其の弍
其の弍
翌朝、義男はいつものように春の麗らかな陽気に誘われ、早朝を告げる時鳥の声色に、気持ち良く目を覚ますはずだったのだが、その日、義男の部屋には、けたたましい目覚ましの音が鳴り響いていた。
「よしお〜! よ〜し〜お〜! 起きろ〜!! よ〜し〜お〜!!」
義男の名前を連呼する『けたたましいめざまし』は、ベッドに仰向けに横たわる義男の上にまたがって、何度も胸部を殴打していた。
「う〜ん。なんだよ……」
「お? やっと起きた。朝だよ、起きなって」
「雅? なんで雅が僕の部屋……それも僕の上にいるんだよ」
「そりゃまぁ……幼馴染だから?」
「答えになってない。第一、先生にも言われたろ。女子は危ないから一人で外を歩くなって。早速、言いつけ破ったのか?」
「大丈夫。外は歩いてないから」
「じゃあ、どうやって来たんだよ」
「そこから」
雅はそう言うと、得意げな顔で勉強机の横にある小さな窓を指差した。
「おいおいおい、嘘だろ? まさかベランダから窓に飛び移ったのか?」
「そ! あーし体育だけは得意だから!」
「一体全体、どこのラブコメだよ! 現実でそんな幼馴染聞いたことないよ! まったく……下に落ちたらどうする気だったんだ……待てよ……と言うことは、その外壁に接触した服で僕のベッドに……はぁ、あとで布団カバーとシーツ洗わなきゃな……」
「何よそれ〜。それより早く歯磨いて来て。朝食、作ってるから。それに今日から結衣達の護衛するんでしょ? 早く家出なきゃ」
「そ、そうだった。わるい。ありがとう」
護衛と言えば大袈裟な気もするが、まぁ、ある意味では護衛である。今日から義男は雅、結衣、優子の3人の護衛を務めなければならない。昨夜はそのことに浮かれていたと言うのに、朝になったらすっかり忘れていた、おっちょこちょいの義男である。
義男は制服に着替え、空っぽの鞄を手に持つと、洗面所で歯を磨き、台所へと足を運んだ。
台所では雅と母親がお弁当を作っており、父親は食卓の椅子に腰掛け、新聞を読んでいた。
「おぉ、義男おはよう。今日から雅ちゃんを送っていくんだって? しっかりしろよ」
「あぁ、まぁ」
「私はおはようと言ったんだ」
「あぁ、おはよう」
「挨拶はしっかりしなさい。それだけでもだいぶ印象が変わるからな」
「うん……」
義男の父、九条哲男は昭和の男を絵に描いたような人間で自分にも他人にも厳しい。義男はそんな父親が少し苦手だった。
義男は父から目を逸らすようにして台所の二人を観察していた。
「今日はホントにありがとね。義男ったらいつも食べるだけで、全然手伝わないから」
「まぁ、男の子ですから。私も久々に義男くんのお弁当を手伝えて嬉しかったです」
「まぁ、本当いい子ね。雅ちゃんは」
「ありがとうございます。お母様」
「あら、もうお母様? 雅ちゃんがいる限り義男はお嫁ちゃんには困らないわね」
雅が義男の母と仲良く話していると、それまで黙って新聞を読んでいた哲男が、ふと誌面から顔を上げ、話に割り込んできた。
「雅ちゃんは本当にいい子だ。ぼーっとしてたら捨てられるぞ、義男」
「別にいいよ〜」
「いいことあるか。全くこいつは、照れ隠しはもう少し上手にやりなさい。すまんな雅ちゃん。義男はまだガキなんだ」
「——ガキじゃない」
「そう言うところがガキだと言ってるんだ」
「何言ってるか分からねー」
「すまんなこんなバカ息子で。どうか長い目で見てやってくれ」
「いえいえ、そんなことないですわ。おじさん」
「いや、お父さんでいいぞ」
「何言ってんだよ」
「いや……パパでもかまわん」
「テメェ、本当に何言ってんだぁぁぁあああ!!!!!」
——ヤバい……うちのバカ親二人が早速、雅に懐柔され始めている。そりゃ雅とは長い付き合いだし、家族ぐるみの付き合いでもあるから、今さら何処の馬の骨かも分からない女子を紹介されるよりはよっぽど楽なんだろうけど、いったい僕の意思はどこへ行ったんだ? ダメだ……完全に浮かれてやがる。特にあのバカ親父。碇ゲンドウみたいな渋い声のくせして会社じゃ、うだつの上がらない万年係長。どちらかというと、碇司令より長谷川泰造だ。まぁ、そんなことはどうでもいいが、もう雅を娘扱いし始めてるよ。あの親父だけはなんとかしなければいけない……。
