5. 悪意
彼が学園に通い始めて一年経ち、クラリスは彼の執務の代行にも一人で外向きの公務に赴くのにも慣れた。
ローレンスは学園生活に慣れたのか、執務や公務の負担が減ったお陰か、表情に生気が溢れるようになった。一人孤独に王宮で奮闘するクラリスに気づいていないのか、彼は饒舌に自分の充実した学生生活を語る。
以前のように、教育や公務の愚痴や不満を二人で零すこともないし、母である王妃の代わりをさせることへの謝罪もないし、執務について相談することもない。クラリスが執務や公務を肩代わりすることへの謝罪や感謝の言葉も日に日に減っていった。
「ああ、まただわ……」
少し席を外した隙に積まれた書類を見てため息をつく。
直接頼まれたわけではない。王妃付きの女官はクラリスの執務室に勝手に出入りして書類を置いていく。なめられているのか本来、傍仕えの者がする雑事も含まれている。
神殿への慰問や地方への視察の合間に、王太子の執務をこなしていて手一杯なのに、段々と王妃の仕事の比重が増えていた。書類仕事はもちろん、成人していないが成長し子供らしさが抜けたことで、王妃の出席するパーティーや外交の行事で通訳や段取りを囁くために侍らされた。その度にクラリスは賓客のリストを確認し、必要となる言語の復習をしたり、事前準備に時間を取られていた。
それだけでは足りないとばかりに、王妃関連の仕事が押し付けられてくる。
まだ王太子妃ではないクラリスに人は付けられていないし、権限もない。わずかな次期王太子妃としての執務と外回りの公務しかしていないことになっているからだ。クラリスが王妃のフォローをしていることを一部の人間は知っていたが、周知はされていない。クラリスの負荷は上がり、それと共に王妃の評判は年々上がっていた。
どんどん仕事は増えていくのに、それは表向きは王子や王妃がしたことになっていて、自分は評価されない。悔しさと不満が溢れて来て、クラリスは席を立った。
週に一度のマリー先生とのサボりの時間だけでは、解消できないほど鬱屈とした気持ちが溜まっている。必要な資料を取りに行くついでに、遠回りして庭園を散歩をすることにした。
外廊下から庭園の石畳へと足を踏み出すと、目に入ってくる太陽の光がまぶしい。クラリスの殺伐とした世界とは正反対の世界がそこにはあった。
王宮の中庭に春の花が咲き乱れて、それに誘われた蝶がひらひらと舞っている。春のあたたかさに誘われたのか多くの着飾った貴族令嬢や夫人が友人やお付きの者と気ままに散策している。王族用の庭園にすればよかったと思いながら、気配を消して足早に通り過ぎる。
庭園から外廊下へ足を踏み入れた瞬間に声を掛けられた。
「あらぁ、クラリス様じゃないですか!」
振り向くと、同い年くらいの令嬢が立っていた。ドレスの鮮やかなオレンジ色が目に染みる。どこかの茶会にでも出かけるのか、髪型もメイクもアクセサリーも全てが完璧に整っていた。
「お目にかかるのは初めてですわね。わたくしガーランド公爵家のシンディーと申します。一度クラリス様とお話してみたかったんですの! わたくし、ローレンス殿下とクラリス様と同い年なんですよ。」
シンディーと名乗る令嬢は、クラリスに口を挟む隙を与えずにしゃべり続ける。
「先週は港が開港した五十周年記念の行事にご参加いただきありがとうございました!」
珍しくローレンスと二人で参加した行事だ。名高い公爵家の節目の行事はさすがに欠席が許されなかったのだろう。
「ああ……いえ。こちらこそ、お祝いの席に列席させていただき光栄です」
