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第23回 ヨルノオトモダチ

「ハルヒトぉ~今から店来られへんかぁ?三条の方の店」


マサキから情けない声で電話がかかって来たのは、ゴールデンウィーク初日、天皇誕生日の夜のことだった。

マサキは週末は三条にあるパブでアルバイトをしている。


ギネスビールにペールエール、アイラモルト、フィッシュ&チップス、テーブルサッカー、ダーツ。

いわゆるブリティッシュパブというやつで、店にはいつも外国人が多く、英語と日本語がごちゃごちゃに飛び交っていた。

僕もその空気感が好きで、以前はよく通ったものだ。


その場に居合わせたアメリカ人と次の一杯を巡って賭けダーツをしたり、オーストラリア人にミートパイの偉大さを延々と説かれたり、英語でナンパされて困っている女の子に助け舟を出して、結局自分がナンパしたり。

週末の夜は、だいたいそういう場所にいた。


舞子が来るまでは。


「おお、どうしたん、マサキ?」


その日、祝日で休みだった僕と、ホテルのモーニングバイトを終えた舞子は、午後から自転車で北山通へ出かけた。

2匹の大きなアイリッシュセッターが看板犬の、光の差し込む中庭とウッディな店内の緑が有名なカフェでハーブティとケーキを楽しみ、

そのあと、コンクリート打ちっぱなしで知られる巨匠のビルを見て回り、BEAMSでウィンドウショッピングをしながらゆっくり過ごした。


夕方、舞子がお好み焼きを作ると言い出し、一度部屋に戻って着替えを取ってから買い物へ。

商店街で豚肉とキャベツと長芋を買い、ついでに錢湯に寄ってビートルズを聴きながら湯に浸かった。

戻ってきた頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。


豚肉を冷蔵庫にしまい、錢湯で脱いだ衣類とタオルをランドリーボックスに放り込む。

さてキャベツでも洗おうか――そう思った瞬間、件の電話が鳴った。


「いや、どうしたもこうしたもないで。ハルヒト来てくれな仕事にならん!」


「だからどうしたん?」


「香織が酔っ払って『なんで最近ハルヒトきぃひんの?』って大騒ぎして、俺がずっと捕まって絡まれとんねん」


「え?香織?」


「そうや!お前のヨルノオトモダチの香織!頼むわ、お前顔出して何とかしてくれ」


「え、まあええけど」


そう言ってちらりと舞子を見た。

舞子は「お好み焼き~♪」と鼻歌を歌いながらいそいそと山芋のおがくずを洗っている。

今から僕とお好み焼きを食べるのを楽しみにしている舞子を置いていくのは忍びない。


「えーっとな、今親戚の子が遊びに来てて、まだ十六歳で未成年なんやけど、連れてってええかな?もちろん酒は飲ませへんし、長居もさせへん」


「ああ、ニシタツが言うとったあの子…あ!はーい!すぐ作ります!」


マサキは忙しそうだ。

マサキはタツヤのことを、フルネームの西村達也を略してニシタツと呼ぶ。


ていうかタツヤのバカ、まさか舞子のことをバラしたのか?

俺に任せとけというあの言葉は何だったのか。


「あ、すまんすまん、あの、この前ニシタツとまんぼ食べに行ったって言う親戚の子やな?小学生のイメージやったのに大きくなっててびっくりした言うてたわ。ええで。店長に上手いこと言うとくから連れてきて。っていうかはよ来て!」


