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第50回 寄り道のご褒美

「あれ?入らんなー」


「ぎぎぎぎぎぎ! 痛い! 先生痛いです!」


「おかしいな、これを、こうして……」


「ミャー!」


先生が、僕の右腕の肘をぐいっと持ち上げ、そのまま外側へひねる。

戻す。またひねる。

そのたびに、右肩の奥で雷みたいな痛みが弾けた。


痛い、なんて言葉では全然足りない。

吐き気と冷や汗が一気にせり上がってきて、視界の端が白くチカチカする。


「おっかしいな……普通ならこれで入るのになあ」


先生は、さっき撮ったレントゲンを光に透かしながら首をかしげた。

その横顔を見てるだけで、嫌な予感しかしない。


「うーん……これはあれやな。君の肩の筋肉が強すぎてな。

入れようとしたら痛みで力入ってまうから、こっちがどれだけやっても、筋肉が引っ張り返してまう。上手いことはまらへん」


「ええ……でも、前に外れた時は、簡単にスポンって入れてもらいましたよ?」


なんとか声を絞り出すと、先生がちらっとこっちを見た。


「どこで?」


「学校の近くの柔道整復師の先生です。

脇の下に足の裏あてて、右腕持って、『ちょっと痛いぞ』言いながら、ひねりつつ一気に引っ張って……」


思い出しただけで別種の痛みが蘇る。


「柔道整復師か。ごっつい人やったやろ?」


「はい。クマみたいでした」


痛みに震えながらも、なんとか返事をする。


「やっぱりなあ。君の肩の筋肉は、そういう人やないと、こっちが負けてまうんや。

医者側の腕力が足らん。しゃあない。これはもう、麻酔で寝てもらおか」


「麻酔、ですか?」


自分の声が情けないくらい裏返った。


「そう。全身麻酔でいこか。

寝てもろてる間に入れたら、痛みも感じひんし、筋肉も力抜けてるさかい、すっと入るやろ」


「分かりました。お願いします」


そう言うしかない。

もう一度あの捻りを食らうくらいなら、いっそ意識を落としてもらった方がましだ。


動くベッドに乗せられ、点滴スタンドごと別の部屋に運ばれていく。

天井の蛍光灯が、ひとつ、またひとつ、頭上を流れていく。

さっきまで耳の奥で鳴っていた救急車のサイレンは、遠い残響だけになっていた。


「はい、今から麻酔の点滴入りますねー。

静かに数を数えて下さい。だいたい十くらいで意識なくなります。

いきますよ」


麻酔科の先生が穏やかな声で言い、点滴のダイヤルをカチリと回した。


「いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ……」


思ったより何も起きないので、不安になりながらも数え続ける。


「ろく、なな、はち、きゅう、じゅう……じゅういち……」


十五くらいまでははっきり覚えている。

その先の数字は、舌の上でとろけるみたいにぼやけていき、ふわっと途切れた。


──あとで舞子に聞くと、僕は「にじゅうはち」まで元気に数えていたらしく、

先生たちが「まだ寝えへん……」「ようけ数えるなあ」と、ちょっと呆れ顔で笑っていたそうだ。


◇    ◇    ◇    ◇


「ハルくん。ハルくん!」


名前を呼ぶ声に、意識が水面へ浮かぶみたいに戻ってきた。

まぶたをゆっくり持ち上げると、蛍光灯の光がやけに眩しい。


視界の真ん中に、涙でうるんだ舞子の顔があった。


「ハルくん……起きた……!」


目尻から、ぽろぽろと涙がこぼれている。


「ん……もう大丈夫」


自分の声が、少し遠くから聞こえるみたいだ。

でも、不思議なくらい、右肩の痛みは引いていた。


前にも経験があるが、脱臼は、入れてもらった瞬間にスイッチを切ったみたいに痛みが消える。

もちろんしびれや違和感は残っているけれど、さっきまでの「腕ごともげた」みたいな痛みは、跡形もなかった。


「おー。もう入れてもろとるやん」


聞き慣れた声がして、カーテンがシャッと開いた。


「試合、勝ったぞ」


ヒロくんと三品先輩が病室に入ってくる。


「それは……よかったです」


まだ少しぼんやりしながら言うと、ヒロくんがベッドの脇に立って笑った。


「こっちの心配もええけどな、お前が転がった瞬間、みんな一瞬で青ざめとったんやぞ」


「すみません……」


彼らは、僕の荷物と車を届けるために、わざわざ希望が丘から済生会まで回って来てくれたらしい。


