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第53回 静かな坂道、ひらく京都

日曜日の朝。

空には薄い雲がかかり、陽射しは柔らかく、風は乾いて涼しい。

前日の蒸し暑さが嘘のように消え、自転車で走るには理想的な日だった。

胸いっぱいに吸い込むと、体の奥まで清らかに洗われるような気がした。


「まずは八坂さんからやな」


昨夜、机に広げた『るるぶ』を参考に、ざっくりとしたルートを決めていた。

舞子は以前、円山公園の桜を見に行ったときに八坂神社を通ったものの、酔客ばかりで落ち着いて参拝できなかったという。

だから今日はきちんとお参りをして、そこから歩いて清水寺へ向かうことにした。


川端通りを四条まで下り、東へ進む。

すっかり走り慣れた道だが、休日の朝は車も人も少なく、舗道の影が長く伸びている。


「着いた」


朱塗りの楼門が見えてくると、舞子が小さく声を上げた。

石段下で自転車を停め、柵にロックをかける。夏の名残を含んだ風が、楼門の隙間から抜けてきた。


石段を上がり、西楼門をくぐる。

舞殿には朝の光が斜めに差し込み、床板に淡い帯を描いている。

賽銭を投げ入れると、乾いた音が響いた。

二礼二拍手一礼。

舞子は目を閉じ、静かに祈る。そして小さく微笑んだ。


「これでやっとちゃんとお参りできた」


境内では修学旅行生の列が柏手を打ち、巫女が竹ぼうきで玉砂利を掃いている。

御朱印帳を広げる夫婦、日傘を差して欄干を眺める女性たち。

朝の境内はまだ人の声も柔らかく、静けさに包まれていた。

僕はその空気を胸に刻みながら、舞子の横顔を見た。

祈りを終えた彼女の表情は、少しだけ晴れやかに見えた。


南楼門を抜けると、下河原通がゆるやかに南へ伸びている。

高台寺道へ入ると、白壁の塀がまっすぐ続き、軒先には打ち水の跡が黒く光っていた。

まだ店は開いておらず、町家の板塀が並ぶ静かな道。

風が通り抜けるたび、木の香りがほのかに漂う。


「なんか…静かだね」


舞子が声を落とす。僕も頷いた。


「二年半住んでるけど、ここ通るのは初めてや」


「え、そうなの? もったいない」


舞子は壁に手を触れ、「ひんやりしてる」と笑った。その仕草が、まるでこの町の時間に溶け込んでいくように見えた。


「高台寺は、秀吉の奥さんのねねが建てた寺やねん。秀吉が亡くなったあと、ここで余生を過ごしたらしい」


「そうなんだ。静かな道、似合いそうだね」


やがて道が折れ、二年坂の石畳が現れる。

角の丸い石が坂を覆い、両脇には八ツ橋屋や甘味処、陶器店が並ぶ。

紙風船や木彫りのこけしが吊るされ、通りの奥からは、カランコロンと下駄の音が近づいてくる。


「急に賑やかになった!」


舞子は目を輝かせ、店先を覗き込む。

二年坂を上りきると三年坂。

簾が風に揺れ、打ち水の匂いが残っている。

風鈴が転がるように鳴り、舞子は「こういう坂、好き」と笑った。彼女の笑顔に、僕も自然と頬が緩む。


やがて清水坂へと足を進める。

両側の店先には京焼の茶碗や湯呑、土鈴、八ツ橋の箱が並び、甘いニッキの香りが風に混じって漂ってくる。

観光地らしい賑わいが一層強まり、舞子は鼻をひくつかせて「いい匂い…」と呟いた。


「帰りに寄ろな。まずは上まで行こ」


朱の仁王門が静かに構え、坂を上りきった空気がそこで一段落する。

拝観受付の列はゆっくりと進み、修学旅行生や家族連れ、年配の夫婦がそれぞれの歩調で境内へ入っていく。

券を受け取り石段を上がると、右手に三重塔が朱を深く湛えて立ち、さらに先では西門が市中を切り取る額縁のように見えた。


本堂の舞台へと人の流れが寄っていく。板のきしみが足裏に伝わり、欄干越しに下を覗いた舞子が小声で言った。


「これが"清水の舞台"か……思ってたより高いね」


