EP 9
借金は残るが、悪くない空。月の女神の帰還と特製弁当
ポポロ村の空を覆っていた紫色の暗雲が去り、元の抜けるような青空が戻ってから数時間が経過した。
午後。村の裏手にある太陽芋の畑では、三十万円のツケを払うための『残りの労働(草むしり)』が、静かに、そして黙々と行われていた。
「……ふぅ。このウネの雑草は、これで全部ですわね」
カグヤは、泥だらけになった軍手で額の汗を拭い、腰をトントンと叩いた。
タローマンの特売芋ジャージは土で汚れ、見栄を張るために綺麗に整えられていた純白のネイルも、すっかりボロボロになっている。
だが、不思議なことに、カグヤの心には昨日までの焦燥感や、見栄を張らなければならないという強迫観念は一切なくなっていた。
(……わたくし、何をあんなに意地を張っていたのかしら)
カグヤは、吹き抜ける風の心地よさを感じながら、青空を見上げた。
数時間前、宇宙規模のブラック労働の権化である『月のベヒーモス』を、ただの布団叩き一本で泣かして追い返してしまったオカン清掃員。
彼がベヒーモスに放った言葉が、カグヤの胸の奥で何度もリフレインしていた。
『部下のメンタルケアを怠るな!』
『連れ戻すのは、あいつが自分で「帰る」って決めてからだ』
――自分で、帰る。
カグヤは、泥だらけの手をギュッと握りしめた。
逃げているだけでは、あの息の詰まるようなブラック労働のシステム(祈りの処理)は変わらない。自分が月の女神である以上、その責任から一生逃げ続けることはできないのだ。
「……湊」
カグヤは、あぜ道で休んでいる九条湊の方へと歩み寄った。
その後ろには、同じく草むしりを手伝わされていたルチアナや、見学していたリーザたちの姿もある。
「どうした、見栄っ張り女神。草むしりは終わったか?」
湊が、冷たい陽薬茶の入ったコップを差し出しながら問いかける。
「ええ。三十万円分の労働には少し足りないかもしれませんが……わたくし、月に帰ることにしましたわ」
カグヤのその言葉に、その場にいた全員が少しだけ驚いたような顔をした。
「……アンタ、本気? あんなブラック牛舎に連行されるのが嫌で、湊の背中に隠れてガチ泣きしてたじゃない」
ルチアナが、目を丸くして尋ねる。
「フン。誰が連行されるって言いましたの? わたくしは、自分の意志で帰るんですのよ」
カグヤは、泥だらけのジャージ姿のまま、かつてないほど堂々と胸を張った。
「わたくしは月の女神。何百万という信者の祈りを放り出して逃げ続けるなんて、神の風上にも置けませんわ。……それに、あの忌まわしい無休のブラックシステムを根本から解体して、絶対に有給休暇制度を導入してやりますの! そして次こそは、自腹でバカンスに来てやりますわ!」
その言葉には、昨日までの虚勢とは違う、本物の女神としての『覚悟』が宿っていた。
「……ふふっ。言うじゃない」
ルチアナが、悪戯っぽく笑ってカグヤの背中をバンッと叩いた。
「ま、アンタが過労死したら私のゴッドチューブのコラボ相手がいなくなって困るからね。……有給取れたら、いつでも逃げてきなさいよね。ただし、次は質屋のレンタルドレスと『わナンバー』の車はお断りよ!」
「も、もう! 一生言わないでって言ったでしょう!」
軽口を叩き合う二柱の世界神。表向きはいがみ合っていても、そこには確かな友情と信頼があった。
「カグヤ様」
そこへ、エンジ色の芋ジャージを着たリーザが、トテトテと歩み寄ってきた。
彼女の小さな両手には、白いハンカチに包まれた『ある物』が大事そうに抱えられている。
「これ……お持ちなさいな」
リーザが差し出したのは、綺麗に殻が剥かれた、丸々一個の『ゆで卵』だった。
「リーザ……貴女、これ……」
「今日のポイ活とラジオ体操のスタンプで、なんとか一個まるまる手に入れましたの。帰りの道中で、お腹が空いたらお食べなさいな」
リーザは、太陽のような無垢な笑顔で微笑んだ。
