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第17回 鴨川デルタ桜月夜

「ね、朝ご飯食べたら鴨川デルタにお散歩行かない?桜すごいよー」


僕が朝ご飯を作ろうと、手鍋にバターを溶かして、小麦粉をふるって混ぜていると舞子が言った。

今日は舞子の朝バイトは休み。僕も、昨日履修届を出してしまったから週明けまで特にやることもない。

ゼミは、ミニコミ誌の入稿のドタバタがひと段落した頃、希望していた「メディア論」ゼミに配属が決まったという掲示が、教務課の掲示板に出ていた。

そこには、「通知は個別に行わないので、掲示にて各自確認のこと」という、味も素っ気もない一文が添えられていた。


「ええな。のんびり歩いて行こう」


鍋の中に、ダマにならないように少しずつ牛乳を注ぎながら、かたまりを潰すようにしっかりと混ぜる。

とろみがつき始めたあたりで火を止め、塩と胡椒で軽く味を調える。

たっぷりとバターを塗った食パンの上に、熱々のできたてソースを塗り、ハムと、とろけるスライスチーズを乗せる。

去年発売されたばかりのお気に入りのチーズだ。


「やったー!天気もいいし、暖かいし、絶対気持ちいいよ」


パンをオーブントースターに入れて、チーズに焦げ目が付くまで焼き、仕上げに粗挽き黒こしょうをふる。

オーブントースターの扉を開けると、バターとチーズが焦げた香ばしい匂いが、ぱあっと部屋中に広がった。


「はい、お待たせ。どうぞ」


「わーい!いただきます!」


「チーズ熱いから気をつけて」


舞子はいつものように、そんなに冷まさなくてもいいのに、というくらい勢いよくふーふーして一口かじる。

伸びたチーズを口の端にちょっと付けながら、舞子の目がまんまるになって、次の瞬間、ぱっと花が咲いたように笑った。


「なにこれ!?うっまっ……なんでこんなに美味しいの!?ハルくん天才!?」


「ありがと。フランスの定番の朝食らしいけど、ちょっと手抜きアレンジ」


舞子はほっぺたを真ん丸にしながらはふはふ忙しい。


「はい、飲み物ここ置くね」


「あんはと」


何言ってるのかわからない。


僕も、パンを焼いている間に淹れたコーヒーを自分のマグカップに注いだ。

舞子はコーヒーが飲めないので、ミルクティーだ。

リプトンのティーバッグをマグカップに二つ入れ、じっくり出してから、温めた牛乳を注ぐ。

手軽だけれど、ちゃんと作れば、ちゃんと美味しい。


舞子の、ものを食べているときの様子は、いつも僕を幸せにさせる。


「ごちそうさま!美味しかったー!いつもありがとう!」


「あ、食器そのまま水だけかけてシンクに置いといて。後で洗うから、散歩に行こう」


彼女は「はーい!」と返事して、マグカップを両手で抱えて立ち上がる。

トレーナーの袖口をくいっと引っ張って、台所に向かう後ろ姿は、いつものデニムの短パン姿なこともあって、相変わらず子供みたいだ。


玄関の扉を開けると、外の空気はほんの少しひんやりしていて、でもすぐに太陽の光に包まれた。

まだ朝の9時過ぎ。春の空気は優しく、光を受けたアスファルトがうっすらと白く輝いて見える。


舞子は鴨川へ向かう道すがら、首をのばすようにしてあちこちを見回しながら歩く。

道の端の猫除けネットの上で丸まっているキジトラの猫を見つけると、パッと笑顔になった。


「あっ、ゴローちゃん、おはよう~」


「……え?」


舞子はその猫の前でしゃがみこみ、小さく手を振る。

すぐ先のブロック塀の上にも、お腹の白い茶トラ猫が寝転がっている。


「あ、シロさんもいた。おはよう」


僕は少しだけ歩みを緩めて、舞子の様子を見る。

ゴローちゃんにシロさん。初耳だ。

僕の知らないところで、舞子はもう、この道に何人か知り合いを作っていたらしい。

それが人ではなく猫だというところが、いかにも舞子だった。


「──いこっか」


猫たちにバイバイと手を振って、舞子はまた僕の隣に並んで歩き出した。

春の陽射しが彼女の髪に透けて、毛先のほうだけが少し、淡い色に見えた。

そのまま黙って歩いていると、風が吹き抜け、二人の間に桜の花びらがひとひら舞い降りて、足元に落ちた。


鴨川デルタは、もうすぐだ。


河合橋を渡ると、視界が一気にひらけた。


両岸の桜が満開だ。

枝先までびっしりと咲き誇った花が、川面に映えて揺れている。

