↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/2

2. 偶然ではありません

 月例試合の翌朝、私は本名で実力確認を受けるため、騎士団の中庭の稽古場に来た。石壁の陰には朝の冷たさが残り、土には薄い日が差している。初夏の風が外套の端を持ち上げ、踏み固めた土の匂いを運んでくる。


 軽鎧の重みを肩に感じながら、剣を握る。昨日よりよく見える自分の手を見下ろし、柄の感触を確かめる。結び直した髪から、赤銅の後れ毛が頬へ落ちた。


 名簿を持った青年が、私の前へ進み出る。呼ばれるのは、もう隠す必要のない私の名だ。


「名はイングリット・ファルケンベルク。お相手は、あちらの騎士でよろしいですね?」


「はい。その名で受けます。始めてください」


 跳ねた栗の前髪を揺らす青年が、始める気満々の私の返事に目を丸くした。


「ちょ、ちょっと待って! 僕は副官のマルセルです。二十三歳ですから、あなたとは同年代ですね」


「お返事に時間をかけると、相手の方を待たせてしまいますから」


 背中で、叔母が豪快に笑う。遠慮のない声が石壁に跳ね返り、グードルーンの赤褐色の太い髪も、風に大きく揺れた。


「その調子だよ! あたしが鍛えた剣を、今日は隠さず振りな」


「はい、叔母様。今日はもう、白い布も要りません」


「あの布を縫ったのは、あたしだけどね。もう洗って仕舞っちまったよ」


 叔母の軽口に、肩の力が少し抜ける。五年、試合の朝はいつも布の結び目ばかり確かめていた。ほどければ困るのに、結んだままでは、勝っても私の顔を見てもらえない。今日は、風がそのまま頬に触れる。


 まっすぐな眉の団長が、稽古場の縁で私を見ている。少し離れた見学の騎士たちに、元夫ヴィンツェンツも加わっていた。


「一手を見て勝つ剣を、ここでも見せてくれ」


「はい、団長。私自身の剣で、お受けします」


 元夫は撫でつけた金髪を乱す風に、顔をしかめる。見学の騎士が私を褒めかけると、その声を途中で遮った。


「妻だったから、家で俺の癖を知っていただけだ。それだけの偶然だ。ほかの騎士には通じん」


「家では助言を聞かなかったのに、ここでは勝った理由になさるのですか?」


「俺の癖を知っていた有利があると言っている! 相手が替われば、それで終わりだ」


 昨日までなら、喉で押しとどめていた言葉だ。言い返したあとの面倒を思うだけで、舌が動かなくなった。今は、飲み込む理由がない。腹の底に残る熱を、私は息とともに吐き出す。


「負け惜しみは、終わってから聞きます」


「勝ってもいないくせに、俺の言葉を負け惜しみ扱いするな!」


 私は相手の騎士へ向いた。元夫の声は、まだ耳に引っかかっている。それでも、見る剣はもう決めている。この方と交わす一太刀を、元夫のためだけに使いたくはない。


「よろしくお願いします。私へ向ける一太刀を、見せてください」


「こちらこそ。白騎士の名を知っていても、遠慮はしませんよ」


 相手は剣を掲げ、刃の潰れた縁を確かめる。乾いた風が首元を抜け、軽鎧の内側に残る汗だけが冷たい。審判の旗が下がるのを、私は息を浅くして待った。


 土を踏む足音が近づく。見学の声が遠のき、相手の剣先だけが目に残る。


 相手はまっすぐ突いてきた。刃を合わせ、落とさずに押し返す。腕に響く重さが、ぐっとくる。名を隠さず受けても、この重さは変わらない。


 剣が離れ、相手は同じ構えに戻った。突く直前、剣先だけがわずかに下がる。


 次の突きに合わせるのは、そこ――――来る!


