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第45回 空席

五山の送り火は、京都の夏の終わりを告げる。

八月十六日の夜に、山の上に火を灯してご先祖さんの魂をあの世へ送り返す行事だ。


「大文字焼き」と呼ばれることもあるけれど、それを言うと京都の人はだいたい嫌な顔をする。

大文字、妙・法、舟形、左大文字、鳥居形。

合わせて五つ。

京都の人は“五山”とか“送り火”と呼ぶ。


どれも十五分ほどで消えてしまうけれど、その短さがかえって“祈りの行事なんだ”ということを思い出させる。

五山の送り火は、派手な花火大会ではない。

火を灯して、ご先祖を送るための静かな行事だ。


……と言われてはいる。

けれど実際には、鴨川沿いや嵐山あたりには出店も並ぶし、子どもの頃の記憶では、綿菓子や金魚すくいを普通に楽しんでいた覚えがある。


たぶん、誰もが“静かな行事”にかこつけて、ほんの少しだけ夏祭りを延長しているんだろう。


五山の送り火を見たこと自体は、子供の頃から毎年あった。

毎年、嵯峨のおばさんの家に行って、又従兄弟たちと灯籠流しを見て、渡月橋からすぐ北の山の鳥居形や、遠くにゆらぐ大文字の火を眺めた。

川面に滲みながら流れる灯籠のオレンジ色の光と、送り火の火。

子供心にもちょっと特別だった。


だから、京都に来て、出町柳に住み始めた一昨年の夏は、本当に楽しみにしていた。

如意ヶ岳がすぐそこにあるこの場所は、間近に大文字が見えて、北には松ヶ崎の「妙」の文字も浮かぶ。

少し角度を変えれば、セットになっている「法」の火もなんとか見えるかもしれない──そんな期待を込めて、十六日の夜を待った。

住民の特権で、夏の京都の風情を独り占めだ。


けれど、実際は想像していたのとはまるで違った。


昼間っから駅前は大混雑で、三角州にはシートを敷いて場所取りをする人間がひしめき合い、今出川通にはぞろぞろと浴衣姿のカップルやカメラマンが溢れかえっていた。

夜ともなればさらに人が増え、駅周辺の歩道はすれ違うことすらできないほどの混みよう。

川のせせらぎも虫の声もかき消されて、カメラのフラッシュと、あちこちから聞こえる甲高い笑い声、

それに「写ルンです」の巻き戻し音が、やたらと耳についた。

風情も何もあったもんじゃない。


極めつけは、僕のアパートの駐車場に勝手に入り込んで、

僕の車のボンネットに缶ビールを置いて、もたれかかりながら送り火を見ていたヤンキーカップル。


「おい、その汚いケツ、俺の車からどけてくれるか」


冷静にそう声をかけたら、男のほうがこっちをチラッと見て、


「いやいや、お前の車とか知らんし」


と言い放った。

女のほうは笑いながら


「みんな見てるやん、細かいこと言いなや」


とかふざけたことを言ってくる。


僕はため息をついて一歩前に出ると、もう一度はっきりと低い声で言った。


「どけ言うとんねん」


殴ってくるならそれでもいいと思った。

そっちが手を出せば、あとは簡単だ。

こっちは元ラグビー部、自転車にはねられても向こうが吹っ飛んで無傷だったことがある。

頑丈さには、ちょっと自信がある。

僕はそれ以上何も言わずに、じっと男の目を見据えた。


男は結局、何もせずに缶を手に取り、


「……ち、今度から気ぃつけえよ」


と捨て台詞を残して去っていった。

そのあと、女が小声で「ビビってたやん」と笑ってたのが、妙に耳に残った。

缶の水滴がボンネットに一筋の跡を残していた


◇    ◇    ◇    ◇


その夜の喧騒がやっと収まった頃、僕は考えていた。


来年から、送り火の日は出町柳にいるのはやめよう。

風情なんて、ここにはない。


子供の頃、嵯峨のおばさんの家に泊まりに行って、又従兄弟たちと出かけた渡月橋。

灯籠流しの川面と、虫の声と、鳥居形の火──

もちろん人は多いが、桂川を渡る風はすでに秋の気配をはらんでいて、

誰もが静かに、往く夏を見送っていた。


僕が送り火に求めていたものは、たぶん、あっちにしかない。


そんなわけで、去年の送り火は、その頃はまだ普通に彼女だったユリカと一緒に、北野白梅町から嵐電に乗って嵐山に出かけた。

まだ関係がうまくいっていた頃で、浴衣を着た彼女と渡月橋の上で並んで見た鳥居形の灯りは、意外としんみり心に残った。


ただ、いま思い出すと、そのしんみりした記憶の中にも、ユリカの強い存在感だけは妙にはっきり残っている。


今年は、舞子を連れて行ってやろうと思っていた。


白梅町のバイト先の従業員用駐車場に車を停めさせてもらって、そこから嵐電に乗るんだ。

何本かに一本ある、大正ロマン風の車両にうまくあたったら、舞子はきっと大喜びするだろう。

ガス灯を模したオレンジ色のランプは、きっと彼女の目にもきれいに映るはずだ。


そうだ、嵯峨のおばさんにお願いして、

又従姉妹の忍ちゃんが小六の頃に着ていた浴衣を、舞子におばさんが着付けてくれる──なんてどうだろう?