「久々にローレンス殿下がうちの領地にいらっしゃって、父ったら、はしゃいでいたんですよ! ほらぁ、橋の架け替えの視察とか最近はクラリス様しかいらっしゃらないから。ガーランド公爵家も舐められたもんだなって父もぼやいてました。いえ、別にクラリス様に不満があるわけじゃないんですよ? ただ、やっぱり王族とただの婚約者じゃ格が違うでしょう?」
シンディーは異様に声が高く身振り手振りも大げさで周りの目が集まって来る。公務のお礼かと思いきや、話の雲行きが怪しくなってきているし、正直な所、早く撤退したかったが話の切り所がわからず曖昧な笑みを浮かべる。
「ローレンス殿下とクラリス様の婚約が結ばれた時ね、正直言って驚いたんです! なぜ、私じゃないのかしら?って思ったの。悔しかったわ。同じ公爵家なのにって。まぁ、魔力量の問題なら、致し方ないですわね。………それ以外なら、わたくし負けていないのに」
身を寄せてきて、そこだけは小声で告げる。彼女の着けている薔薇の香水の香りに気分が悪くなる。顔立ちもドレスも装飾も話し方も派手で匂いも濃い。
「でもね、今はあなたのこと、ぜーんぜん羨ましくないわ」
広げた扇で隠しても、あざ笑うように目の端がにぃぃと下がっていて感情が筒抜けだ。
「学園でね、ローレンス殿下と同じクラスで机を並べて学んで、生徒会で一緒に仕事をしているの。生徒会ではね、仕事だけではなくて一緒にお茶したりするのよ。
ああ、今日はさぼっているわけではなくて、試験明けの休暇なの。仕事熱心なローレンス殿下は登校して学園の生徒会室に籠っているかもしれないけど」
優雅に扇で扇ぎだしたので、彼女の化粧と香水の香りがクラリスの方へ流れてきてむせる。
「ああ、誤解しないでちょうだい! 大丈夫よ! ローレンス殿下は陛下と違って恋愛に現をぬかしてなんていないわ。未来の立派な王太子サマはわたくしのような魅力的な女子生徒がいようとも、特別扱いなんかしないわよ! ただ一緒に勉強をしたり、仕事をしたり、楽しくお茶をしたりするだけ」
そこで言葉を切ると、再び身を寄せてくる。
「だって、ここだけの話、ローレンス様って美しいけど面白みはないでしょう? 鑑賞するだけで十分」
さすがの物言いに、目つきが鋭くなる。
「やだー。クラリス様、冗談ですって。そんな怖い顔で睨まないで。狙ってるわけじゃないんだから、これぐらいの不敬許してくださいな」
「お話がそれだけなら、失礼します。急ぎますので」
「やだー。こんなことで怒らないで、クラリス様」
逃がさない、とばかりにクラリスの腕に腕を絡めてくる。
「わたくし、クラリス様のことぜーんぜん羨ましくないの。だって、次期王太子妃っていう肩書だけじゃない? 父が王宮で働いてるから、知ってるのよ。あなたが王宮を走り回って仕事をしていること。ガーランド公爵家だけじゃなくて各地を回っているんでしょう? 一人で。王宮に縛りつけられて、公務にかけずりまわって、地味な格好して学園にも通えない。
王都のカフェや劇場を知らないんでしょう? 茶会や華やかなパーティーに出ることもなく魔石に魔力供給だけして、魔道具の恩恵も受けられないなんて哀れね。友達もいないし、出かけることもできない」
クラリスは文官に混じり仕事をしているので、できるだけ華美な装いは避けていた。第一王子の婚約者として恥ずかしくない程度には整えているが、地味なのは事実だった。そして彼女の話している内容は全て正しい。
「わたくしは知ってるわよ。王妃様の傀儡なんでしょ? そんな扱いをされてもローレンス殿下に見捨てられないように必死なんでしょう? ねぇ、この白い髪は苦労したせいでこうなってるの? ふふっ、あなたってまるで生贄みたいね」
最後に言いたいことをまくし立てると、カーテシーもせずに彼女は去って行った。