 下がる瞬間に踏み込み、私は相手の剣を横へ払った。


 タンッと土に落ちる剣の音が、中庭に短く響く。審判の旗が私の側へ上がる。


 耳の奥で、自分の鼓動だけが大きく鳴っていた。覆面の内側で聞いていたのと、同じ音だ。けれど、息は胸につかえず、すっと外へ抜けていく。


「参りました。突く瞬間を、待っていたのですね?」


「はい。構え直す剣先を見れば、打つ前が分かります」


「元の旦那様の癖でなくても、読めるのですね」


「剣を持つ方には、皆さんそれぞれの癖がありますから」


 相手は剣を拾う前に、私へ礼をした。見学の騎士たちも頷いている。その視線を、私は顔を上げて受ける。


 元夫に感想を尋ねる声は、どこからも上がらない。皆の顔が、今勝った私へ向いていた。視界の端で、元夫の顔色がさっと変わる。


「合格だ。イングリット・ファルケンベルクを、団の一員として迎える」


「元妻ですよ?! 本当に雇うのですか!?」


 団長は剣から私へ目を上げる。合格と聞いたのに、私の足はその場に揃ったままだ。胸の奥で何かがほどけかけ、私はそれを押さえようとした。浮かれたあとで、違うと知るのが怖い。


「元妻という肩書きで雇うわけではない。相手の一手を待てる君を迎える」


「……今の一番を、私の剣として見てくださったのですね?」


「相手が替わっても、君は待てる。それが欲しかった」


 軽鎧の下で、肩が勝手に上がる。胸いっぱいに息を吸うと、剣を握る指の力がふっと抜けた。私は剣先を下げ、団長の顔をまっすぐ見る。


「ありがとうございます! 分かっていただけて嬉しいです」


「俺が欲しいのは、君の一太刀だ。……それ以外も、いずれ」


 後半だけ、団長の声が途切れた。元夫は、頼まれてもいないのに団長の言葉へ頷いている。その顎が、妙なところで止まる。私も続きを待つが、聞こえるのは風の音ばかりだ。


「それ以外とは、務めのことですか?」


「務めは、君の希望を聞いて決める。合格は、もう変わらん」


 叔母が大きく手を打つ。騎士たちも加わり、私を囲む拍手になった。剣を握る手がじんと温まり、今度は顔を隠す布がなくてよかったと思う。


「それで、今日の勝ち方についてだが、勤務が終わったあとに時間があれば……その、君と話す時間を」


「剣のお話でしたら、すぐに伺います」


 マルセルは、ひそかに手を開く。前置きが増えるたび、指を一本ずつ折って数えていた。私はその手と団長の顔を見比べる。そんなに数える用件があるのだろうか。


「団長、そろそろ食事の用件に到着してください。剣の話へ戻ると、僕の指が足りません」


「分かっている。勝ち方の話をしたい……いや、君と食事をしたいんだ」


 言い直した団長に、私の口が止まる。試合の申し込みなら、さっき即答できた。食事と聞いただけで、軽鎧の内側まで熱がこもる。


「私と、食事を……?」


「都合のいい日に。返事は急がなくていい」


 副官が、にこりとした。私は握ったままの剣を、ようやく脇へ下げる。剣を交える前よりも、息の整え方が分からない。


「マルセル様、食事では、先に確かめておく作法がありますか?」


「お腹を空かせておくくらいです。団長も、同じように座りますから」


「マルセル。余計な作法まで教えなくていい」


 団長の耳の縁が、少し赤い。そこを見てはいけない気がして、私は叔母へ目を逃がした。叔母は合格を祝って、早くも土を足でならしている。あの構えは、追加の稽古だ。


「よし! 今日は祝いに稽古を増やすよ。返事が遅い分、足を速くしな」


「叔母様、食事のお返事を、まだ決めていません。今日は、それを考える時間もください!」


 叔母の足が、宙で止まった。口まで開いたままだなんて、珍しい。ならしかけの土に、足の影だけが揺れている。


「剣より先に、誘いを悩むのかい?」


「はい。勝ったあとに頂くお誘いには、まだ慣れていません」


 私は叔母へ向けていた足を戻し、団長へ向き直る。団長は、私の返事を待っていた。剣先も旗もないのに、胸の鼓動はまだ速い。急がなくていいと言われたぶん、私の言葉で返したい。


「食事の誘いにも、試験はありますか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。