「うん。江戸の頃は、ここから飛び降りたら願いが叶う、て言われててな」


「ほんとに?」


「記録に残ってるだけで二三四件。そのうち八割以上は助かったらしい」


「えっ、生存率高くない?」


「そやけど明治五年に、京都府が禁止したらしい。まあ、禁止されて正解やな」


「だよねぇ」


二人で笑いながら欄干から一歩下がる。

舞台の下は懸造。

高さ一三メートルの欅の柱が一八本、釘を使わずに組まれて支えている。

舞子は欄干から下を覗き込みながら感心した。


「全部木で組んであるの? すごいね」


「そうみたいやな。百年以上もつらしいで」


「へぇ…柱、思ったより細いような気がする」


「しかし、ようこんな舞台思いついたなあ」


「下、けっこう怖いよ?」


「やから"思い切る"言う時に"清水の舞台から"なんやろな。…そやけど今日は"景色を思い切り見る"だけにしとこ」


舞子はうなずき、もう一度欄干の外に広がる町を目でなぞった。

見晴らしは西向きにひらけ、、手前に濃い緑の谷、その向こうに京都のまちなみが帯を引く。

舞台の端では家族連れが順番に写真を撮り、若いカップルが肩を並べて街を指さす。

カメラのシャッター音と舞台の板を渡る足音が重なり、寺務所の授与所ではお守りやおみくじを手にした人たちが小さく会釈して散っていく。

背後からは「見えた!」「もうちょい右!」と弾む声──地主神社のほうで、目を閉じて"恋占いの石"の間を渡ろうとしているらしい。


舞台の奥へ続く回廊に足を向けると、「奥の院→音羽の滝」と書かれた案内板が目に入った。

谷の向こうから舞台を丸ごと眺められるスポットに出られ、さらに石段を下れば舞台の真下に湧く音羽の滝へ行けるらしい。


「音羽の滝って、三本の水が流れてるんだよね。順番守って一本だけ飲むんだよね?」


舞子が少し楽しそうに聞く。


「昨日のるるぶに書いてたな。学業、恋愛、長寿やったっけ」


「そうそう。全部飲むとご利益が薄まるって」


「ほな僕も一本だけにしとくわ」


「いや、絶対欲張るタイプでしょ」


「バレたか」


舞子が笑い、僕たちは人の流れに合わせて回廊の先へ歩き出した。

奥の院の縁に出ると、さっきまで立っていた清水の舞台が対岸からすっぽり視界に入る。

檜皮葺の大屋根が背に反って、手前の張り出しを欅の柱の林が支えているのがよく分かる。

望遠レンズを構えた男性が「一八本、やっぱりすごいね」と小声で言い、隣の家族連れが順番にシャッターを切っていた。


石段を下ると、水音がはっきりしてくる。

木立の切れ目に音羽の滝。

長い柄杓が並び、三筋の流れの前に小さな列が三つできていた。

舞子は少し考えてから右手の流れに並び、僕は別の列に立った。

前の人が柄杓の柄を高く掲げて水を受け、口をつけずに縁へ流す作法で一口だけ。

僕らもそれにならった。

冷たい水が舌に触れた瞬間、さっきまでの汗が嘘みたいに引いていく。


「効いた気がする」


舞子が小さく息をつき、笑った。戻りは木陰の回廊をゆっくり。

途中、掲示の前で修学旅行生が立ち止まり、「昔はここから飛び降りたんやって?」と顔を見合わせている。

引率の先生が「明治五年に禁止ね」とだけ添えると、「そらそうや」と笑いがこぼれた。

僕らもつられて笑って、舞台を振り返る。

欄干の向こう、濃い緑の谷の上に午前の光が薄く漂っていた。


滝から戻る回廊は、舞台の下を吹き抜けた風が通って涼しい。

石段を上がると、さっきの賑やかな清水坂に再び出た。

舞子が


「帰りに寄ろうって言ってたお店、この辺じゃなかった?」


と首を伸ばす。


「ほな、ちょっと覗いてくか」


八ツ橋屋の店先には、将棋の駒のような形の紙箱や、朱色の缶に詰められたニッキ味の八ツ橋がきれいに積まれている。

紙箱は修学旅行生用らしく、表紙に清水寺や舞妓のイラストが刷られていた。

