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第65回 風邪とソフトクリーム

夕方、大学から部屋に戻ると、押し入れの奥のほうで、毛布の山が小さく揺れた。


「…おかえりー」


かすれた声。舞子だった。

いつものように猫みたいに伸びをして、ひょこっと姿を見せる気配はない。


「どしたん? 大丈夫?」


靴を脱ぎかけたところで声をかけると、


「う…ん。ちょっと……風邪ひいたみたい……」


と、舞子は毛布の中で答えた。額がうっすら赤い。

ここ数日、急に冷え込んでいた。舞子は早朝の鴨川を、短パン姿で自転車を飛ばしてバイトに行っているのだ。


無理もない。


「バイトから帰ってきたら、そのまま寝ちゃって……」


声も弱い。聞いてるだけで胸がきゅっとする。

押し入れの影は薄暗くて、毛布から出た舞子の額だけが、弱い夕日を受けてじんわり赤かった。

声は小さいのに、僕の胸の奥だけがやけにざわついた。


「熱は?」


「ちょっとだけ」


「何か食べた?」


「ううん。食欲なくて食べてない」


「何か温かいもんでも作ろうか?」


「ありがとう。でも大丈夫。食欲はないけど、今回はインフルの時みたいに関節とか筋肉とか痛くないし、喉も痛くないし、一日寝てたら回復しそう」


「そう?じゃあ、生姜はちみつレモン作るから、それは飲んで。水分も取らなあかんし」


「分かったー。ありがとう」


冷蔵庫を見ると、土生姜はある。レモンは…ポッカの瓶がある。

はちみつはなかったけど、ホットミルク用に常備しているメープルシロップがまだ残っていた。


手鍋に土生姜をすり下ろし、水を入れてコンロにかける。

メープルを多めに入れてよく混ぜ溶かして、味見をしながらレモン果汁を足していって、沸騰する前に火を止めたら完成だ。


「はい、できたよ。座れる?」


「ありがと。ごめんけど、こっちちょうだい」


舞子はそう言うと、のそのそとマグカップを受け取って傍らのミニテーブルに置き、奥の壁にクッションを置き直してそこにもたれるように座った。

両手でカップを持ち上げて口に運ぶ。


「あつ」


そう言って一口啜り、


美味おいし」


と言ってまた一口。

確かに本人が言うように、症状は重くなさそうだ。


「食欲ないって言うけど、回復するにはなんか食べんと。何やったら食べられそう?」


舞子は首を横に振った。


「あ、肉!肉は?ステーキとか」


「食べられないよ。ハルくんじゃないんだから」


舞子が苦笑いして答える。


「ほな、ジンギスカンもあかんよな?」


「もちろんアカン」


おどける余裕もあるようだ。


「あ、うどん!うどんやったら食べられるんちゃうん?」


「ごめん、本当に食欲なくて。でも、このはちみつレモン飲んで、寝てたら回復すると思うから。明日もバイト休みもらったし」


舞子は最近バイト先で融通が効くようになったらしく、かなり自由に休みが取れるようになったと言っていた。


「分かった。ほな、ゆっくり寝とき。僕は悪いけど、お風呂行って、今日は外で食べてくるわ」


「うん。ハルくんはハルくんのペースで動いてね」


舞子はそう言ってマグカップの生姜はちみつレモンを飲み干してミニテーブルに置くと、またコロンと毛布をかぶって横になった。


◇    ◇    ◇    ◇


翌日は、僕も講義のない日だった。

遅くまで「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでいたので、目が覚めるともう十時。

とりあえず押入れの舞子の様子を見ると、まだスースーと寝息を立てて寝ている。

インフルの時みたいに寝られなくてグズることもなく、よく寝られているようだ。


僕はコーヒーを淹れ、パンをトースターに放り込み、ベーコンと卵を焼いた。


「う~ん…おはよ」


食べて始めたところで、舞子が起きてきた。


「おはよう。体調どう?」


「かなりマシ。ちょっとフラフラするけど」


熱を測ると、三十七・一度。


「寝てたらもう下ると思うよ」


舞子が言う。


