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第30回 祇園祭

京都の夏は、祇園囃子とともにやってくる。


7月に入ると、百貨店や商店街では祇園囃子のテープが流れはじめた。

八坂さんの神事が進む中、四条烏丸界隈では町ごとに鉾が立ち始め、二週目には山鉾町でお囃子の練習がはじまる。

鉦、笛、太鼓の「コンチキチン」が、路地の奥からもビルの谷間からも聞こえてくる。


今年の七月は晴れの日が多く、最高気温が三十度を超えることもしばしばだった。

特に鉾建てが始まった十日前後は、もう本当にうだるような暑さ。

京都に住んで三度目の夏。いいかげん慣れてもよさそうなものだが、この蒸し暑さだけはやはり苦手だ。

それでも——この熱気のなか、徐々に姿を現していく鉾のシルエットと、祇園囃子の音だけは、やはりなくてはならないものだと思ってしまう。


その風景と音のためだけに、特に急ぎの用事もないのに、無理やり大丸か高島屋で「買い物のついで」をこしらえて、

暑さのなか、自転車で四条まで走ることもある。


◇    ◇    ◇    ◇


「ね。祇園祭は行くでしょ?」


テレビのニュースで祇園祭特集を観ていた舞子が、アイスキャンディを頬張りながら言った。


「葵祭はさ、なんかうっかりしててテレビでしか観られなかったでしょ?だからさ。」


◇    ◇    ◇    ◇


葵祭の日は朝から降るのか降らないのかどっちつかずの天気で、僕たちは部屋にこもって、午後までオセロをやっていた。


「お腹すいたな。ペペロンチーノでも作るわ。ちょっと待ってて」


そう言って僕は台所に立った。


鍋にたっぷりの水を入れ、岩塩を入れて火を付ける。

海水よりちょっと薄いくらいがいい。

沸いたら、麺を入れる。


ニンニクは人数分+1個。

皮を剥いて刻んだりしない。

おしりの硬い部分だけ切り落として、包丁の腹を乗せて体重をかけてぐっと潰すと、皮も自然に取れる。


唐辛子は2本。

ヘタを取り、真ん中でパキッと割って中の種を捨てる。


フライパンにオリーブオイルをたっぷりと注ぎ、火を点けてにんにくを入れる。

炒めるのではなく、ジクジクと煮るように。

唐辛子はあまり早く入れると焦げてえぐ味になるので、時間差で入れて、これもジクジクと煮る。


麺が茹で上がる1分程前、まず茹でていたお湯をお玉に2杯、フライパンに注いで揺すって混ぜ、

中心に髪の毛1本ほどの硬い部分を残した麺をフライパンに投入。

絶対に炒めてはいけない。


混ぜてソースを吸わせながら味見。

塩分が足りなければ茹で汁を足して煮詰めて調整する。


いい塩梅になったら皿に盛り、ブラックペッパーを挽いてふりかける。


「はい、舞子、できたよ。」


とテーブルに皿をおいた時、突然舞子が


「ああ~!そうだよ!忘れてた!しまった~!」


と叫んだ。

何事かと視線の先をたどると、テレビの中で、斎王代の乗った牛車を白装束の行列が曳いていて——


「そうだよー!絶対に行こうと思ってたのに!雨なんか降るから!」


「あ、葵祭か。そう言えば忘れてたけど今日やったな。」


「すぐそこ通るんだよね!?」


「そやな。河原町通から下鴨神社入って、また加茂街道から上賀茂神社やからな。ま、とりあえずスパゲッティ食べよう」


大人しくペペロンチーノは食べてくれたものの、その後も「しまったー」「なんでー」と舞子が大騒ぎして、なだめるのに一苦労だった。

そういえば、彼女が僕の部屋に転がり込んできた時、最初に言っていたのも「京都の祭に行ってみたい」だったっけ。


◇    ◇    ◇    ◇


「祇園祭はぜったいに忘れないで行くからね!」


「ええけど、ものすごい人やで。あと、とんでもなく暑い」


「それがいいんじゃない!『京都の夏!』って感じでさ」


「そうか。ええよ。行こか」


「やったー!」


「でも、浴衣着るとか言い出さんとってな? 間違いなく暑さと人混みで地獄みるから」


「そもそも持ってないもん……」


なら仕方ない。まあ、良かった。


◇    ◇    ◇    ◇


行くと決めたはいいが、僕の前期試験が終わった十四日の午後から、それまでの天気が嘘のように崩れた。

宵宵宵山はまるでバケツをひっくり返したような大雨、翌日も大雨で、宵々山も絶望的だった。