「京都まで運転して送ろか?」


ヒロくんが、車のキーをひょいと掲げる。


「いや、大丈夫。運転くらいやったら、いけると思う」


右肩をそっと試すように動かしてみる。

ぴきっと嫌な感覚は走るが、ハンドルを握るくらいなら何とかなりそうだ。


「無理すんなよ。お前の『いけるいける』は信用ならん」


ヒロくんが笑うと、舞子がぴょこんと頭を下げた。


「ヒロさん、ありがとうございます。ハルくんのために」


「いやいや。ていうか舞子ちゃん、ほんま奥さんみたいやな」


「え?」


舞子が一瞬固まる。

僕も、笑って流していいのかどうか、一瞬だけ迷った。


そこへ三品先輩が、きょとんとした顔で首をかしげた。


「え、ヒロ、この子と知り合いなん? 中田の彼女ちゃうん?」


「いや、この子はハルヒトの親戚の子らしいですよ。

最近よう一緒におるんです」


ヒロくんがさらっと説明してくれる。


「へえ……」


納得したんだかしてないんだか分からない声を出しつつ、先輩は僕と舞子をじろじろ見ていた。


「ま、今日は無理せんと、ちょっと休んでからゆっくり帰れ」


「ありがとうございます」


駐車場へ向かう途中まで、先輩はまだしつこく、


「ほんまに彼女ちゃうん?」


と二、三回は確認してきたが、全部軽く受け流した。

2人はヒロくんの車に乗り込み、手を振って帰っていった。


◇    ◇    ◇    ◇


「ハルくん、本当に大丈夫?」


病院の駐車場で、舞子が心配そうに僕の右肩を見つめる。


「いけるいける。さっきよりだいぶマシやし。

ほら、こうやってハンドル握るくらいやったら平気」


運転席に座り、左手でハンドルを持ちながら、右手を少しだけ添えてみせる。

正直、ちょっとだけズキっとくるけど、顔には出さない。


「ほんとに? 痛かったらすぐ言ってね」


「分かってるって。ほな、帰ろか」


そう言いかけた時、頭の隅にひっかかっていた記憶がふっと浮かんだ。


──そういえば、オカンが言うてたな。

「滋賀まで来るんやったら、顔見せに寄り」って。


「あ、そうや」


思わず声が出る。


「ん?」


「オカンがな、滋賀来るんやったら実家寄りって言うててん。

どうする? しんどなかったら、ちょっと寄っていこか」


そう言うと、舞子の表情がぱっと明るくなった。


「行く!……

もしよかったら、だけど」


最後だけ、少し声が小さくなる。

その遠慮がちさが、くすぐったい。


「ええよ。オカン喜ぶと思うわ」


僕はうなずき、8号線をそのまま南へ走らせた。

宅屋の信号を左折すると、見慣れた田んぼと家並みが続く道に入る。


同じ道なのに、助手席に舞子が座っているだけで、

景色が、ほんの少しだけ違って見えた。


◇    ◇    ◇    ◇


「あんた、また肩抜けたんやって? もうラグビーとか辞めとき!」


玄関を開けるなり、オカンの声が飛んできた。

どうやら先輩が、病院から電話しておいてくれたらしい。


「いや、辞めへんけど。てか、ただいまくらい言わして」


「はいはい。おかえり」


「で、どうしたん? 家寄りって?」


靴を脱いでいると、台所へ向かいかけたオカンが、ふと振り返った。


「あれ? こないだのお嬢ちゃんやんかいさ?」


「こんにちは。お邪魔します」


舞子が、きれいにお辞儀をする。

バーベキューの時に一度会っているので、オカンもすぐ思い出したらしい。


「よう来てくれたなあ。まあ上がって上がって」


「池のおっちゃんもな、『また肩外したらしいで』言うたら、『あいつは昔から加減いうもん知らん』て笑とったで」


「池のおっちゃん?」


舞子が小さく首をかしげる。


「野洲川のほとりで鮎の養殖やってる親戚がおってな。あだ名が“池のおっちゃん”やねん」


僕が補足した。


毎年夏になると、ヒレ欠けやら寸足らずやら、

見た目の理由で“商品にならん”鮎を、どっさり分けてくれる。


そのせいで、うちの冷凍庫は夏の間、鮎でぎゅうぎゅうになる。


晩ごはん前の定番のやり取りといえば、だいたいこうだ。


「今日は何匹食べる?」


「ワシ三匹」「僕五匹!」「ほな僕四匹!」


だから、初めて錦市場で観光客向けの鮎の値段を見た時は、本気で腰を抜かしそうになった。


「え、鮎って……こんな高級品なん……?」


あの時の衝撃は、今思い出しても笑ってしまう。


