたきょうだいを。過度な束縛を涙ながらに拒絶していた姿を。
『父さん……母さん、ッ』
振り絞った封寿の声に両親が応えることはなかった。俯いた封寿は唇を噛み締め、零の泣き声が聞こえない部屋で机に向かった。
何もかもから逃げ出したかった。呼吸のできない家から、頭のおかしな両親から、きょうだいの悲鳴から。零の泣き声を聞く度に自分が責められている気分になったから。そんな気持ちにさせてくる場所から一刻も早く離れたかった。
だが彼が離れるより先に、零の泣き声はやんでいた。
冷水を浴びせられても、無理やり食事をさせられても、息詰まる過干渉を受けても、零は泣かなくなっていたのだ。
どこも見ていない無表情。空っぽになった目は窓の外を映すだけで、両親に呼ばれたら人懐っこい笑みを浮かべる。そしてまた、一人になれば無になって。
気づいた封寿は、胸を締め上げられながら零に声をかけていた。
『内緒だよ、零』
初めて家を抜け出した夜。近くで祭りが行われていると知っていたから、小さな手を引いたのだ。
『これ、たべにくい』
ほとんど喋らなかった零だが、綿菓子には文句を垂れた。少しでも楽しくなるようお面を買った封寿は「なら食べようか?」と目線を合わせる。しかし零は首を横に振って綿菓子を食べ続けたので、兄は笑ってしまったのだ。
微かにべたついたきょうだいの手を拭いて、何度も家の方を振り返る零の頭を撫でて。
『大丈夫、怒られるのは兄ちゃんだけだから』
それは、兄としての後ろめたさからだった。
その頃には既に高校を卒業したら県外の大学に行くと決めていた。両親に黙って日雇いのバイトもしていた。あの家に零を置いて、自分だけ逃げ出すと決めていた。
『無理やり連れ出したのは俺だよ。零は悪くない』
だから両親の叱責も進んで受けた。時間を縫って零と話もした。零が何を考えているか読み取ることは叶わなかったが、それでも封寿は良かった。
彼は胸に抱えた罪悪感を少しでも昇華したかったのだ。
自分はきょうだいを無視していない。自分は家の中で唯一まともに育っている。
自分は零と代わることは不可能だ。だからせめてもの罪滅ぼしを。いい人間でありたい。いい兄のように振舞っていたい。
そうしていれば、封寿は許される気がした。引き裂かれそうな胸の圧が微かに緩む心地がした。
反動がきたのは家を出て行く時だ。
荷物をまとめて玄関に向かった日。自分を見ていなかった両親の奇声を背中に受けても罪悪感は欠片も無かった。
だが、部屋の扉の隙間から、零が自分を見ていると気づいた時には血の気が引いた。
『……兄さん?』
どんな酷い言葉より、小さな零の言葉が封寿の胸を貫く。震えた指先はなんとか荷物を持ち続け、背けた顔は玄関の外を見た。
一緒には連れて行けない。金が、学業が、将来が。きっと苦しいことになる。自分では助けてやれない、面倒なんて見られない。
多くの連れて行けない理由を頭に浮かべた封寿は零を置いて家を出た。家にいる間は、短い時間だったが気にかけ続けたと自分に言い聞かせて。自分もあそこに居続ければおかしくなると保身を呟いて。
あれから何年も経った。新しい環境で多くに触れ、教員の免許も取得した。時間に追われる仕事の方が目の前のことに没頭できて良かった。
だがそれでも、空いた時間には零を思い出してしまった。
残してしまった罪悪感の芽。弱い自分の自己満足を与えただけのきょうだい。
酷く恨まれていると思っていた。殺したいほど憎まれていても仕方ないと思っていた。
けれども、光源として再会した零は、封寿に対して怒りも憎しみもぶつけなかったから。
兄は痛感させられた。自分が零を見ず、己の気持ちを保つ為に気にかけていたのと同様に。零も封寿を見ず、恨み辛みを吐く価値すらないとしていたのだから。
愚かな自分を見透かされていると悟った。影法師に協力しているのも、零を自由にしたい自己満足の罪滅ぼしから。そもそも影法師が現れたことに彼は憤りを覚えた口だ。しかも話を聞けば、過去の多くの過ちが今を形成していると知ってしまったのだから、呆れて煮えた感情も生まれるというもの。
影法師のせいで零と封寿の子ども時代は摘まれてしまった。ならば影法師だけ幸せになるなど狡い気がして、もっと悩めばいい、苦しめばいいと思って、封寿はアルカナを盾にした。
前座は取り持ってやる。だが解決は自分達でしろ。そこまで干渉する気はない。
それは小さな報復のつもりだった。逃げることばかり考える男に戦うことは向いていないのだから。
だが、そんな教師に生徒は言ったのだ。
