序章:迫りくる大軍
「アリア様を拐った悪党め、さっさと出てきてお迎えに上がれ! 築き上げたすべてを灰にされたくなければな!」
先頭に立つ将軍が、そう叫んだ。
できることなら、こんな場所(戦場)になんていたくなかった。温かい布団の中に溺れていたい。
目の前を埋め尽くす黒い圧。公爵領の精鋭、一万もの鉄甲兵たちだ。
そして俺の背後には——
数棟の木造ツリーハウスに、数面の剥き出しの菜園……以上だ。
「……あいつ、自分の言葉が矛盾してることに気づかないのか? 俺が死ぬってのに、あんなボロ家の心配なんてするわけないだろ?」
「ふふふっ、仕方ないじゃない! 領主様の愛娘を妊娠させちゃったんだもの、まともな末路なんてあるはずないわ!」
隣で金髪の佳人がツボに入ったのか、体を震わせて笑っている。
だが、彼女は俺の手を離そうとはせず、むしろますます強く握りしめてきた。
「わあ、さすがアリアお嬢様。これまでの縁談相手を全員ビビらせて追い払ったって話、自分の目で見てみたかったよ」
「……ここから私に突き落とされたい? それとも自分で飛び降りる?」
「今の君を見てると、彼らが逃げ出した理由がさらによく分かるよ」
「痛っ……!」
腰のあたりに鋭い痛みが走る。
俺は仕方なく溜息をつき、彼女の手を握り返して軽くつねった。
「避難してろって言っただろ。お腹の子に障ったらどうするんだ!」
少女の腹部に目をやる。数えてみれば、もう七、八ヶ月といったところか。
この状態では運動(避難)も馬車も適さないが、戦場にいるよりはマシだ。
部下に命じて送り出したはずなのに、一体どうやって戻ってきたんだ?
全く理解に苦しむ。
「嫌よ! 万が一、私を置いて逃げ出したらどうするのよ!」
少女は意地を張るように言い、俺の腕をさらに強く抱きしめた。
「俺がそんな奴に見えるか!」
「見えるわ!」
「……」
「ふふふっ」
俺が呆れて天を仰ぐのを見て、彼女は楽しそうに笑い転げている。
ああ、神様……。
こんな大事な局面で、俺は一体何をやってるんだ……。
溜息をつく以外、何もできなかった。
「五分以内にお嬢様を渡せ! さもなくば総攻撃を開始する!」
あぁ、向こうがまた吠えてる……。
いっそ彼女を引き渡してしまおうか?
どうせあの親バカ公爵のことだ、娘にひどいことはしないだろう。
運が良ければ二度寝に間に合うかもしれない。
「……」
隣からの視線が、まるで無数のトゲのように俺の顔に突き刺さる。
予感がする。もし本心を口に出そうものなら。
俺たち二人……いや、三人とも一瞬で共倒れだ。
彼女はおとなしく従うような女じゃない。最初から分かっていたことだ。
こうなれば、道は一つしかない……。
「いいか、俺のそばを離れるなよ!」
「はーい」
プシュッ!
俺は赤いプルタブの缶を開け、空高く放り投げた。
驚愕の視線が集まる中、その缶が弾けた。
パンッ——!
合図が送られたのを見て、潜伏していた者たちが姿を現す。
木陰に隠れていたエルフの斥候たちが、一斉に立ち上がる。
彼女たちは弓を引き絞り、敵の指揮官へと狙いを定めた。
軍勢の背後では、屈強な虎人族の戦士たちが擬装用の草むらを跳ね除け、腰の曲刀を抜いた。
バサバサッ——!
空から羽ばたきの音が次々と響き渡る。
兵士たちが顔を上げる。
遥か上空、紅蓮の炎を纏った九羽の大鳥が旋回している。弓矢では決して届かない高さだ。
そして、俺の左右にある大樹にも、巨大な影が二つ這い上がってきた。
赤と、黄。
「な、なぜ公爵領を壊滅させた二匹の魔蛇がここにいるんだ……!?」
指揮官の顔は蒼白になり、背中には冷や汗が流れる。
その場の兵士たちは、示し合わせたように一歩後ずさった。
彼らは今、ようやく気づいたのだ。自分たちは最初から狩人ではなく、獲物だったのだと……。
「それじゃあ……始めようか!」
敵軍が崩壊する寸前、俺はついに命令を下した。
全員が駆け出す。ただし、一方は逃げるため、もう一方は追うためだ。
「いいか! 彼らは義父上の部下、つまり俺の未来の部下たちだ。仲間なんだから、手加減してやれよ!」
俺は妻の手を引き、地面に腰を下ろすと、彼女の頭をそっと胸の中に引き寄せた。
暴力的な光景は、妊婦の精神衛生と胎教によろしくない。
「もっと強くならなきゃな。君たちを、もっとうまく守れるように」
「ええ」
少女は猫のように従順に頷いた。
俺は彼女の肩を抱き寄せ、目を閉じた。
すべては、一年前から始まったのだ……。