「次に来る時は、半分こじゃなくて、一人一個ずつ、最高のゆで卵で乾杯しますわよ!」
「……ええ。ええ、絶対に。約束ですわ、強欲アイドル」
カグヤは、ゆで卵を両手で受け取り、ポロリと一筋の涙をこぼした。
ハイブランドの宝石よりも、どんな高級料理よりも、この質素なゆで卵の温かさが、カグヤの心を強く打ち震わせていた。
「おい、カグヤ」
最後に歩み出てきたのは、緑色のエプロンを着た湊だった。
彼の手には、風呂敷に綺麗に包まれた、かなり大きめの『包み』が提げられている。
「……ほらよ。帰りの道中用の弁当だ」
「え……?」
「中身は『肉椎茸と月見大根の炊き込みご飯』のオニギリと、大将が作った出汁巻き卵だ。……ゆで卵と一緒に、月でゆっくり食え」
湊は、ドンッとその重たい包みをカグヤの腕に押し付けた。
さらに、湊はエプロンのポケットから、小さな木箱を取り出してカグヤの手に握らせた。
「これは……?」
「『ポポロシガー』だ。高級品だぞ」
湊は、帽子を目深に被り直し、少しだけぶっきらぼうな口調で言った。
「祈りの処理が詰まって、頭がおかしくなりそうになったら、五分でいいから外の空気を吸って、そいつに火をつけろ。……神様が五分タバコ休憩したくらいで、世界は滅んだりしねェよ。あまり根詰めるな」
「…………っ」
カグヤの瞳から、再び大粒の涙が溢れ出した。
弁当の温かさと、ポポロシガーの小さな木箱。それは、オカン清掃員が不器用な神様へ贈る、最高のエールであり、究極のメンタルケアであった。
「生意気……生意気ですわよ、アンタたち……っ! 神様を捕まえて、まるで近所の家出娘みたいに……っ!」
カグヤは、涙を腕でゴシゴシと拭い、深呼吸をした。
「……でも。三十万円のツケ、まだ払い終わってませんわよ。残りの借金は、どうするおつもり?」
わざとらしく、少しだけツンとした態度で湊を見る。
すると、湊はニヤリと、最高に悪魔的で、オカンらしい笑みを浮かべた。
「ツケにしておいてやる。……借金が残ってれば、お前もまたこの村に『返しに来る』口実ができるだろ?」
「……っ!」
その言葉を聞いた瞬間。
カグヤの顔から、すべての見栄や、強がりや、疲れが完全に消え去った。
泥だらけの芋ジャージ姿。髪もボサボサで、ネイルもボロボロ。
だが、その時にカグヤが浮かべた微笑みは――月の世界の信者たちですら見たことがないほどの、息を呑むほど美しく、純粋で、本物の『女神の笑顔』であった。
「……ええ。ええ、必ず。必ず、返しに来ますわ」
カグヤは、弁当とゆで卵とシガーをしっかりと胸に抱きしめ、天を仰いだ。
もう、レンタカー(リムジン)を呼ぶ必要はない。彼女の身体から、本来の神格である眩い月の光が放たれ、ふわりと宙に浮き上がる。
「ルチアナ! リーザ! そして湊! 次に会う時は、わたくしがアンタたち全員に、極上のフルコースを奢ってやりますからね! 首を洗って待っていなさい!」
光の粒子に包まれながら、カグヤは天高く舞い上がっていく。
ポポロ村の住人たちは、夕日に照らされながら空へと昇っていく月の女神の姿を、笑顔で見送った。
「……行っちゃったわね。あいつがいないと、少し静かすぎる気もするわ」
ルチアナが、少しだけ寂しそうに空を見上げる。
「大丈夫ですわ! 借金がある限り、カグヤ様は絶対にこの村の太客として戻ってきますの! 資本主義の絆は永遠ですわ!」
リーザが、純金バケツを磨きながら元気よく言い放つ。
「ハァ……。まったく、どいつもこいつも世話の焼ける神様だぜ」
湊は、空を見上げながら大きく伸びをし、URデッキブラシを肩に担ぎ直した。
マウントを取るためにやってきて、泥だらけになって借金だけを残して帰っていった月の女神。
だが、彼女が飛び立っていったポポロ村の茜色の空は、どこまでも澄み切っていて――決して、悪くない空だった。
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