多分、舞子にはちょうどだろう。

……いやいや、それはさすがに厚かましいか。


などと、いろいろと考えていたのだが、

お盆前、舞子のおばあちゃんが倒れたという知らせが入った。


「ハルくん、ちょっと十日くらい実家に行ってくるよ。しばらくハルくんのご飯、食べられないのは残念だけど」


そう言って、舞子はいつものリュックを背負い、バスに乗って行ってしまった。

仕方ないけど、肩透かしを食らったような気分だ。


◇    ◇    ◇    ◇


いつの間にか僕の生活に入り込んですっかり日常の一部になっていた舞子がいないのは、本当につまらなかった。

嬉しそうに食べてくれるあの顔が見られない。

それだけで、料理をする気さえしなかった。


彼女が現れるまでは、ごく普通に自分の楽しみとして作っていたはずなのに。

僕はいつの間にか、誰かに食べさせるために台所に立つようになっていた。


舞子が実家に行ってしまった次の日の朝は、買い置きの食パンにマヨネーズを塗っただけのものをコーヒーで流し込み、昼は川向こうの王将で天津飯と焼きそばと餃子を食べ、夜は一人でキタバチまで車を走らせて、腕相撲ゲームで大関まで勝ち進んだあと横綱に負け、バッティングを七ゲームもやってマメを作ってそれを潰し、ジンジン痛む手で、天下一品のチャー定餃子ラーメン大盛りこってりニンニク抜き麺固めネギ多めを食べてから銭湯に行って、レンタルビデオ屋で「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」を借りて帰ってきた。


「鴨川デルタ散歩して帰ろうよ」


そんな舞子の声が聞こえた気がしたが、もちろん空耳だった。


その夜は、日付が変わってから、上映時間が三時間半もある重厚な映画を最後まで観てしまった。

おかげで翌日は、昼過ぎに電話のベルで起こされるまで、深い眠りの底に沈んだままだった。


「あ、ハル?今日の夜飲みに行かない?」


目覚ましの主はユリカだった。

特に断る理由もなかったので、僕は深く考えずに、夕方七時に三条のマサキのバイト先のブリティッシュパブで待ち合わせをした。

あそこならフィッシュ&チップスとミートパイで食事もできる。


僕は、夕方までコーヒーを飲みつつ、ずっと積んだままだった『ノルウェイの森』を読み進めた。

直子を訪ねて療養所へ向かうあたりまで読み終えると、ふっと気持ちが切れて、本を閉じた。


銭湯へ行き、髪と体を洗い、髭をそり、熱い湯にしっかり浸かる。

脱衣所の扇風機に当たりながら飲むコーヒー牛乳がやたらと染みた。


アパートに戻ると、出がけに入れっぱなしにしておいたクーラーのおかげで、部屋はひんやりしていた。

汗の引いた体にその冷気が気持ちいい。


Tシャツを脱ぎ、赤いシアサッカーのシャツとベージュのショーツに着替える。

靴をローファーに履き替えて外に出ると、街はまだ昼間の熱気をまとったままだった。


車で出かければ涼しいけれど、三条近辺は駐車場代がばかにならないし、車だと酒も飲めない。

かといって、この蒸し暑さで自転車をこぐ気力もない。


結局、加茂大橋まで歩き、河原町通を南へ行くバスに乗ることにした。

鴨川沿いを抜ける風が、少しだけ汗を乾かしてくれた。


◇    ◇    ◇    ◇


お馴染みの笛を吹く豚の看板を横目に店に入ると、ユリカはまだ来ていなかった。

マサキにシャンディガフを注文してコインをカウンターに置く。


「今日は一人か?」


「いや、あとでユリカが来る」


「あれ?去年別れたって聞いてたけど、もしかして琵琶湖と白浜から焼け木杭ってやつか?」


「そんなんちゃうよ」


そう言ってグラスの中身を一気に飲み干した。

こう暑い中を移動してくると、クーラーの効いた店の中でも喉が渇いている気分になる。


二杯目に頼んだキューバ・リブレが半分になった頃、ユリカが現れた。

ほんの一瞬だけ、店の空気が揺れた。

カウンターの男たちの視線が、彼女の入店に連鎖するように動いた。


柔らかそうな生成りのシャツ。

ボタンは二つ外れていて、襟元が自然に開いている。

着ている本人は気にしていない風だが、目を引かないわけがなかった。


下は、洗いざらしのような風合いの、膝上丈のタイトなデニムミニスカート。

足元はヒールではなく、白のキャンバススニーカー。

長い脚。

歩き方にはためらいがない。


僕の隣に立つと、「暑いね」と言って、前髪を指先で持ち上げた。

襟足に汗が光っている。その仕草さえも計算されたように、店の中の何人かの視線を引き寄せていた。

僕の理性も、軽く動揺した音がした。


◇    ◇    ◇    ◇


やってしまった。

またやってしまった。


翌朝八時、左腕の痺れで目を覚ました僕は、またもや僕の腕の中にユリカがいることに気付いた。

シーツからこぼれた肩が、やけに白く見えた。


部屋には散乱した二人の衣類。


確か昨夜は、マサキの店で飲んでたはずだ。

フィッシュ&チップスとミートパイを食べて、エールを飲んで、ダーツをやって、ああこの前舞子とやった時は頑固なドイツ人と喧嘩したなあなんて思い出して、ハイネケンを飲んで、チリコンカンを食べて、ラガヴーリンのロックを飲み始めたあたりから記憶が曖昧になっている。


確か三条大橋のあたりでタクシーをつかまえて二人で乗り込んで…

朝起きたらこれだ。


確かに、湿った肌の感触と、全身を包まれるような快感だけは覚えている。


どうして僕はこうなんだ。


というか、ユリカはどういうつもりなんだ。

白浜まで迎えにきた、あのメガネのプレリュードはどうしたんだ?


「おはよう。」


ユリカが目を覚ました。

そして、


「舞子ちゃん、昨日は帰ってこなかったんだね」


ユリカは、当たり前のように言った。

心臓が、胸の奥でひっくり返った。


いつから気づいていた?

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