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第31回 祭の残り火

「ねえ、今日の山鉾巡行って見に行かないの?」


朝ごはんに僕が作ったフレンチトーストをフォークで口に運びながら舞子が言った。


「あー、それはええかな。祇園祭は宵山が一番やで」


観光客でごった返すこの夏の京都で、二時間も前から場所取りをする苦行は、できることなら避けたい。


「テレビの方がちゃんと見えるで」


「そか。うん、そうだね。」


舞子も昨日の宵山で結構満足したのと疲れたのもあるのだろう、あっさりと引き下がった。


「でも昨日のあの人、なんかただモノじゃなかったねー」


「ああ、前からああやねん。」


「へー。」


◇    ◇    ◇    ◇


「そちらのお子さん、妹さん?」


あのよく通る甲高い声で、ユリカはいきなりカマしてきた。

初対面の相手には一見フレンドリーな言葉を使いながら、その実、牽制と自分の優位性をじわじわと押し出す──そういうところ、何も変わっていなかった。


舞子がいくら子供っぽいとはいえ、十六歳なのだから「お子さん」と呼ばれるほどではない。

ユリカも、もちろん分かっている。

分かったうえで言っているのだ。

妹なんかじゃないことも含めて。


僕の後ろに回った舞子の、繋いだ手にぎゅっと力が入った。


「こんばんは。はじめまして。」


ユリカの横にいたおとなしそうなメガネをかけた男が挨拶をしてくる。

こちらも挨拶を返すと、ユリカの方を向いて


「こちらは?」


と、機嫌を伺うような態度で尋ねた。


「この人?元カレ。元カレのハル」


全く何の悪びれもなくユリカは答える。

男は明らかに居心地悪そうに、でも礼儀正しく


「よろしくお願いします」


と頭を下げる。

こちらも釣られて頭を下げようとしたタイミングで、ユリカが割って入った。


「この人、今の彼氏。阪大の4回生なんだ。来年からは院に進むの」


誰もそんな事はきいていない。

しかし、所在なさげだった彼氏くんの鼻が少し膨らみ、丸まっていた背筋が少し伸びた。


「で、そちらのお嬢ちゃんは?ハルに妹なんかいなかったよね?まさか新しい彼女?」

「私がいなくなったからって、子供にターゲット移したとかないよねー?」


これでまるっきり悪気もなく、失礼なことを言っているという自覚もないのがユリカのすごいところだ。

ナチュラルに、常に自分が上にいるのだ。


「親戚の子。祇園祭観たいって言うから、伯父さんから案内頼まれたねん」


「ふーん、じゃ、滋賀の子なんだ」


僕の後ろを覗き込むようにユリカが舞子に話しかけた。


「は、はい。そうです」


舞子が消えそうな声で話を合わせる。


「お嬢ちゃん、いくつ?」


「今年十七歳になります」


「へー、見た目より大人なんだ。でも若いねー。」


舞子は香織の時と同じくカチカチに固まっている。その表情を見たユリカは満足そうに、


「まあ、ハルはなんやかんや役に立つから、いくらでも使ってやって。じゃあね!」


と言い放って、牧羊犬に追われる羊のような彼氏の腕を取り、高笑いとともに人混みに消えていった。

なんで僕の使用許可をユリカが出すんだ。


ユリカの姿が見えなくなると、舞子が「ふー」と大きな息を吐いた。


「元カノさん、綺麗だね」


「うん。性格はご覧の通りやけどね」


僕がそう言うと、舞子は笑い出した。

笑ってくれたことに、僕はホッとしていた。


同時に、少しだけ腹も立っていた。

ああいう言い方で舞子を見たユリカに。

そして、「親戚の子」という雑な嘘でしか舞子を守れなかった自分に。


◇    ◇    ◇    ◇


巡行が終わると、山鉾はあっという間に解体され、京都はいよいよ本格的な夏を迎える。

鴨川に出された納涼床は、涼を求めてビールと鱧を楽しむ人々で連日賑わい、その下の河原には、あいも変わらずカップルが等間隔に並ぶ。

街では早くも、五山の送り火や地蔵盆の準備が始まっている。


僕の冷蔵庫の冷凍室には、お好み焼きの隙間にいつもたくさんのアイスキャンディーが刺さっているようになった。

窓の軒先には、どこで手に入れたのか、ガラスの風鈴が揺れている。

そして、これまたいつの間にか舞子が置いた朝顔の鉢が、毎朝ちゃんと花を開いている。


舞子がお昼にバイトから帰ってくると、お昼はそうめんのことが多くなった。


「舞子、奈良の伯父さんからまた三輪そうめん送られてきたから、今日はそうめんでいい?」


「うん。そうめん、好きじゃなかったけどハルくんが作ってくれるそうめんは大好きになったから、毎日でもいいよ」


と言っても、別に特別なことはしていない。そうめんには、まず冷たい麺つゆが欠かせない。