「あ、じゃあなにか食べる?同じもんでよかったらすぐ作るけど?」


僕はテーブルの上の皿を指したが、舞子はやはりまだ食べられないと言った。


「何か食べられそうなものない?」


「う~ん…あ、そうだ!ソフトクリームなら食べられるかも」


「ソフトクリーム?」


「うん。甘いの食べたい。冷たいから食べやすくて、熱も下ると思うし。ね。ソフトクリーム食べさせて」


ソフトクリームか…よし。


「ほな舞子、行こか。ちょっと車準備するわ」


僕はそう言うと服を着替え、押し入れのクッションをいくつか持って駐車場に向かった。

助手席を倒して後部座席とつなげてフルフラットにし、クッションを並べる。

部屋に戻り、今度は毛布で舞子をグルグル巻きにして抱っこして運ぶ。

抱っこしたまま部屋の鍵を閉めようとして舞子を落としそうになったけど、何とか無事に車に乗せた。

毛布にくるまれてクッションに埋もれる舞子は、ちょっと早いクリスマスプレゼントのぬいぐるみみたいだった。


最近すっかり舞子のものみたいになってるブルックスブラザーズの白いアランセーターと、舞子のピンクのフード付きジャケットも積み込む。


「じゃ、出発!」


「えー、出発って大げさだなあ。からふね屋すぐそこだよ? 疏水の近くでしょ」


「いや、もうちょっとええのん食べさせたるから、とりあえず寝とき」


エンジンをかけてアクセルを踏む。

十一月末の午前の空気は、冷たく透き通っていた。


いつものように堀川通へ出て、南インターへ向かって車を走らせる。

インター手前のマクドナルドの看板が見えてきたころ、

「ついでに昼ごはんを買っていこうかな」と一瞬思った。


けれど——

あの独特の匂いが車内いっぱいに広がったら、

まだ本調子じゃない舞子にはきついかもしれない。


そう考えて、ハンドルをわずかに切り、店の前をそのまま通り過ぎた。


「えー?どこ行くのー?」


寝ずにコロンコロンしていた舞子が、助手席のシートの背もたれを立てて座り直した。


「西の方」


それだけ答えて、料金所で通行券を受け取った。

ブースの中のおじさんの息が白かった。


名神に上がってFM大阪をかける。

ラジオから流れてきたのは、落ち着いた男の声だった。


「ケンタッキーのクリスマス。ご予約承り中──」


いつものような「メリークリスマス!」と弾む調子ではなく、ただ告知を伝えるだけの、控えめな口ぶり。

ジングルベルの鈴の音も短く添えられているだけで、盛り上げるような華やかさはなかった。


「なんか、去年より地味だね。クリスマスー!って感じしない」


舞子が首を傾げる。


「うん。野球の西武も、日本一なったけど今年はビールかけとかせんかったしな。パレードとかもなしで、パーティも地味ーなもんやったらしいで」


「へー。あでも、新幹線のあのCMはいいよね!深津絵里ちゃんがすっごい可愛いの!」


「ああ、山下達郎のやつな。ええなあれ。

けどあの男、線路に背中向けてホームでムーンウォークしたら危ないんちゃうん?って毎回気になるわ。落ちるやろーって」


「そこ、気にするとこじゃないー!」


舞子が笑う。

よかった。かなり元気になったみたいだ。


あの日のライブハウスのことを、舞子はその後ほとんど口にしていない。

だからこそ逆に、僕は少しだけ救われていた。


ラジオからはタイミングよく聴き慣れたあのイントロが流れてきた。

山下達郎の声が、少し早いクリスマスの空気を車内に連れてくる。


車は、天王山トンネルを越え、茨木インターを越え、吹田インターを越えてどんどん西へ進む。


「ごめん、ちょっとトイレ!」


僕はそう言ってハンドルを切り、吹田のパーキングに入った。


「ちょっと行ってくる!あ、舞子、お腹空いてへん?」


「うん。元気になったけどまだ食欲はそんなになくて」


「わかったー」


舞子はそう言うが、僕はちょっとお腹が空いてきた。

トイレに行って、ついでにフランクフルトを買った。

ケチャップとマスタード、というかこれ和辛子やんけ、っていうあの黄色いのをフランクに自分でかける。

わ。ちょっと辛子が出すぎた!


