第59回 幕が上がる前に
急遽転がり込んだライブハウスデビューのその日。
ステージに立つ前から、楽屋には独特の湿った機材の匂いと、照明の熱気がこもっていた。
ギグバッグのジッパーを下ろすと、ベースの木と金属の匂いがした。
ただ、そのサウンドチェックの時点で、既にトラブルの香りもしていた。
サウンドチェックは五時から逆リハ。つまり、その日の最後に演奏する、いわゆる「トリ」のバンドが最初に音を出し、そこから逆順でリハーサルを行っていく。
最後にリハーサルをしたバンドは、ステージのセットをそのままにしておいて、ライブがスタートしたら一番目に演奏する。
要は、バンドの入れ替えをスムーズに進行するための慣習だ。
六時には開場でお客さんが入ってくるから、遅刻は厳禁だ。
僕達のバンドはトリの前だから、リハは二番目、マスターに言われたように五時過ぎに行けば良かったのだが、念の為に舞子も連れて、五時前に集合した。
「いやあ、自分らのバンド、『今日ここで出るんですか?』って何本か電話で問い合わせあったで。結構期待されてるんちゃうん?」
マスターが、モノクロで刷られたチラシの束をヒラヒラさせながらそう言った。
チラシには、僕達のバンドの名前、『鴨川ルクセッション』の名前ももちろん載っている。
水曜日に出演が決まり、木曜日の午前中に鴨川デルタに四人+舞子で集合して行われた会議で名前が決まり、その日の夕方にはもうチラシができたから取りに来て配れとマスターから電話があった。
大人って凄い。
バンド名は、話し合ってる時に前を流れていた鴨川と、ローザ・ルクセンブルクとRCサクセションを混ぜて極めて安易に決まった。
マスターは、「『セッション』っていうのがええやん」と褒めてくれた。
十月からずっと学校で「神山祭でバンドやるから観に来い」と散々触れ回っていたタカトモは、そのチラシを持って神山祭の最中ずっと配りまくったらしい。
コミュニケーション能力の鬼みたいな男だから、『鴨川ルクセッション』は京産大界隈では本家ローザ並みのバンドということになって、あっという間に知れ渡ったのだろう。
もちろん僕も、軽音サークルをはじめ、目をつけられない範囲で学校で配りまくった。
舞子も、バイト先に持っていってくれていた。
「いよいよ盛り上がってまいりました!」
タカトモがおどけて言う。
メンバーのテンションはどんどん上がる。
ところが、だ。
「ヤバい、これ。オーナー!音でないっす!」
トリのバンドの人たちがサウンドチェックに楽器をアンプに繋ぎ始めた時、PAのスタッフの人が叫んだ。
オーナーが慌てて駆け寄って、スイッチを切ったり、また入れたり、コードを一本ずつ抜いては外し、つまみやボタンを一つずつ動かしていく。
が、時々ガリガリという雑音が出るだけで、音は出ない。
ギターとベースはアンプからは音は出るが、ミキサーに回らない。
「チェックチェック!チェックワンツー!」
マイクの音も出ない。
もちろんコロガシからの返りも出ない。
「ヤバいな…これ、クソ!新品で揃えたのに!」
オーナーはそう言って、僕達バンドの方に向き直って、
「ちょっとスタートずらすわ。日曜やけど、十字屋の知り合いに頼んで、エンジニアの人呼んできてみてもらう。」
店内がざわつく。
「とりあえずな、この後来てくれるバンドと、もし六時から来たお客さんいたらそれは俺が何とか説明するから、自分らは連絡取れるとこ…そうやな、そこの小川コーヒーで待っててもらえるか。飲み食いは、こっちに回すように電話しとくから、すまんけど。機材直ったら店に電話する!」
そう言われては仕方ない。
僕達にできることは待つことだけだ。
「舞子、行こか」
そう言って僕は、ベースの入ったギグバッグを担いで、バンドメンバーと舞子と一緒に小川コーヒーに向かった。
◇ ◇ ◇ ◇
「日付変わって十七歳になった瞬間に、たこ焼き食べたい!」
バンド名が決まった日の夜、まだインクが手につくチラシの枚数を数えながら舞子がそう言った。
「たこ焼き!?十七歳になった瞬間?なんで???」
僕は舞子に、誕生日になにか欲しいものか、して欲しい事はないかと尋ねたはずだ。
それがなんでたこ焼き?