広がる青空を背景に、うっすらと透けるような薄紅色の雲が、左右から川沿いにずっと北へと続いていた。


すでに多くの人が、河原にレジャーシートを広げて腰を下ろし、のんびりと桜を眺めている。

家族連れ、学生、カップル。

思い思いに過ごす姿の中に、春の穏やかな空気がゆるやかに流れていた。


川の中に並んだ浅瀬では、小さな子どもたちが声をあげてはしゃぎ回っている。

足を滑らせないようにバランスを取りながら、それでも思い切り跳ねて、何度も行ったり来たりしている。

その様子を見て、舞子がふふっと笑った。


「すごいでしょ」


「……ああ、すごい」


僕は思わず見惚れていた。

視界の端から端まで、どこを切り取っても春だった。


「──ずっとね、来てたの。私」


舞子がぽつりと呟いた。


「ハルくんが大学とかバイト行ってる日。ここに来てたんだ」


僕は少し驚いて彼女を見た。


「ここで、ずっと座ってた。ひなたぼっこしながら」


彼女の視線の先にあるのは、川の右岸にある、芝生の緩やかな土手だった。

人のいない時間帯には、そこに腰を下ろして、ひとりで桜を見ていたのだろう。


「つぼみの時から、ずっと」


舞子は言った。


「毎日、ちょっとずつ咲いてくの。おととい、七分咲きくらいで、昨日はほとんど咲いてて。で、今日……たぶん、満開になるって思った」


僕は返す言葉が見つからず、ただ桜を見上げた。

風が吹き、枝先の花がふわりと揺れる。

その瞬間、何枚かの花びらが空に舞い、ゆるやかに弧を描いて、僕らの足元へと落ちた。


「だから、今日、ハルくんに見せたかったの」


舞子が僕の方を見上げ、微笑んだ。

その笑顔の中には、たしかに毎日の積み重ねがあった。


僕はうなずきながら、隣に並んで桜を見上げた。

ふたりの影が、ゆらゆらと春の光のなかで並んでいた。


◇    ◇    ◇    ◇


「あ、そう言えばさ」


舞子がこちらを見上げて言う。


「祇園から清水寺に歩いてたら、桜きれいなの?」


「どうしたん、突然?まあ、桜の季節ではあるけど」


「ハルくんの本棚にあった大学の授業の本に、与謝野晶子の作品で書いてたんだよ」


──ああ、近現代文学の講義の資料用に買わされた教授の著書だ。


「清水へ、祇園をよぎる、桜月夜。こよひ逢ふ人、みなうつくしき」


もう何回も読みすぎて覚えてしまった一節を、僕は口ずさんだ。


「“桜月夜”って、なんか、ことばだけで春って感じするよね」


「晶子の短歌って、風景がそのまま感情になる感じやな。……たしか、教授が授業で言ってた。

この歌は“地理の順序”っていうより、“情景の連なり”なんやって」


「……なんか、行ってみたいな、その円山公園の枝垂れ桜。多分ライトアップとかしてるのかな?それでね」


「でも」


と僕は舞子の話を遮った。


「……でも、今の季節の円山公園なんか、晶子が歩いた頃の風情とはほど遠いで」


「え?」


「夜はブルーシートの海や。場所取りの札が並んで、どこもかしこも酒盛りや。

大騒ぎで、風情もクソもない。

八坂神社の石段で寝てる酔っ払いもいるし」


「……でも、昼間なら静かなんでしょ?」


「まあ、人は多いけど、夜よりはだいぶマシやな。枝垂れ桜のとこは、写真撮る人も多いし、ちゃんと見られるとは思うけど」


舞子はしばらく黙って川べりの桜を眺めていた。


「でも、やっぱり、ライトアップが見てみたいな。月夜じゃないけど……夜の桜、なんか見てみたい」


彼女はそう言って、その小さな背中を少し丸くした。

その背中を見ながら、僕は「やれやれ」と心の中でつぶやいた──が、それはたぶん、ちょっとだけ嬉しいため息でもあった。


◇    ◇    ◇    ◇


「うっわ!何ここ?ひっど!」


舞子が周りの酔客に聞こえないように、僕の耳元に口を寄せて言う。

結局、夕方に銭湯に行ったあとでやっぱり行きたいと言う舞子と、いつものように川端通りを自転車で下って円山公園までやってきたのだ。


「な?言ったとおりやろ?」


「誰も桜なんか見てないじゃん!」


「うん。みんな酒のんで騒ぎたいだけやな」


目的の枝垂れ桜の周りも、肩を組んで「パラダイス銀河」を大声で歌っている大学生グループに占領されていて、近づくこともできない。


「行こか、舞子」


「……うん」


