第一話 退屈
ここは、三日月女学院高等部。
一年一組の教室。
カッ、カッ、カッ。
チョークが黒板を叩く乾いた音だけが、教室に響いていた。
「ここ、テストに出るからなー」
教師の声が、教室の気怠い空気の中に溶けていく。
黒板には意味不明の文字が並んでいる。
窓から差し込む日差しが眠気を誘う。
「……眠」
教室の中で、一際怠そうにしている生徒がいた。
だらしなく着こなした制服。黒髪の生徒ばかりの教室で、一人だけ浮いている金髪。耳には無数のピアス。
誰がどう見ても問題児にしか見えないギャルである。
窓際の一番後ろの席で、ユイは頬杖をつきながら、窓の外を眺めていた。
五時間目。
昼食を食べ終えたばかりの魔の時間。
「じゃあ、次。この問題答えてみろー」
教師の声が遠くで霞む。
「安倍ー。……おい安倍ー。安倍結ー」
低い声が遠くの霧の向こうから届いたように、鼓膜に響いた。瞬きをすると、いつの間にか黒板の前に立つ教師の鋭い視線が、自分に突き刺さっている。
「……聞いてなかったッス」
「授業は真面目に取り組めよー」
周囲から笑い声が漏れる。
ユイはそんなことは意にも介さず、再び窓の外に目を向ける。
ころ……ころ……ころ。
「……ん?」
校庭にあるサッカーボールが、風もないのにひとりでに転がっている。
……今、ボールの横に……。
ユイは黒板に目を向けると、ようやくペンをノートに走らせる。
一行だけノートに書き写すと、再び窓の外に目を向ける。
――そこには。
三階の窓の外から、こちらを覗く不気味な女がいた。
顔を覆い隠すほどの長い黒髪から、生気のない青白い肌がのぞいている。
真っ黒に塗りつぶされた二つの目は全く笑っていない。
異様に広がった口角が吊り上がっている。
「…………」
ユイは黒板と時計を交互に眺める。
授業が始まってまだ十分しか経っていない。
「……はぁ」
ユイは鼻から短く、尖った息を吐き出した。
不気味な女は、窓を通り抜けるように、スゥーッと教室の中に入ってきた。
そして、ユイの目の前に立ち塞がる。
教室は静寂に包まれたままだった。
「……うぜぇ」
「安倍さん、何か言った?」
前の席の女子生徒が振り返る。
「……別に」
そこにいたら黒板見えねぇよ……。
ユイはノートを閉じると、机に突っ伏した。
授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。
教室の気怠い空気が一気に弛緩し、椅子を引く音が重なった。
「んーっ……」
組んだ両手を頭上に伸ばし、限界まで体を反らせると、溜まっていた熱を吐き出すような深い溜息がこぼれた。
「はぁ……。あと一限か。だりぃ」
ユイの前の席の女子生徒が振り返る。
「安倍さん、何言ってるの? もう六時間目終わったよ?」
「………………」
……マジかよ。
ってことは、ウチほぼ二時間寝てたってこと?
ユイの脳内で勝利のファンファーレが鳴り響いた。
――ッシャ! オラァァ!
机の横のフックからカバンをひったくり、教科書を雑に押し込む。
ホームルームが終わり、さようならの号令の時点ですでに、ユイの体は廊下へと半分傾いていた。
階段を二段飛ばしで駆け下りる。
下駄箱へと向かうユイの足取りは、今日一日の中で間違いなく一番弾んでいた。
上履きからローファーに履き替え、昇降口を出る。
その時、ユイの視界の端に黒い影がよぎった。
「アイツ、さっきの……」
そこには、教室で視た女がいた。
ユイは立ち止まり、辺りを見渡す。
校舎からは次々と生徒たちが出てくる。
女は校舎から出てくる生徒たちをじっと見つめている。
……まぁ特に何かするわけでも無さそうだし。
ユイは再び駆け足で校門へと向かう。
すると、後ろから女子の声がした。
「ユイちゃーん、一緒に帰ろー!」
声のした方へ振り向くと、目を細めて、人懐っこく笑う女子生徒の姿が飛び込んできた。
同じクラスのサホリ。望月沙保理だ。
サホリが大きく手を振りながら、駆け寄ってくる。
「……別にいい。一人で帰るし」
拒絶の言葉は風に削られて消えた。
サホリはこちらの歩幅に合わせて、後ろから付いてくる。
ユイはサホリの後ろを視る。
――サホリの背後。
そこには、あの女が立っていた。
「憑いてくんなし!」
サホリの背後の女は、じっとサホリを見ている。
「えー、待ってよー」
「……いいから一人で帰るってば」
――次の瞬間。
「……っ!」
サホリが声にならない悲鳴をあげた。
「今……誰かに足を掴まれたような気が……」
ユイがサホリの足を見る。
靴下の隙間から細くて白い足首が覗いている。
「……気のせいだったのかなぁ」
ユイが顔を上げると、
女の口の両端がゆっくりと弧を描いて吊り上がる。黒く塗りつぶされた目が、愉しそうに細められていた。
途端にユイの表情が変わった。
「しゃがんで」
「……えっ?」
「いいから。しゃがめって」
「……う、うん」
サホリは言われるがまま、その場にしゃがみ込む。
ユイは右手を掲げ、人差し指と中指を立てると、宙に素早く走らせた。
シュッ!!
空中に一瞬だけ、オレンジ色の光の線が浮かぶ。
――次の瞬間。
「ヴァァァァァァッ!!……」
背後にいた女は、空気を引き裂くような、悍ましい雄叫びとともに、跡形もなく消滅していく。
「今……何かしたの?」
サホリが首を傾げている。
「……別に」
再び歩を進めるユイ。去り際に、横目でサホリを見る。
ユイの目にははっきりと見えていた。
――サホリの右足には。
五本の指が食い込んだような黒い痣が浮かび始めていた――
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