舞子は、膝立ちになって窓枠に腕を乗せ、手の甲に顎をのせたまま、雨粒がゆっくりと窓ガラスをすべるのを、ただ黙って見つめていた。


その後ろ姿はどこか猫のようで、時折、長い尻尾がゆらゆらと揺れているような錯覚さえ覚える。

濡れたアスファルトの匂いと、遠くの雷鳴。それらを押し包むように、ラジオから音楽が流れた。


「ちょっと前の曲ですが、こんな気分ですね」


そう言って、DJが選んだのはチューリップの「虹とスニーカーの頃」。


「明日の宵山も雨やったら、今年は無理かなあ」


祭りのクライマックスは17日の山鉾巡行なのだが、真っ昼間に観光客だらけの中で行われる巡行には全く興味をそそられない。

祇園祭のクライマックスは、宵山だ。


ところが十六日、宵山の朝。

舞子の願いが通じたのか、雨は嘘のように上がった。

気温もどんどん上がり、お昼すぎには30℃を越えてしまった。


いつものようにお昼すぎに朝のホテルモーニングのバイトから帰ってきた舞子は、


「あっついね~!自転車こいで帰ってきたら汗だくだよ!」


と言いながら、とても嬉しそうだ。


「ね。何時頃から行くの?バス?自転車?いつもの川端通り?」


まるで遠足前の小学生だ。


「夕方六時から四条通が歩行者天国になるから、それ目指していこか。」


「わーい!」


五時半過ぎ、二人で自転車で出発する。

橋の右手に見える鴨川デルタは、祭りの喧騒なんかまるで無関係だという顔をして静かに夏の夕暮れの空気に包まれ始めている。

今日は烏丸通を下る。

いつもみたいに鴨川沿いで四条通なんかに出た日には、身動きも取れないし自転車を置く場所すらない。


「虹とスニーカーの頃」のサビを、二人でうろ覚えにハミングしながら、僕たちは御池通までやってきて自転車を停めた。


ここから四条通まではのんびり歩いて十分ほど。

ちょうど歩行者天国が始まる時間だが、まだかまだかと車道の解禁を待ちわびている観光客で溢れかえる河原町から四条通りあたりに比べたら、このあたりはまだ人波も大したことはない。


「あね、さん、ろっかく…」


舞子は横の通りの信号に来る度に通りの名前が書かれた看板を覗き込んではつぶやいている。

「たこ」を越えたあたりから、人混みの向こうに『コンチキチン』のお囃子が聞こえてきた。


「わ!」


と走り出そうとする舞子の手を掴んだ。


「走っちゃいけません。この先はすごい人混みだから、はぐれないように僕と手を繋いで歩きます」


「は~い!センセイ!」


左手で舞子の右手をつなぎ、四条烏丸まで行くと、人混みの熱気で明らかに気温と湿度が上がった。

まずは左へ。


「ほら舞子、これが長刀鉾なぎなたぼこ。祇園祭のメインの鉾や」


「鉾?」


「“鉾”っていうのは、上にでっかい槍とか刀みたいなんが立ってて、車輪で曳いて巡行するやつ。長刀鉾とか月鉾とか、テレビでよう映る大きいやつやな」


「ふーん。よくテレビで見るやつ?」


「そうそう。屋根があって二階建てみたいになってて、囃子方が乗って『コンチキチン』やるのもこのタイプ」


「この長刀鉾がメインっていうのは?」


「うん。明日の巡行で、多くの山鉾は『くじ取り式』で順番を決めるんやけど、長刀鉾は『くじ取らず』って言うて、毎年先頭って決まってるねん」


「へー。いま出てきた"山"っていうのは?鉾とは違うの?」


「うん。“山”は、鉾より小さいものが多い。松の木とか人形が乗ってて、担ぐ山もあれば、曳いて動かす山もある。鉾より、物語とか人形の見せ場が強い感じかな」


「なるほど。って、長刀鉾、でか!」


「せやろ?」


長刀鉾の横にたくさん下げられた提灯には火が入り、オレンジ色の光に彩られて、鉾の上の飾りや人影がちらちらと見える。


「わ!すごい、上に人がいる!」


「あれもな、長刀鉾だけは今も生身のお稚児さんが乗るねん。他の鉾はお稚児さんの人形やけど」


「ハルくん、めちゃめちゃ詳しいねー」


「以上、全部、嵯峨の畳屋のおばさんの受け売り。小さい頃から毎年聞かされてきたからな」


「あ!ちまきだって!買ってくるね!」


「あ、おい!」


止める暇もなく、舞子は僕の手を振り切って会所に走っていってしまった。


「はい!ハルくんの分も買ってきたよ!」


舞子は両手でちまきを握ってパッと差し出した。

僕の分???同じ部屋に住んでるんだから部屋のドアは一つしかないぞ?押し入れの中にでも飾るのか?