『先生は、逃げない方がいいんじゃないんですか。視界に入れてもらえなくとも、信頼されていなくとも、それは相手を心配しないに繋げなくていいと思うので――先生は、夕映さんを忘れていなかったんですから』
正面から「逃げるな」と言われたことなどなかった。狡い己を分かっている気になって、逃げる口実を敷いて、それを壊されたことなど無かったから。
正面から「心配していい」と言われたこともなかった。それは自分を救う自己中心的な考えだと否定してきたのに、それでいいと肯定されたのだから。
封寿は子どもの凄さを思い知る。
黒く巨大な手が地面を抉って火のクイーンを空へ飛ばした。鎧に炎を纏った女王は即座に銀の鎖で拘束され、立て続けに錠前がかけられる。
「恋さん!!」
「い、いよ!!」
昴が全体重をかけてクイーンを地に落とす。落下地点には愛恋の黒い鋏が閉じられた状態で切っ先を空に向けていた。勢いよく鎖から投げられた女王は串刺しのルートを辿る。
けれども堅固は伊達ではない。甲高い金属音が響き、クイーンの鳩尾は欠けた鋏の先にぶつかっていた。
瞬時に理解した愛恋は上から針を叩きつけたが、折れたのは少女のアルカナの方だ。
「かたい、硬いね」
目を見開いた表情で状況を判断する愛恋は、青い昴の瞳と視線を交えた。
燃えていない木の枝に着地した少年は愛恋の目が横へズレたと判断する。昴は迷いなく視線を追い、風のキングと拳を激突させた焚火を確認した。
焚火はガントレットの肘から荒々しく風を噴射し、キングの大剣と打ち合っている。衝突の瞬間に速度を上げる少女の拳に対してキングの剣は柳のように沿わされた。そうすることで衝撃は殺され、金属音だけを響かせるのだ。
それでも焚火は距離を取らない。間を開ければ風のキングに回り込まれる恐怖が先行し、少女を止まらない台風にした。
白い毛先を斬られながら焚火は拳を打ち出す。業風と台風がぶつかり合う衝撃は周囲の炎を揺らめかせ、熱風として蔓延した。
汗を滲ませた少女は歯を食いしばり、一瞬の隙を見てキングの懐に入る。
腰を捻って繰り出された拳は鳩尾を捉えていたが、キングは即時反応した。
ガントレットが鎧にぶつかる寸前に腕を差し込み、手甲が砕ける。核を守ったレリックは焚火の背中に剣を振り被り、少女は鎖の音を聞いたのだ。
高く上がった大剣に昴の鎖が巻きついて錠前がかけられる。突然の重量増加で剣は岩となり、持ち手を握るレリックの腕ごと地面へ叩きつけた。
自由な風を地に落とし、昴は鎖を鋭く伸ばす。
キングは剣を離して距離を取ったが、その足首に拘束具が巻きついた。
「篝火さんはクイーンよろしく」
「あぁ、はい、分かりました」
昴に軽くあしらわれた焚火はソルレットから風を出す。少女は黒い拳と火の女王が殴り合う様を認め、舞い上がった火の粉に少しだけ視線を奪われた。
白く染まった焚火の双眼の先では、円形上に業火が逆巻いている。燃えていない内側には白い着物の天明と地のキングが相対しており、少年は地面に筆先を置いていた。
「着物を先日燃やしたばかりでな、今日はもう少しまともな様相で戻りたいんだ」
片頬を上げた天明は発火させた地面の爆発に乗って跳躍する。痛みも恐怖も無い少年にとって、爆風に乗るなどなんてことない。
地のキングは熱気で歪む地面から短剣を生成した。天明は自分に迫った凶器に筆を走らせ、刺さる前に火を上げる。
今日も彼の字はよく燃えた。燃える文字こそ彼の書なり。焔で煮詰めた墨を走らせ、駄々を捏ねる悪鬼に灼熱を。
〈影〉
顔を筆で撫でられたレリックは強烈な爆発と共に動きが止まる。顔からは火の手と黒煙が上がり、後ろに倒れれば囲う業火の海に伏せる。
しかしこの程度でレリックは負けない。
足を踏み締め体を支える。
巻きつく鎖は殴って壊す。
黒い拳も白い拳も耐えてみせる。
全ては探し求めた主の為に。
お戻りください、お戻りください。どうか、どうか、あの城へ。共に過ごした影の城へ。
口がなくとも慟哭しよう。なぜ人間を光源などと呼ぶのかと。どうして自分達では駄目なのかと。
分からないからまずは殺そう。主を縛る悪しき光を。憎むべき人間を。
昴に向かって空気を凝縮させた短剣が生成される。少年がそれを理解した時には目前に迫っており、彼は片耳と腕を無くすことを覚悟した。
痛みが無ければ耐えられる。一撃必殺でなければ生きられる。
「だからと言って、体を粗末にしてはいけないよ」
白衣を靡かせて割り込んだのはこの場にいる唯一の大人。やっと進み始めることができた、かつての子ども。
待つことをやめた封寿は戦場へ割り込み、焚火は少しだけ目を細めていた。