疑ってすまなかったタツヤ。

ちゃんと話を合わせてくれてるじゃないか。

もうバカなんて言わないよタツヤ。


「わかった!できるだけ早く行くわ!」


そう言うと僕は舞子に


「ごめん!」


と謝り、お好み焼きは明日必ず一緒に食べるから、今から出かけることになったと説明した。


「別にいいけど…どこ行くの?」


「できるだけ大人っぽいカッコして。タキシードサムとかじゃなくて」


「えー?急にそんな事言われても持ってないよ、大人っぽい服なんて。んー」


舞子は少し考えて、


「あ!ハルくんのダンガリーシャツ?ていうの?あのジーンズっぽいシャツ貸して。あと太めのベルトと。」


そう言ってトレーナーを脱ぎかけて、


「あ!着替えます!後ろ向いて!」


と言って、僕がうしろ手で渡したダンガリーシャツを受け取った。

少しは成長したようだ。


ゴソゴソと着替える音がする。

やがて


「いいよ!」


と言われて振り返ると、舞子は僕のダンガリーシャツをダボッと着てウエストをベルトで締めていた。

短パンはシャツの下に隠れて見えない。

膝上丈の黒いハイソックスを合わせると、まるでミニのワンピースを着ているみたいに見えた。

舞子はさらに、ポニーテールをほどいてブラシで髪をとき、ピンクの色付きリップを薄く塗った。


いつもの子どもっぽさは残っている。

それでも、少なくとも中学生には見えなかった。


「これでいい?」


そう言う舞子のいつもと違う姿に少し戸惑いながら


「OK!行こう!」


と自転車にまたがり、三条に向かって川端通りを疾走した。


◇    ◇    ◇    ◇


レンガ造りの壁の前に、笛を吹く豚のイラストの看板。

パブは店の外にも人が溢れ、店内の喧騒が通りからも分かる。


舞子を連れて中に入る。

少しだけ懐かしい店内は、相変わらず混沌とした熱気に溢れていた。

大音量のディスコビート、キャッシュオンのカウンターの列、テーブルサッカーを取り囲む歓声、飛び交う英語、あちこちで繰り返されるチアーズの声。


「わ!すごい!ここ日本だよね!?」


周りの喧騒に負けないように舞子が僕の耳元で叫ぶ。


「そうやで!パブってやつや!」


僕も大きな声で返事をする。

と、カウンターの向こうから、救援ヘリを待つ遭難者のような表情でマサキが手を振った。


「おーい!ハルヒト!こっち!」


その横には久しぶりに見たシルエット。


「あ~!!!!やっと来た!!!久しぶりやん、ハルヒトぉ!!!」


香織が叫んだ。

その声で、昔の記憶が一気に戻ってきた。


◇    ◇    ◇    ◇


香織と知り合ったのは、一人暮らしを始めてすぐの頃だ。

花見小路の雑居ビルの前を通りかかったとき、路上の看板が目に入り、ふらっと入った小さなジャズバーがきっかけだった。


店は驚くほど狭く、40代後半と思しき長身のマスターがいた。

古い映画なら主人公の敵役として登場しそうな、どこかスカした男前で、酔うと「今日も売上より飲んでしもた」と嘆くのが口癖。

サックスを吹くジャズマンでもあり、ソロになると片足を高く上げて吹く癖があって、その姿から常連には「フラミンゴ」と呼ばれていた。


そのアングラでサブカルめいた空気が僕には妙にしっくりきて、いつしかちょこちょこ通うようになっていた。


その店で、よく顔を合わせたのが香織だった。


取り立てて美人というわけではない。派手に目立つタイプでもない。

でも、どこか影があって、妙に目を離せない女だった。


何をしている人なのか、店の常連たちもほとんど知らなかった。

小さなライブハウスでボサノバを歌っていたとか、祇園のラウンジにいるとか、売れないバレエダンサーだとか、マスターの愛人だとか。

噂だけが、煙草の煙みたいに店の中を漂っていた。


年齢さえも、よく分からなかった。


何度か顔を会わえた僕を、何故か香織は気に入ったようで、よくお酒を奢ってくれたものだ。


ある夜、いつものようにガタガタいうエレベーターを降り、薄暗い通路を通って一番奥にあるその店のドアを開けると…



そこは修羅場だった。


グラスと灰皿が宙を舞い、ボトルは割れ、カウンターチェアは倒れ、香織がマスターの髪を持って引きずり回していた。

他の常連はとうの昔に避難済みで、マスターの「違う!」「落ち着け!」「そんなことない!」という虚しい声だけが響いていた。


僕は店の入口でただ呆然と見守ることしかできなかった。


と、香織が


「もうええわ!くたばれジジイ!」


と叫んでドアの方に進み、そこにいた僕の腕を掴んで


「行くで!ハルヒト!」


と言って無理やり僕を引きずっていった。


「待って待って!どこ行くのん!?」


と抵抗する僕に


「うるさい!ええから着いてき!」


聞く耳を持たずに、香織は八坂さんの方へどんどん歩いていった。

僕は腕を掴まれたまま、円山公園の近くまで連れていかれた。


その夜のことを、細かく説明する気はない。

ただ、それ以来、僕と香織は、ときどき夜にだけ会う関係になってしまった。


付き合っているわけでもないし、彼女の住んでいる場所も連絡先すら知らない。

それなのに――ユリカと付き合っていた時も、薫子と付き合っていた時も、ふとした拍子にその関係は途切れず続いていた。


最低だったと思う。

ただ、当時の僕は、その最低さから目をそらすのがうまかった。


マサキの店、チャイナエキスプレス、マハラジャ、VOXビルのカフェバー…。

京都の夜のどこかで偶然顔を合わせると、なし崩し的にまた元の関係に戻ってしまう。

自分でも情けなく思うほど、だらしない状態が長く続いていた。


たまにバイト先にもやってきては僕の上がる時間までひとりでバージニア・スリムを何本も吸いながら待っていて、

そんな日はタツヤやマサキやヒロくんたちに


「お、ハルヒト、今日はお楽しみやな!」


と品のない声をかけられたりした。

彼らは、香織の事を「ハルヒトのヨルノオトモダチ』と呼んでいたが、それは言い得て妙だった


一緒にテニスをして楽しい友達がいる。

一緒に食事をして楽しい友達がいる。

一緒に映画を観て楽しい友達がいる。

一緒にドライブをして楽しい友達がいる。


僕にとって香織は、そのどれでもなかった。

ただ、夜だけ妙に近くなる友達だった。


タツヤたちが彼女を「ヨルノオトモダチ」と呼んだのは、品はないけれど、たぶん正しかった。


そんな香織が、今、カウンターの向こうで僕の名前を呼んでいる。

そして僕の隣には、ダンガリーシャツをワンピースみたいに着た舞子がいる。


この二つが同じ場所に並ぶことを、僕はまったく想定していなかった。

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