そう考えていると、舞子はこよりをほどいて笹の葉をはずそうとし始めた。


「わー!!!!待って待って!何してるん!?」


思わず大きい声が出た。

舞子はきょとんとしている。


「へ?葉っぱ取らないと食べられないじゃん」


「食べる?食べる?…あ…ブハハハハハハ!!!」


舞子の意図が分かって、僕は腹を抱えて笑ってしまった。


「も、もしかして……中に……餅とか……入ってると思って……」


笑いすぎて言葉にならない。


「え?何?何言ってるかわからないよ?」


「ちょ、ちょっと待って……」


何とか息を整える。


「舞子、もしかしてそれ、中にあんこの入ったお餅とか入ってると思ってる?」


「うん。ちまきでしょ?…え?違うの?」


「違う違う!祇園祭の粽は厄除けの飾りで、中は藁やねん」


「え~!!!ちまきっていうから食べ物しか思ってなかったよ!」


「うん。お餅も中華おこわも入ってへん。これは“厄除けちまき”って言って、玄関に飾って一年守ってもらうやつやねん」


話が聞こえていたのだろう。会所のお手伝いをしている子どもたちがこちらをみてニコニコしている。


「うそ!わ!恥ずかしい!」


「わはは。まあ、知らんかってもしゃあないわな。ていうか舞子、おなかすいてるん?」


「うん。だからちまきのお餅食べようかと…」


「オッケー。ほな、こっちやな。」


そう言って僕はまた舞子の手を握り、室町通を北に上がった。

メインストリートの四条通から、細い路地のような通りに入ると、色んな屋台が出ている。


たこ焼き、イカ焼き、焼きとうもろこし、りんご飴、焼きそば。

ソースの焦げる匂いと、甘い飴の匂いと、炭の煙。

そんな、「いかにも祭りでござい」という食べ物が並んでいるのだ。


「ね?いっぱい買っていい?」


舞子は大はしゃぎで、次々に屋台の食べ物を買っては食べはじめた。

時々僕の口にもそれを運んでくれる。

のはいいのだが、焼き立てのたこ焼きを一個丸ごと放り込まれた時は、口の中が大パニックになった。

上顎がベロベロだ。


「りんご飴ってさ、買うまではすっごいワクワクするんやけど、食べ始めると飴の部分で飽きてしもて、りんごが出てくる頃にはもうええわってならへん?」


「分かる分かる!私小さい頃にさんざんねだって、事の重大さを訴えて大騒ぎしてやっと買ってもらって、でもやっぱりりんごが出てくる前にもういいやってなって、お母さんにメチャクチャ怒られたことあるよ!」


そんな話をしながら、すれ違う人たちにソースや醤油を付けてしまわないように気をつけて路地を歩く。


「ね!見て見てあれ!カマキリ!」


舞子はそう言って蟷螂山の前に走って行き、両手を上げてポーズを取った。

のはいいが、なぜか片足まで上がっていて、まるでジャッキー・チェンの映画に出てくるカンフーの使い手みたいになっている。


「舞子~!舞子~!」


僕は大笑いしてまた言葉にならない。

舞子も自分のポーズの面白さに気づいて大笑いしながらこちらに駆け寄ってきた。


人混みを、繋いだ手を小学生みたいにブンブン振りながら歩いた。

コンチキチンの音、提灯の光、夏の夜の熱気、人混みの喧騒。

屋台の食べ物でお腹はいっぱいで、舞子もご機嫌だった。


たぶん、このまま帰れば、最高の祭りの夜だった。




──と、その時。


「あれ?ハルじゃない!?」


前からやってきた浴衣姿のカップルの女が声をかけてきた。


「わ…きれいな人…」


舞子はそう小さく呟いて、僕の後ろに隠れるように下がった。


スラリと細く、浴衣姿でも分かるほどスタイルが良かった。

小さな頭、切れ長の目、細い顎。


「祇園祭来てたんだ?そちらのお子さん、妹さん?」



ユリカだった。



遠くで、笛の音がした。

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