1. 昨日までの妻
元夫が自慢していた銀の兜を、私は剣先で床へ落とした。
振りかぶる前に上がる右肩。その隙に庇を払えば、自慢の守りは板張りの床で乾いた音を立てる。
◇
前日、私はシュタールベルク伯爵邸の書斎にいた。夫が差し出したのは、離縁の書面だ。
窓の外で初夏の日が傾き、机に細長い光が差し込んでいた。乾ききらないインクの匂いだけが、やけにはっきり鼻に届く。
「五年、白騎士に勝てないのは、家に剣の分かる妻がいないせいだ」
ヴィンツェンツは撫でつけた金髪を指で整えた。書面には、もう彼の署名がある。私の返事を待つための紙ではない。
「剣の分かる妻なら、その妻の言葉も聞いてくださるのですか?」
「俺の苦労が分かるなら、家で余計な口を利かずに支えられるものだ」
それでも私は、右肩を上げてみせた。目の前で示せば、伝わるかもしれない。
「振りかぶる前に、ここが上がります。相手に、打つときを教えているのです」
「剣も握れぬ女に、騎士の苦労などわかるものか」
「握れるかどうか……あなたは一度も見ていらっしゃいません」
夫は肩を見ることもなく、ペンを私へ押しやる。羽根の先が机をこすった。十九歳で嫁いだ日も、同じ口が私から剣を遠ざけたのだ。
「伯爵夫人が剣を振るうな」
婚姻のときの言葉だ。以来、叔母が覆面の飛び入りで出られる月例試合の席を用意してくれた。
剣の助言をするたび、夫の目は自分の手に向く。私が開いた、剣だこのある手には目もくれない。
月に一度、叔母の家へ行く日について、夫は一度も尋ねなかった。帰っても、自分の試合を見たかと聞かれるだけだ。
「この手も、肩の話も、まず見てからおっしゃってください」
「署名をしろ。俺には、俺の剣を支える妻が要る!」
「では、署名いたします。明日から名乗る名は、私が決めます」
「勝手にしろ。ファルケンベルクの名など、試合場の誰も知らん」
羽根ペンは、思ったより軽かった。紙をこするペン先の音を聞きながら、私はゆっくり息を吐く。双方の署名で離縁は成立し、私はファルケンベルクの名へ戻って叔母の家に帰った。夫の家名を名乗るのは、ここまでだ。
勝ちは全部、白騎士の名に預けてきた。私の名で喜ばれた勝ちは、一つもない。
◇
翌日の月例試合、銀の兜が落ちた直後だ。私はイングリット・ファルケンベルク、二十四歳の騎士家の娘。昨日まで彼の妻だった私は、五年間、白騎士としてここへ通い、彼に一度も負けていない。
刃を潰した試合剣を下げると、審判が私の側へ旗を上げた。兜か剣を床へ落とせば勝ち。客席のざわめきが、遅れて耳に届いた。
白く塗った丸兜と、肩から腰を覆う白い外套。喉まで隠す白布の下で、私は五年、声を出さずに戦ってきた。歓声に返す言葉も、布の内側でのみ込む。
「白騎士。御前試合へ出るなら、名乗りは本名と素顔で」
審判の声に、私は頷いた。今日の月例試合は、御前試合の名乗りも兼ねる。指を留め具へかけ、兜を外し、白布を解いた。
汗で湿った赤銅の後れ毛が、頬をくすぐる。そこへ初夏の風が触れた。ひやりとした肌に、今は布の重みがない。私の深緑の目を隠すものは、もうなかった。
「あなたが勝てなかった相手は、私です」
客席の一人が身を乗り出す。隣の観客は私から元夫へ、また私へと顔を向けた。私が目を向けても、その視線はもう逸れない。
「イングリット……お前が白騎士だと?」
「イングリット・ファルケンベルクとして、名乗ります」
「ファルケンベルクだと……昨日まで、俺の家の名を名乗っていただろう!」
ヴィンツェンツの手は、家伝の銀の兜へ伸びたまま止まった。家の名誉だと、毎晩のように私に磨かせていた兜だ。あの冷たい縁の感触なら、今も私の指が覚えている。
「なぜ言わなかった!」
「聞かれたことがありませんもの」