前にその話をしたら、舞子は目を丸くして、


「鮎なんて超高級で、観光地で一本買ってみんなで食べるものだよ」


と言っていた。


「ようけあるさけ、持って帰ってもらお思てな。

そっちのお嬢ちゃんは滋賀の子?」


オカンが舞子に向かって聞く。


「いえ、大阪です」


「そうかいな。

ほしたらハルヒト、お嬢ちゃんにも滋賀の鮎いっぱい食べさしたってな」


ありがたい申し出だったが、さすがに今日は、

帰ってから駐車場で炭を熾して鮎を焼く元気はなかった。


「いや、肩のこともあるし、それはまた今度にするわ。ありがとう」


「そうかいな……お嬢ちゃん喜ぶか思てたんやけどなあ。

あ、そうや。お父さん! お父さん!」


奥の部屋に向かって声を張ると、新聞を読んでいた親父が顔を出した。


「なんや、また外したらしいな。おお、なんやエラい若い彼女連れて」


「彼女ちゃうし」


何度目か分からない訂正だったが、今日はいつもより少しだけ、口にする時の居心地が悪かった。

オカンが口を挟む。


「このお嬢ちゃんに滋賀の鮎食べさせたろ思てな。

せやけどハルヒトが肩外したから、今日は家で焼くん無理や言うねん」


「ほんなら、あそこやな。宝山さん連れてったったらどうや?」


親父がぽんと手を叩いた。


「私もそれ思てな。電話したろ思てあんた呼んだんや」


オカンが続ける。


「そうかそうか。ハルヒト、それくらいの時間はあるやろ?」


宝山というのは、町で土建会社をやってる社長さんがやっている料理屋で、

このあたりの人間にとっては、祝い事でも節句でも、


「ほな、とりあえず宝山で会席食べよか」


とまず名前が挙がるような、ちょっと特別な場所だ。


僕も子どもの頃から何度も連れて行ってもらった。


冬は鴨鍋、夏は鮎の塩焼き。

一年じゅう近江牛の陶板焼き。

季節の匂いをそのまま乗せたみたいな滋賀県の料理が、でんとテーブルに並ぶ。


「払いはこっちでしといたるさけ、食べといで」


親父があっさりそう言った。


学生の身分で自腹で行くには、正直かなり勇気のいる値段だ。

けれど、親が手配してくれるというのなら、乗らない手はない。


「いやそんな、申し訳ないですし……」


と舞子が慌てて遠慮する。


「ええからええから」


オカンと親父と、ついでに僕まで一緒になって言っていたら、

親父に、


「いや、お前は薦める側やのうて、一緒に恐縮する側やろ」


と笑われた。


それでも何とか、舞子も「それじゃあ、お言葉に甘えて」と、

ありがたく招待を受けてくれることになった。


──────────


「ほな、そういうことで頼みますわ。

支払いはこっちに回しといて下さい」


電話の向こうに手短に告げて、親父が受話器を置く。

こういう段取りだけは、本当に早い。


「あっちも空いとる言うてたわ。

鮎の塩焼きのコース用意してくれるから、

ここからやったら、まあ三十分もあれば着くな。行ってこい」


「ありがとう」


「ハルヒト、ちょっと待ち」


オカンが冷蔵庫を開けて、タッパーをひとつ取り出した。


「これ、今年の落ち鮎の飴炊き。

ようけ子ぉ入っとるで。

これやったら日持ちするさけ、持って帰り」


「うわ。ありがとう!」


想像しただけで、唾を飲み込む。


醤油と砂糖で甘辛く炊かれた鮎に、山椒の香りがふわっと乗る。

骨までやわらかく、ほろっと崩れる身。

ぎっしり卵の詰まった子持ち鮎となれば、もう反則だった。


「ほな、行っておいで」


「言うても肩不自由なんやさかい、運転気ぃ付けてな」


「分かってる。ほな、行ってきます」


「ありがとうございます。お邪魔しました」


玄関でそろって頭を下げると、オカンが最後に「無茶せえへんようにな」と手を振った。


僕らは実家をあとにして、宝山へ向かって車を走らせた。


アクセルを踏む右足と、そっとハンドルに添えた右手に、

さっきとは違う種類の緊張が走る。


「怪我の功名だね」


助手席でシートベルトを締め直しながら、舞子がぽつりと言った。


横目で見ると、いたずらを思いついた時みたいな顔で笑っている。


「せやな」


僕も笑い返した。


寄り道だらけの一日だったけれど──

悪くない寄り道だな、と思った。

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