舞子は試食の皿からひとつ取って


「やっぱり出来たては柔らかいね」


と笑い、そのまま店員に


「これください」


と桂馬型の箱を指さした。

僕は横で「ほな僕はこっちの缶入りを」と言って、二つの包みを受け取った。


通りの反対側では、名入れの木札キーホルダーを焼きごてで刻む音と、焦げた木の匂いが漂ってくる。

中年の職人が金色に熱した焼きごての先を木札にそっと押し当てると、「ジュッ」と短い音とともに、ひらがなの文字が茶色く浮かび上がった。

舞子はその手元をしばらく眺め、「これ、おみやげにいいね」と一つ注文した。


清水坂を下り、三年坂へ入ると、行きには気づかなかった陶器屋の軒先に赤絵の湯呑が並んでいた。

曇りの日の穏やかな光で釉薬が柔らかく反射している。

二年坂まで下ると、急に人通りが落ち着き、足音と石畳のかすかなきしみが戻ってくる。

観光客のざわめきが遠ざかり、路地の静けさが肌に戻ってきた。

舞子は少し肩の力を抜き、歩調をゆるめる。


「やっぱりこういう静かな感じ、落ち着くね」


「そうやな。京都は賑やかなとこもええけど、こういう余白があるからええんやと思う」


高台寺道に入り、白壁を見ながら南楼門まで歩く。

途中、骨董屋の店先に置かれた古い柱時計がちょうど正午を告げ、低い音が路地にこだました。時間の流れが、町の呼吸と重なって聞こえる。


南楼門をくぐって境内へ入ると、玉砂利が陽にきらめいている。

西楼門へ抜け、四条通の歩道脇に置いていた自転車のチェーンを外す。

舞子がリュックを背負い直し、僕はお土産の紙袋をその中に入れた。


「いやぁ、よう歩いたな」


「でも楽しかった」


「自転車置いて歩いて正解やったね」


二人は自転車にまたがり、次の目的地を思案する。


「さて。どっちにしよう?」


「三十三間堂か、二条城か、だよね?」


昨日の夜、机に広げた『るるぶ』の地図を前に、結論が出なかった選択だった。

三十三間堂に行くなら東大路通を七条通まで下ることになる。

交通量や路駐の多さから考えて、二十分程度だろう。

ただ、その後に金閣寺や龍安寺へ行くなら逆方向になってしまう。


一方、二条城なら四条通を避けて川端から御池へ走れば堀川に出られる。

こちらも二十分程度だが、その後の衣笠方面に向かうには順目だ。


「往復四十分程度なら、せっかくだから三十三間堂行ってから二条城も金閣寺も行きたい」


舞子は地図の端を指で押さえながら言う。僕は時計をちらりと見て返す。


「でもそれぞれの場所で一時間観光するとして、三十三間堂〜二条城〜龍安寺〜金閣寺って回ったら、移動時間含めて一時間以上余計にかかる。昼ごはん食べてたら金閣寺の拝観時間が終わってしまう」


「それぞれの場所の時間をちょっとずつ短くしたら? せっかくなんだから、できるだけ行こうよ」


「いや、『せっかくだから』と言うなら、ちゃんと観たいし、お昼はゆっくり食べたい。京都に住んでるんやから、三十三間堂は次の機会にしよう」


二人の意見はどちらも筋が通っていて、結局決め手はなく、「まあ、明日の気分で決めよか」ということになったままだった。

机に広げた『るるぶ』の地図には鉛筆の矢印が消し跡だらけで、二人の迷いがそのまま刻まれている。


自転車のペダルに足をかけながら、舞子がふっと笑う。


「でもさ、どっちにしても楽しそうだよね」


「そうやな。結論出てへんけど、楽しみには変わりない」


そして、この後の一言だけは完全に一致した。


「「とりあえず、お腹すいた!」」


二人の声が重なり、笑いが広がる。

午前の光は少し傾き始め、川端通の風は昼の匂いを運んでいた。

次の目的地はまだ決まらない。

それでも、今日の旅は確かに続いていく。

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