僕はいつもどおり、つゆ作りからはじめる。


昆布をきれいに洗い、手鍋の水に十分ほど浸ける。

そのまま火にかけ、沸きそうになったら昆布を取り出し、そこへ——

「嘘やろ!?」って量の鰹節を一気に投入する。


一分したら網で濾して別の手鍋へ。

そこへ醤油・酒・みりんを加える。


醤油は、三輪そうめんを送ってくれる奈良の伯父さんが手配してくれる、御所市の老舗の醤油蔵のやつ。

酒は料理酒では味が決まらないから、好きな人に怒られそうだけど純米“玉の光”。親父が勤めている滋賀の酒類卸から、毎年送ってきてくれる。

みりんは三河の九重味淋。高島屋の地下で見つけて以来、切らしたことがない。


味を見ながら、濃いめ・甘めに煮詰めたら、氷を入れた大きなボウルに重ねたボウルへ注ぎ、キンと冷やす。


つゆを冷やしている間に、そうめんを茹でる。

といっても、すぐ火が通るからタイミングが難しい。

一服して気持ちを整えてから、できるだけ大きな鍋にたっぷりの湯を沸かす。


茹で時間?袋の表示なんか無視だ。僕は一分で上げる。

ザルにあけ、流水でもみ洗いしてぬめりを落とし、そのままザルごと氷水へ。


そうめんと麺つゆがキンキンに冷えるのを待つ間に、薬味を刻む。

ネギ、大葉、みょうが。生姜はすりおろす。


最後に、ガラスの器とガラスのそば猪口を出し、薬味を添えれば——

準備完了。


「「いただきます!」」


美味い。大きな器から自分のそば猪口に移す手が止まらない。

二人で五束も茹でたのに、あっという間にそうめんはなくなっていく。


「「ごちそうさま!」」


「お腹冷えた~!でも、最高に美味しかった…」


と、舞子がお腹をさすってごろんと畳に転がった。はあ、夏はやはりこれだ。


「ねえ、腹ごなしに鴨川デルタまでお散歩行かない?」


舞子が言う。


「いや、ごめん。真っ昼間は無理やで。行くんやったら、夜行こう」


「あー、確かに。じゃ、そうしよう。銭湯行って、帰りにアイス買って鴨川デルタ!」


「じゃあ、今日は、それまで昼寝!」


そう言って僕は横になった。

舞子も押し入れの巣に潜り込む。


カーテンの隙間から差し込む夏の光、遠くに聞こえる蝉の声、静かに響くクーラーの唸り。

時々冷蔵庫のサーモスタットが作動する音が聞こえる。


◇    ◇    ◇    ◇


「ジリリリリリリリリリリ!」


1時間も眠っただろうか、僕はけたたましい電話の音で目を覚ました。


「あー、中田くん?」


電話の声は、店長だった。


「はい…」


完全に寝ぼけ声で答える。


「はい、はい、え?あ、はい、大丈夫です。はい。」


電話は、今夜急に葛野店の深夜シフトに穴が空いてしまったから、急遽ヘルプで入ってくれないかというものだった。

特に用事もないし、深夜シフトは夜十時からだから、舞子と一緒に銭湯も散歩も全然問題ない。


結局舞子は夕方までずっと寝ていた。

僕はコーヒーを淹れて読みかけの小説を読んで、さて、そろそろ晩ごはん何にするか考えなくちゃな、と思ったところで舞子が起きてきた。


「あ、舞子、今日の夜な、急にヘルプで深夜シフト入ることになった」


「え?そうなの?じゃ、銭湯と鴨川デルタなし?」


「いや大丈夫。夜10時からやから」


「良かった。」


「で、晩ごはん何食べたい?」


「なんか、やっすい味の中華食べたい。餃子とか、天津飯とか」


「ほな、デルタ渡った向こうの王将やな。道順的には…銭湯行って、デルタ散歩して、餃子食べよ」


「いいねー」


そんなわけで、まずはいつものビートルズ湯から、鴨川デルタへ。


夏の夕方の鴨川デルタの風はどこか優しく、昼間の焦げつくような暑さを忘れさせてくれる。

空はまだ明るい。

けれど陽射しはすっかり丸くなり、水面には薄橙の光が揺れていた。


出町橋の下をくぐる風は、川の水といっしょにどこか遠くの山の匂いを運んでくる。

橋を渡る子どもたちの声が、水に跳ね返って少し遅れて届く。

葦のあいだからは時おりコオロギのような虫の音がして、まだまだ気の早い秋の気配がふと胸をくすぐる。


芝生には、まだ帰りたくないとでも言うように、カップルや学生たちがぽつぽつと腰を下ろし、

それぞれの時間を思い思いに過ごしている。誰もがどこか穏やかで、物静かだ。


橋の上を通る車の音が、日常の遠い響きのように感じられて、

ここだけは、まるで時間の進み方が違っているかのようだった。


ふと振り返ると、風鈴のような笑い声がして、

浴衣姿の少女がひとり、石の上でバランスをとっていた。


その小さな足元を流れていく鴨川は、静かで、ひたすらに優しかった。


「さ、そろそろお腹も空いたし、行こか」