将を射んと欲すればまず馬を射よ——唐の詩人、杜甫の詠んだ『前出塞』の一節にある通り、恋愛もまた相手を落とすなら外堀から埋めていくのが上策なのである。浦原雅は、誰に学ぶでもなく、執念と努力でその真理に辿り着いたのだ。
だが、いとも簡単に心を射止められたチョロい哲男とは違い、母、九条綾子は雅の行動の違和感に勘づいていた。
——まぁ、雅ちゃんたら、急に義男のお弁当を作るだなんて言い出して……これにはきっと何かあるわね。
いつの時代のどんな時も、女の勘とは実に恐ろしいものである。
綾子は、雅が義男のことを好いていることぐらい何年も前から当然、承知している。そして幼馴染という恋愛において圧倒的優位を誇れるポジションにいることに、雅があぐらをかいていたことにも当然気づいている。その雅が今日になって突然、義男の弁当を作りたいと言い出し、綾子のことを「お母様」などと呼び、哲男に関しては「パパ」呼びをしようかと言うところまで距離を詰めて来ている。
ここに、義男がひょっとして学校でモテ始めてるんじゃね? やっぱうちの子イケてるんじゃね? という誤解にも似た疑念を抱くのも当然である。そうとなれば、愛する我が子を安売りするわけにもいかないと思うのが母親というものである。今、義男を取り巻く環境を確実に把握する必要がある——これ以上、雅が哲男に取り入るのは悪手だと判断した綾子は、義男達に早々に朝食を食べるよう促し、そそくさと二人を送り出した。
「綾子、なにもそんなに追い出すようにしなくてもよかったんじゃないのか? 時間ならまだあるだろう」
どこか雅らに申し訳なさそうな表情を浮かべ不満げにそう言う哲男に、綾子は少し艶のある声でこう答えた。
「だってぇ〜、あの子達がいたら……ほら、朝のお楽しみが……」
綾子が目配せをすると、哲男は鼻の下を伸ばし大きく鼻で深呼吸をし、きゅっとしまったネクタイを緩め始めた。
「そ、そうだな。まぁ、まだ少し時間もあるしな……」
「さ、朝の大河が始まるわ〜」
「どて〜〜〜〜〜〜」
綾子の思わぬ言葉に、哲男は『昭和の厳格な父』らしからぬズッコケをかました。
「あら、あなたどうしたの?」
「い、いいや、何もない……俺も見る……」
普段厳格な父も、子供がいない時には意外と愉快なパパなのである。
綾子と哲男が愉快な夫婦を演じている時、義男と雅は結衣の家へと向かっていた。結衣と優子の家は義男の家と学校を結んだ直線上に位置しているため、結衣らのお迎えは義男にとって、いつもの登校となんら変わることのないものであった。
義男が家を出てから10分、見えて来た弁当屋『にこにこ亭』が結衣の実家である。一応、江戸時代から続く老舗ということもあり、元々は『弁当屋弥兵衛』という屋号であったが、結衣の高校合格の際、『結衣の好きな名前に変えていい』と言った親バカの父のせいで、二百年続いた伝統の屋号は無情にも『にこにこ亭』というお子様ネームに変わってしまったという。
そのにこにこ亭の前で結衣が義男たちに向かい手を振っていた。
「おはよう九条くん。わざわざごめんね。雅ちゃんも」
結衣の挨拶に笑顔で答えようとする義男だったが、それを察した雅が先回りをするように返事をした。
「結衣おはよう。朝から集団登校ってだるいよね〜。小学生じゃないんだからさ」
「まぁ、でも仕方ないよ。あんな事件が続いてるし」
「てかなんで中高生を狙うのか意味わからないよね〜。普通、誘拐って言ったらさ、もっとちっちゃい子じゃない? 犯人も勇気あるよね〜」
——なんだか雅って女子同士で喋る時ってちょとキャラ変わるよな……というか、おはよう言えなかった……。
義男は完全に話に入るタイミングを失ってしまっていた。これも、義男と結衣をくっつけまいとする雅の策略だ。
社交スキルお化けの雅にかかれば、義男が入る隙のない密な会話を学校まで続けることなど造作もないことだ。この後も雅のマシンガントークは続き、優子を加えた後もそれは変わらなかった。
「あれ? 九条君は?」
ふと結衣が隣を見ると義男がいない。
「あれ……さっき私を迎えに来てくれた時にはいたわよ。いつの間に消えたのかしら」
途中から加わった優子も辺りを見渡すが義男の姿はどこにもない。
「う〜し〜ろ」
雅がそう言って二人が後ろを振り向くと、そこには何食わぬ顔でこちらを向いている義男の姿があった。
「よっ。どした?」
「うわ!! もう〜びっくりした〜。後ろにいたんだ〜」
結衣がほっと胸を撫で下ろす。
「もう、いるならいるって言ってよね。九条くんも人が悪い」