「前にね、ハルくんが女の子の誕生日の前の日からデートして、日付変わった瞬間に車の後ろに隠してた花束出して『ハッピー・バースデイ!』ってやったって話してたでしょ?」
確かにした。
あれは確か、大学一回生の秋だった。
相手は確か、バイト先の女の子だ。
「それでね、私もそんなのいいなーって思って、でも花束よりもたこ焼きの方が絶対美味しいし、と思って」
「そもそも花束は食えんけどな」
「いいじゃんそんなの!だからね、夜中にたこ焼き屋さんに連れてってくれて、日付が変わる瞬間にたこ焼きをプレゼントしてくれるの。『オヤジ、十時に焼き上がるように焼いてくれ』とか言って!」
「何だその無駄にハードボイルドな妄想は?」
「ね!?お願い!」
確か新京極に行けば、シャッターが降りた後で明け方までやってるたこ焼き屋台があったな…
そんなことを思いながら、僕は
「分かった分かった!ライブが十時頃には終わるから、その後店でちょっと飲んで、日付が変わる前に新京極の方に移動、シャッターが降りた商店街の一角で赤提灯の屋台を探す。零時ちょうどに焼き立てのたこ焼きでハッピーバースデー! おっけー?」
「うん!思いっきりおっけー!」
舞子が満面の笑みを浮かべ、親指と人差指で輪っかを作った。
ライブ当日は、思った以上にいろんなことが起きるなんて、この時は想像もしていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ピンキーパールのヤマモト様~!?」
小川コーヒーのウエイトレスさんがそう呼んで、さっき店で見たトリのバンドの人が立ち上がってピンク電話の方に歩いていったのは、もう八時を回った頃だった。
それまで、僕達はコーヒーをお代わりし、サンドイッチとピザトーストを食べ、アホな話を続けていた。
何回かメンバーと顔を合わせてやっと慣れてきた舞子もずっと笑っていた。
「直ったて。自分らも行こか」
ヤマモトさんは、僕達に声をかけて、メンバーと一緒に出ていく。
僕達も後を追った。
店は満杯だった。
タツヤとヒロくんの姿もあった。
マサキはブリティッシュパブのバイトで来られないらしい。
一時間半も待たされた客たちは、なんだかすっかり出来上がっているように見える。
タバコと酒の混ざった、汗ばんだ熱気が溢れていた。
「皆さま!大変長らくお待たせしました!機材トラブル、やっと解決致しました!」
マスターがステージのマイクでそう言うと、店中から大きな歓声が上がった。
「この後、最終のチェックを行い、八時半からライブをスタートします!それまで、もう一杯ずつ是非お召し上がり下さい!ここまでのお代は、全て当店からのお詫びとして提供させていただきます!」
「いよ!太っ腹!」
「店潰れへんかー!」
ヤジと歓声が飛ぶ。
すぐに、八時半になった。
やれやれ、やっと始まる。
────と思ったが、トラブルは続くもので、一番目に演奏予定のバンドのギタリストがまだ来ていないという。
待ちくたびれて、「飲みに行ってくるわ。適当に戻るから」とフラッといなくなって、そこから連絡がつかないのだと。
「すんません!もうちょっとだけ待って下さい!」
テンションの上がりきった客のブーイングを浴びながら、既に板付きになっていた他のメンバーが顔の前で手を合わせてペコペコしている。
「あかん、九時なっても来んかったら、もう次のバンド出てもらうわ!」
マスターのそんな怒りの声が届いたのだろうか、いい感じに酔っ払ったギタリストが、九時五分前に戻ってきた。
ブーイングとも歓声ともヤジともつかない声が店中に響く。
やっと始まった。
二時間遅れだが。
一バンド目は、ビートルズのナンバーをオリジナルアレンジで演るバンドだった。
シンプルなはずの初期ビートルズの曲が、難解な構成とアレンジで再現される。
「この曲、聞いたことある気がするけど、聞いたことない…」
舞子が言う。
ステージが進んで、後期の曲になると、そもそもが難しい曲なのに、それが更にジャズ・ファンクにされてもはや何の曲だか分からない。
が、演奏は圧倒的だった。
タイトなリズム、バシバシに止まるキメ、パワフルなボーカル。
「すごいな…」
タカトモが呟いた。
続く二バンド目は、アコースティック編成で、アニメソングをジャズやボサノバのアレンジで聞かせるバンドだった。
カホンと、ギターとアップライトベース、女性のボーカルがパワフルだ。
シティハンター、パタリロ、ルパン三世愛のテーマ、北斗の拳、おなじみの曲はどれも口ずさめる上に、バンドの音はお洒落で、ベースの四ビートランニングが気持ちいい。
「ギター、上手いな」
コウジが言った。
さて、いよいよ次は僕達の番だ!
というところで、またもやイレギュラーが起きた。
トリのはずのバンドのメンバーのひとりは大阪の南の方から来ているらしく、十一時半の終電に乗らないと帰れなくなってしまうという。
現在既に十一時過ぎ。
僕達の後で、トリで演奏していたら確実に間に合わない。
「タカトモ、悪いけどな、お前ら順番変わってトリに回って貰われへんか?」
オーナーに言われて僕達は引っくりかえった。
なんと言っても僕達は今日がデビューライブなのだ。
「えー!?そんなん、ええんですか?!いや、あかんでしょ!」
僕達は口々に恐縮したが、マスターの
「ええからええから」
「頼むわ!助ける思て!」
という声に押し切られる。
順番は変わった。
僕たちは今日、デビュー戦にしてトリを務めることになった。
ステージ横で、誰かがシールドを差し込む音がした。
ドン、とドラムのキックが鳴り、店の空気が一瞬揺れる。
「……始まるで」
まだ僕達じゃない。
でも、この音の先に、確実に“僕達の番”が来る。
それが分かった瞬間、胸の奥で、静かな火がひとつ灯った。