元夫の口が半開きになった。顔からさっと色が引き、客席からはこらえきれない笑いが漏れる。
「俺が知るはずがないだろう! 顔も声も隠していたんだぞ!」
「家では、肩のことをお伝えしました。私の言葉なら、聞かなくてよかったのですか?」
私は白布を畳んだ。指先が少し震えている。五年ぶんの息をようやく吐いたのに、布の端がうまく揃わなかった。握り直しても、胸のつかえまではほどけない。
「騎士の剣に、妻が口を出すなと言っただけだ!」
「その妻を相手に、あなたは毎月、白騎士を指名したのです」
元夫が兜の縁を掴んだ。持ち上げかけた腕が、途中で止まる。
「知っていたなら、俺に勝ちを譲れただろう!」
「勝ちを譲るのは、相手への侮辱です。ファルケンベルクの家では、そう教わります」
「妻が夫に恥をかかせて、何が教えだ!」
私は剣先を下げた。胸の奥で、五年ぶんの言葉がようやく形になる。息を継いでも、今度は引っ込まない。
「六十回、あなたが指名し、私が受けました。五十九敗の続きを選んだのもあなたです。六十敗を、私の責任にしないでください」
「……俺に、皆の前で恥をかかせる気か」
「恥をかかせたのは、私の剣ではありません。家で私の言葉を聞かなかった、あなたの耳です」
客席の笑いが大きくなり、元夫が顔を跳ね上げる。さっきまで色を失っていた頬が、今度は赤くなった。私は白布を握った手を、ゆっくり下ろす。
最初の拍手は、審判席から響いた。立ち上がったのは、騎士団長ハーラルトだ。
まっすぐな眉の下で、金茶色の目が私と剣を捉えていた。三十歳の団長は、大きな手を打ち鳴らしながら席を降りてくる。拍手の音が、階段を降りるたびに近くなった。
「ようやく、君の名を呼んで応援できる」
その一言で、喉の奥が熱くなる。返事をしようとして、唇を開いた。けれど、声になる前に息がつかえる。私の名へ向けられた拍手が、こんなにも胸に響くとは思わなかった。
「私の名を……ありがとうございます! 今日は、その拍手を私が受けます」
「礼は要らない。俺は見たものに拍手しただけだ」
拍手が観客席へ広がる。元夫の前で、私の名を呼ぶ声が重なった。
「待て、団長! その女は、昨日まで俺の妻だったんだぞ!」
「そうか。だが、今日ここで名乗ったのは彼女自身だ」
元夫の口が閉じる。団長は私へ、まっすぐに目を戻した。
「相手の一手を見て勝つ剣を、団に欲しい。取り次ぎの叔母上から、誘いは聞いているか?」
「はい。名乗りを代わってくれた叔母から、何度か。……お返事を出せずにいました」
団長が頷く。求められたのは、私の剣だった。柄を握る指に、少し力が戻る。
「私の正体をご存じないときから、剣を見てくださっていたのですね?」
「そうだ。返事がなければ待つだけだ。白騎士の暮らしまで尋ねたことはない」
団長は審判席の階段の下で足を止めた。こちらへ向き直ると、客席の音が少し遠くなる。
「君を、正式に迎えたい」
「承ります。ここで剣を構えればよろしいのですか?」
私は反射で足を開いた。団長の目が、足元から顔へ戻る。
「入団の誘いだ。俺は月例試合では審判席にいる。今日も君の相手にはならん」
「……失礼いたしました」
頬が熱くなった。足を揃える間にも、客席から笑いがこぼれる。私は、ようやく剣を下げた。
「はは、白騎士らしい返事だ。明日、実力確認に来てほしい。合格すれば団の一員として働ける」
「御前試合への出場とは、別に確かめるのですね?」
団長が頷く。元夫のほうを振り返る人は、もう一人もいなかった。
「そうだ。御前試合で優勝すれば国王の叙任を受け、団で務めを選べる。君の目標を聞こう」
私が目標を言う番だ。剣を預ける相手も、私の名を呼ぶ相手も、ここにいた。柄を握る手は、もう隠さなくていい。
「自分の名で御前試合へ出て、正式な騎士になります」