そう言って、優子がいつものじとっとした目で義男を見ていた。
「二人ともダメね。義男はね、人が3人以上集まったらいつも後ろを歩くのよ。後ろが落ち着くんだって」
「そうなの?」
結衣が不思議そうに首を傾げると、義男は少し照れた様子で自らの癖について話し始めた。
「いやぁ、なんていうか。全体が見渡せないと気持ち悪いと言うかさ。もし、仲間に何かあったらって思うのかな? サッカーやってた時の癖かもしれないけど。なんか皆が見えないと落ち着かないんだよ。驚かせちゃってごめんな」
——すごーい。義男くん。こんな時だからじゃなくって、普段から皆の安全のことを考えてるなんて。やっぱり優しいなぁ。
結衣が義男の悪癖にポジティブな印象を抱いている中、その隣では優子が焦りにも似た感情を抱いていた。
——マズいはね。結衣は気づいていないようだけど、また一つ九条君についてマウントを取られてしまったわ。まったく……厄介だわ、幼馴染……。
四人はそのまま校門を抜け、昇降口へと足を運んだ。すると、義男が素っ頓狂な声をあげた。
「なんじゃこれ????」
「どうしたの、九条くん?」
すかさず結衣が駆けつけると、義男は下駄箱の中から黄色い何かを取り出した。
「いや、これ……。俺の下駄箱の中にぬいぐるみが……」
義男の手には年季の入ったフランス人形が収まっていた。
「え……と、人形……だね。ぬいぐるみじゃなくて、お人形さん」
結衣が申し訳なさそうに訂正した。
「何か違うのか?」
「う〜んと……」
結衣にとって、人形とぬいぐるみの違いなど、いちいち説明するようなものではなかったので、結衣は義男にどう説明したものかと戸惑ってしまった。女の子にとって、人形とぬいぐるみの違いなど、『ち○ち○がついてれば男、ついてなかったら女』と同じぐらい当然であり、常識中の常識なのである。
「人形は人型でぬいぐるみは動物型よ」
優子の過去一分かりやすい説明が炸裂した。そのあまりの説明の巧さに——
——てん……さい……。
結衣は心の中でそう呟いたという。
「それにしても気持ち悪い人形ね。なんでこんなのが義男の靴箱にあんの? 嫌がらせ? だったら最低ね」
雅は腕を組み、爪先で床を叩き、苛立ちを隠せずにいた。
義男達は人形を職員室へ届けると、そのまま教室へと足を運んだ。
「起立、礼、着席」
担任の櫻井が教室に入り皆が着席を済ませると、朝のホームルームが始まる。
当然だが、昨日の下校時と今朝の通行時に変わったことがなかったか櫻井から確認が入った。しかし、柳田に絡まれた義男を除いては、とりわけ変わったこともなかったらしく、皆一様に平和な時間を過ごしていたらしい。
一通りの確認が終わると、義男の斜め後ろの席の英美里が手を挙げた。
「先生、ちょっといいですか?」
「はい、どうぞ川崎さん」
「私少し目が悪いんですけど、九条君の隣が空いてるので、一つ前に移動してもいいですか?」
「うーん。そうね。無駄にそこが空いてるのもなんだし、一段ずらしましょうか」
「ありがとうございます」
義男の隣の席は新学期早々、空席だった。
二年生からは理系文系が分かれており、いちにちに数回の移動教室がある。その移動教室の際、席が足りなくならぬよう、空席をそのまま置いているのだ。つまり、他のクラスが40人いるのに対し、二年二組だけ最初から39人なのだ。
英美里は机の中にしまっていた教科書などを前の席に移すと義男の方を振り向き、ニコッと笑った。
「来ちゃった」
義男は口をもごもごさせながら、照れくさそうに頬を染めていた。
「そっか……」
この時の義男にとってそれが精一杯の返事であった。
一方、結衣はというと……。優子の方を振り向き、胸の前で両手を細かくバタつかせ、あからさまにテンパっていた。
——優子ちゃ〜〜〜〜ん。どうしよう〜〜〜〜。やられちゃったよ〜〜〜。
優子はいつものジト目で結衣を見つめると——
——グズ。
フゥとため息をつきながら、心の中で叱責した。
しかし、この中で一番危機感を覚えていたのは雅であった。英美里が義男の隣の席に来たことで雅の幼馴染という絶対的なアドバンテージが消えかけていたからだ——学校にいる間、授業中は、英美里はずっと義男の隣なのだから。
ニコニコする英美里、アタフタする結衣、ニヤニヤする義男、イライラする雅。四者四様の事情と感情を抱えながら、物語は『其の参』へと進む。