案の定、辛子が効きすぎて、フランクの味なんかほとんど分からなくなってしまった。


「あれ?ハルくん泣いてるの?」


「いや、ちょっと辛子がな…」


「辛子?」


「うん、小腹すいてフランク買ったら、こないだの激辛タコスの刑がバリエーション替えてきてな」


「えー、大丈夫?」


「うん、コーラ買ってきたから」


「コーヒーじゃないの?珍しいね」


「泥水には懲りたからな」


二人で笑いながら、吹田パーキングから再スタートだ。

合流車線を加速する時、舞子が“よーいどん”と言った。


西宮で名神が終わり、そのまま阪神高速に乗り継ぐ。

右前方に六甲の山並みがくっきりと見えてきた。冬枯れの色をまとった稜線が、冷たい空に青黒く浮かんでいる。


高速を降り、国道43号を少し走る。

コンクリートの高架が延々と続き、昼間でも薄暗い。

やがて「六甲山→」と書かれた青い案内板が現れ、右に折れると急な坂道が始まった。住宅街の道を縫うように登っていく。


そこから表六甲ドライブウェイに入ると、道は一気に山道の顔になる。

ヘアピンカーブが続き、ハンドルを切るたびに冬枯れの林が左右に揺れ動く。

枝を落としたクヌギやコナラの合間から、神戸の街と海がちらちらと覗いていた。

ビル群の向こうに広がる大阪湾が、冬の透明な空気の中で白く光っている。


「舞子、ちょっと横の窓曇ってきたから、一瞬だけ窓開けてくれへん?」


「うん…さむっ」


窓の隙間から入り込んだ冷たい風に、舞子が肩をすくめた。


「後ろにセーターと舞子のジャケット積んでるから」


舞子はゴソゴソと後部座席に行き、セーターとフード付きのジャケットを羽織って、毛布の中でちょこんと座り直す。

吐く息が白く曇ってフロントガラスに散ってはすぐ消えた。


「街よりずっと寒いなあ」


僕が言うと、舞子は「でも空気がきれい」と言って窓の外をのぞき込んだ。


エンジンの唸りが山肌に反響して、何度も後ろから追いかけてくる。カーブごとに落ち葉が吹きだまり、タイヤがその上を踏むたびにザザッと乾いた音が響いた。


さらに登っていくと、光の加減で街並みが一望できる場所があった。

陽射しを浴びた神戸の港がきらりと反射し、ポートアイランドや六甲アイランドの輪郭まではっきりと見える。

舞子は思わず「わあ」と小さく声を漏らした。


やがて三叉路に差しかかり、左に折れる。

しばらく山道を進むと、緩やかに開けて、視界の先に白い柵と広々とした放牧地が広がった。六甲山牧場だ。

車を停めると、冷たい風の中に羊の声がかすかに混じって聞こえてきた。


「さ、着いたで」


駐車場に車を停めて降りると、11月の末の六甲山のピンと張り詰めたような冷たい空気が肌を刺す。


「ここって、牧場?羊さんの声聞こえるし」


「せやで。六甲山牧場」


「へー。初めて来たよ」


「とりあえず牧場の方行こか」


そう言って、舞子の手を引いて牧場へ。

入場料を払ってチケットを貰い、中に入る。

案内板を見て右回りに大きく見て回ることにした。


「あ!馬だ。こっちはヤギ!」


「わー。今度は牛!」


「ねえハルくん、うさぎがいっぱい!」


舞子は大はしゃぎだ。


「なんかもう、すっかり大丈夫っぽいな」


「うん。動物さん達見てたら、元気になっちゃった!」


「良かった。ほな、お目当てのソフトクリーム行こか」


「うん!」


ソフトクリームや、お土産のチーズなんかが売ってる建物へは、羊の放牧場を横切っていく。


「わー!!!!すごーい!!!羊、すっごいくさんいるよー!!!」


「舞子ー!走ったらこけるぞー!」


そう言って舞子の後を追う。


と、なぜか羊が僕のところにどんどん集まってきた。

あっという間に僕の周りは羊で埋め尽くされ、前にも後ろにも行けない。

しかも、羊と言うと真っ白なふわふわを想像していたのだが、現実の牧場の羊は灰色に薄汚れていて、しかもとても臭かった。


「わー舞子ー!これどうしたら!?」


「何ハルくん!?それー!?」


舞子は羊の向こう側で、声が裏返るほど笑っていた。

風邪っぴきの顔じゃなくて、いつもの舞子の顔だった。


「いや、動かれへん!」


舞子の笑いが止まらない。


「あー、ゆっくり歩いてきてもらったら大丈夫です!別に羊は攻撃したりしませんから!」


僕の様子を見て係員さんが声をかけてくれた。

いや、噛まれたり体当りされなくても、この汚い毛が僕に触れるのが嫌なんだが…


◇    ◇    ◇    ◇


「あー、ハルくん面白かった!」


舞子が大笑いしながらそういう。


「うるさい!ソフトクリーム買ったらへんぞ!」


「えー!?じゃあ何のためにここに来たの!?」


ずっと笑っている舞子の背中を押して売店へ。


「ソフトクリーム、ミルクを二つ下さい」


「はい、ミルクソフト二つね!」