がやがやと響く酔っ払いの合唱と、焼き鳥の煙のなかをすり抜けて、公園をあとにする。

自転車はまだ八坂神社の前に停めてある。僕たちは歩いて四条通に出た。


「このまま帰る?」と僕が聞くと、舞子は黙って首を横に振った。


「……なんかさ、せっかく夜のお花見ってちょっと楽しみにしてたのに、幻滅しちゃったな」


「しゃあないよ。これがリアルってやつや」


「ハルくんの言った通り、晶子が見た“桜月夜”とは、ぜんぜん違うんだね……」


そう呟いた舞子の横顔に、街灯が淡く陰を落とす。

僕は黙って、その手を引いて自転車の方へと歩き出した。


「……もう、ほんと、なんなのあれ。お花見っていうより、酔っ払いの巣窟じゃん」


舞子はハンドルを握りながら、ぶつぶつと怒っていた。

僕は後ろからその小さな背中を見守りつつ、すれ違う車に気をつけながらペダルを漕ぐ。


「いや、だから言うたやん。この季節の円山公園の夜は地獄やって」


「……言ってたけどさ。思った以上だった。枝垂れ桜、見たかったなあ……。パラダイス銀河って……なに?」


「……まあ、少年隊よりはマシかもな」


「いや、“仮面舞踏会”は好きだよ、私」


口ではそう言うものの、明らかにしょんぼりしていた。

四条大橋を渡り、木屋町を上がる。


「はい、着いた」


「え?どこ?」


「あのラーメン屋。等間隔カップル作戦のときの」


店の前に漂うとんこつスープの香りに、舞子の鼻がぴくんと動いた。

沈んでいた顔がぱっと明るくなる。


◇    ◇    ◇    ◇


「──んもう、やっぱここ、美味しい……!」


カウンターに並んで座り、舞子はとんこつラーメンを一口すすってうっとりしていた。

にんにくも紅しょうがもちょっとだけ入れて、替え玉をどうしようか真剣に悩んでいる。


「ラーメン屋って、うるさいとか落ち着かないって思ってたけど、ここのは落ち着くし、なんか安心する」


「たしかに、ここの空気は独特やからなあ」


舞子はちょこんと頷いて、またラーメンに向き直った。


「夜の円山公園より、ここの方がよっぽど“夜桜っぽい”」


「どういう意味や」


「わかんないけど……こう、安心できるって意味かな」


舞子は照れくさそうに笑って、また麺をすすった。


◇    ◇    ◇    ◇


「元気出た?」


「うん。出た」


短く答えて、水を飲むと、彼女は箸をそっと置いた。

2人で手を合わせて「ごちそうさまでした」をする。


ラーメン屋を出て、2人は並んで川端通りを北に向かってペダルをこいだ。

空気は冷たいが、冬のような刺す寒さはなく、むしろ頬を撫でる夜風が心地よい。

小さな春の気配が、遠くから、そっと近づいてくるような感触。


賀茂大橋のたもとまで来たとき、舞子がぽつりと言った。

「ねえ……もう一回、鴨川デルタ降りてみない?」


僕は頷き、河合橋を渡って、ふたりで自転車を押しながら、なだらかなスロープを下った。


夜の鴨川デルタには、昼間の喧噪も、さっきの円山公園の騒ぎもなかった。

桜は静かに、川面を照らす街の灯りを浴びて、どこか幻想的な光をまとっていた。

ライトアップされていないぶん、かえってその姿は柔らかく、優しかった。


若いカップルが何組か、言葉もなく肩を寄せて座っている。

犬を連れた老夫婦が、ゆっくりと歩いている。

あとは、ただ夜の静けさと、水の音と、花びらの舞う気配。

酔っ払いも、光GENJIもいない。


川の音、桜の香り、遠くの自転車のベル。


「……こっちの方が、ずっといいね」

舞子が、そうつぶやいた。


僕はベンチの背にもたれながら、空を見上げた。

雲の切れ間に、ぼんやりとした月がのぞいていた。


しばらく沈黙が流れたあと、僕はそっと口を開いた。


「なあ、日曜日、バイト休み?」


「ん?」


舞子がこちらを見た。


「ちょっと出かけへんかと思って」


「うん。日曜日は休みだよ」


「じゃあ決まりやな」


「どこ行くの?」


「それは……内緒」


「えーっ、またそれ? 教えてくれてもいいじゃん」


「当日のお楽しみや」


「……ふふっ。わかった。楽しみにしとく」


彼女の笑顔が、川面の光よりも柔らかく、春の夜にふさわしい明るさだった。

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