僕はそう声をかけて立ち上がった。

餃子の王将・出町店は、出町橋から西へ歩けばすぐだ。


入った瞬間、脂でヌルっとした床、

「リャンガーコーテル! ソーハンイー!」と飛び交う怒号、

赤いカウンター。


——うん。これぞ王将。


僕の定番は高校の頃から変わらない。

天津飯、焼きそば、餃子。これだけあれば十分だ。


一方の舞子は、メニューを前に唸っていた。


「う〜ん、どれにしよう…」


この店は、王将本部も把握していなさそうな“出町店オリジナル”がやたら多い。

ライスは大中小すべて同じ値段で、定食に百五十円足すだけで焼き飯に変わったり、唐揚げセットになったり、餃子が追加されたりする。

学生のための店、ここに極まれりだ。


極めつけは、壁に貼られた手書きメニューの数々。


「アントニオ猪木」

「長州力」

「熱闘甲子園」


……何が出てくるのか誰にも分からない。

舞子が迷うのも無理はない。


「えっと……じゃあ、餃子とラーメンのセットで!」


結局、最も無難なところに落ち着いた。

王将のシンプルなラーメン。

いかにも“昔ながらの中華そば”って味で、悪くない。


「天津飯、ちょっとだけちょうだい?餃子と交換で」


「ええよー」


あ、このあとバイトだった。餃子いっぱい食べた。

…まあ歯磨きしたらええか。


なんて考えながら一気に食べ終わる。


レジで


「「ごちそうさまでした!」」


大きな声で言うと、その十倍くらいの音量で


「「「「ありがとうございました!」」」」


と返ってきた声を後にして店を出た。

ちゃんとお金は払ったから皿洗いはしなかった。


◇    ◇    ◇    ◇


デルタ自動車教習所の近くにある葛野店は、僕のホームの北野白梅町店に比べるととても小さな店だ。

ちなみにデルタ自動車教習所は鴨川デルタとは何の関係もない。

いつもワイワイと学生で賑やかな白梅町の店と違って客の回転ものんびりしている。

そのおかげで、厨房内のレイアウトも店内の動線も当然ぜんぜん違うのだが、ゆっくりと対応できた。


深夜二時を回ると、もう客は一テーブルだけになっていた。

僕は店の外にタバコを吸いに出た。

ここにはスタッフ用の更衣室兼休憩ルームなんてものもない。

深夜の京都、西のハズレは静かだった。


「あれ?ハルじゃない?何でここに?ていうか何サボってんの?」


聞き慣れた甲高い声がした。

女友達と一緒のユリカだった。

そういえば、ユリカは外大だった。

学校近くのワンルームに住んでいたんだった。


「なんか偶然が続くねー。これは運命?」


ユリカが笑う。


「何言うてんの?この前の阪大の彼氏は?」


「えー、あれはあれじゃない。別にいいじゃん、ハルとの連続の再会に運命感じても」


「とりあえず、中にどうぞ。いらっしゃいませ」


席に座って名物のダッチコーヒーを注文すると、2人は何やらコソコソと話しだした。

時々こちらを見てはニヤニヤして、時々「キャー!」という嬌声が聞こえる。


一緒に入っていた葛野店のスタッフが、怪訝な顔で見ている。


「中田さん、知り合いですか?」


「まあ、ちょっと」


「キレイな人ですね」


「まあ、ちょっと」


ユリカと友達は一時間ほどおしゃべりをしてレジに立った。

ユリカが小さくあくびをしながらお金を払う。


「じゃあね、ハル。“またね!”」


そう言って、思わせぶりなウィンクを残して店を出ていった。


またね?


その言い方だけが、妙に耳に残った。


◇    ◇    ◇    ◇


そして、その「またね」が突然やってきたのは、その週の金曜日。

舞子が、バイト先の仲の良いお姉さんの家に泊まってくるね、と言っていた日の夜のことだった。


「ハル~!開けて~!いるんでしょ~!?」


よく通る甲高い声がドアの外から聞こえた。


「こんな夜中に大声出さんとって。迷惑やから!」


そう言ってドアを開けた僕に、ユリカが抱きついてきた。

お酒の匂いがした。


「せっかく来てあげたのに、冷たいなぁ」


「ユリカ、ちょっと待て。こんな時間に、いきなり――」


言い終える前に、唇を塞がれた。


「今日はここに泊まって行くからね~!」


冗談みたいな口調なのに、腕の力は強かった。

押し返そうとした手が、一瞬だけ止まる。


お酒の匂いに混じって、懐かしい匂いがした。


それが、いちばんまずかった。


畳の上に、ユリカの髪がこぼれた。

僕の部屋の匂いの中に、昔の夜が混ざっていく。


その瞬間、なぜか、舞子の「行ってきます」の声が頭をよぎった。

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