売店のおばちゃんが慣れた手つきでコーンにクルクルとソフトクリームを巻いて、手渡してくれる。


「はいどうぞ」


コーンを受け取った舞子は、待ちきれないとばかりに一口かじりついた。


「んんーーー!おいしいっ!!!」


目をキラキラさせて子どもみたいに跳ねる。


「ほんまやな。めちゃめちゃ牛乳の味するわ」


僕もひと口食べて、思わず声が出た。冷たいのに舌に広がるのは、甘さだけじゃなくてちゃんとミルクのコクと香りだった。


「ね、ね!これすごいよ!普通のソフトと全然ちがう!」


舞子は嬉しそうに両手でコーンを持って、先っぽからまた大きくかぶりつく。

唇の端に白いソフトをつけたまま「おいしい!」を連呼している。


「ほら、口の端ついてる」


僕が指をさすと、舞子は照れ笑いしてぺろっと舌で拭った。


「こんなの食べたら、もう風邪なんか吹き飛んじゃうね!」


冷たい空気の中、吐く息も白いのに、舞子の頬はソフトクリームのせいか、楽しさのせいか、ほんのり赤く染まっていた。


◇    ◇    ◇    ◇


「あー美味しかった!」


「美味かったなー」


舞子はすっかり回復したように見える。

それなら──


「な、舞子。ちょっと山頂の展望台行かへん?ここから十分くらい」


「行く行く!」


二つ返事だった。


車に乗り、いま来た道を引き返す。

さっき左折した三叉路に「六甲山頂↑」の看板が出ている。

そのまま案内に従って山道を道なりに。

このあたりは登ってくる時みたいな険しいカーブはなく、ゆったりとしたワインディングロードだ。

両脇に時々豪奢な建物が現れては消える。


「別荘やな。」


「別荘?あの、殺人事件とか起こるやつ?」


いや舞子、ミステリーの読みすぎだ。


「殺人事件は起こらへんと思うけど、どんな仕事したらこんなとこにこんな別荘持てるようになるんやろなー」


「事件起こらないんだ…」


「いやそこ、ガッカリするとこちゃうし。事件起こらん方がええやん」


やがて、「回る十国展望台」という看板が出てきた。

それに従って右折してきつい坂道を上がると、突き当りに大きな駐車場が出てきた。


車を降りて建物に向かう。

クッキーやみるくキャンディが並んだおみやげ物売り場、案内に従って中央の螺旋階段を登る。

展望階は中央に丸くスペースがあり、その周り、窓の向こうに展望スペース。


「わ!ハルくん!なんか回ってない?」


「ホンマやな。『回る十国展望台』て書いてたんはこれやな。」


「なんだか外見てると、こっちが回ってる感じしない?」


確かに、ここにいると外が静止していて、自分の足元が回っている気がして、ちょっと気持ち悪い。


「外出てみよか」


外に出ると、風が一段と冷たかった。耳の奥がきゅっとなる。

展望デッキの縁に立つと、窓越しに見ていた景色がいきなり近くなる。

足下のフロアはゆっくり回っているらしく、案内板には「約五分で一周」と書かれていた。


「わあ、海まで見える」


舞子が身を乗り出す。神戸の街の先に大阪湾が白っぽく光って、人工島の輪郭がはっきりしている。

風の抜ける音に混じって、遠くで汽笛のような低い音がした気がした。

視線を動かすと、薄い青の帯の向こうに淡路島が横たわっている。

空気が澄んでいて、遠くの稜線までくっきりだ。


「すごい。本当に回ってるんだ」


ゆっくりと視界が西へ振れていく。

街のブロックが少しずつ位置を変え、やがて山の起伏が前に出て、丹波や播磨の方へ続く丘の重なりが見えてくる。

十国を望むという名前の由来が、少し大げさでも無いのかもしれない。

案内板には、山城や大和、摂津、河内、和泉、紀伊、丹波、播磨、淡路、阿波の名が並んでいた。


「ねえハルくん、あっちのきらきらしてるところ、港かな」


港のクレーンや埠頭が真昼の光を跳ね返して、白っぽく光っているのを舞子が指差す。


「多分そうやな。」


舞子はうなずいて、また海の方へ顔を向ける。

頬はさっきのソフトのせいか、風のせいか、ほんのり赤い。

ピンクのジャケットの袖口からはみ出た僕の白いセーターの袖をぎゅっと握って、指先だけ出して手すりをつかむ。

風が横から抜けるたびに、舞子のフードが小さく揺れた。

そのたびに、袖を握る指先がぎゅっと強くなる。


「ここ、好き」


舞子が風の音に紛れそうな声で言った。


白い息がふわりとほどけて、また風に溶けていく。

僕の袖を握る指先はまだ冷たいのに、頬だけはほんのり赤かった。


ゆっくりと展望台の床が回っていく。

景色が変わるたび、舞子が少しだけ近づいてくる気がした。


「ここ、夜景もすごいで」


「じゃあ今度、それも連れてきてよ」


「もちろん」


風がまた吹いて、舞子のフードがふわっと揺れた。

その一瞬だけ、世界がやけに静かに見えた。

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