頭が真っ白になった。暴力をふるわれたわけじゃない。なのに、殴られたような衝撃を受けて、しばらくその場を動けなかった。彼女の高笑いが頭から消えてくれない。濃厚な薔薇の香りと耳から直接毒を注がれたような言葉たちが体に充満している。
「そう資料、フォーブズ地方の河川について調べないと……」
こういう時にどうすればいいかなんて習ったことはなかった。王太子妃教育を叩きこまれているから、こんな時でも変わらぬ笑みを浮かべていることだけが救いか。とにかく仕事のことを考えて、頭を一杯にすれば、この胸の痛みもモヤモヤも消えるはず。
その時、見慣れた姿が目に入った。
「お父様!」
数年ぶりに見る父に思わず駆け寄ってしまったのは、なにかに縋りたい気持ちになっていたからかもしれない。
「足音を立てて走るな。人前で父と呼ぶな。王宮でなにを学んでいるんだ」
「申し訳ありません……ランチェスター公爵」
「次期王太子妃が簡単に頭を下げるな。そんな事態にならないよう、いついかなるときも品格を保て」
それだけを言うと足早に去って行った。
手が細かく震えているが、なんでもない顔をして歩き出す。これまでクラリスの世界はローレンスと侍女や騎士、講師などの無関心な大人達だけだった。人の悪意にさらされることに、クラリスは慣れていない。無性にローレンスの甘い声が聞きたくなった。
やけに遠く感じた資料室にやっとたどり着くと、珍しく人がいるようで会話する声が聞こえてくる。そっと扉を開けると聞き覚えのある声がして足を止めた。
「はー、ほんと、いい迷惑だよなぁ」
「次期王太子妃なのに、なんで学園に通ってないで仕事の真似事なんてしてるんだ?」
「さぁ、人付き合いが苦手って噂だけど?」
「そんなんで王太子妃になれるんだ」
「魔力量と家名さえあればいいんじゃないか?」
「暇すぎて、仕事場に入り浸られても邪魔なだけだけどなー」
「なんのアピールか知らないけど、一々質問してきて面倒臭いよな」
「ほんと子供の世話をするこちらの身にもなってほしいよ。その分、給料が上がればいいけどさ。ただ働きだもんな~」
いつもにこやかに対応してくれる文官達だった。申し訳ないと思いながら、資料の場所や詳細を聞くための担当部署がわからないクラリスは、彼らに頼りきりだった。
廊下の壁にもたれかかりながら、静かに呼吸を整える。
執務机を別の個室に移してもらおう。幸いなことに基礎的なことは身についていて、彼らに質問しなくても一人でなんとか捌けるだろう。今日は別の仕事をしようと踵を返した。
その日の夕食で、クラリスは笑顔を作れなかった。
幼い頃はなんでもローレンスと分かち合ってきたけど、学園での話を楽しそうにする彼とはどこか隔たりを感じる。彼の話を聞き流して、淡々と食事を進める。
「クラリス? 大丈夫? 顔色が悪いけど、体調が悪いの?」
いつもと様子の違うクラリスに気づいたローレンスが労わるように頬に手を寄せる。その手を跳ね除けた。彼から漂う薔薇の香りに気分が悪くなる。
「なにかあったの? クラリス?」
それに怒ることもなく、こちらを案じてくる。ローレンスはいつもそう。無神経で鈍くて、優しくて。
「ガーランド公爵家のシンディー様」
「ん? クラリスは面識があったのか? クラスと生徒会で一緒だよ。なかなか元気なご令嬢だよね」
「薔薇の香水を着けていて……」
「私が贈ったわけではないよ。私のものは王宮で調合されたものだから、違う製品だと思うけど……」
「……」
別に彼女がローレンスの特別だと思ったわけじゃない。でも、学園で級友として楽しく一緒に過ごしている。それに彼女はローレンスよりクラリスの状況を正確に把握し、理解していた。そのことも含めて、胸の奥で黒い物が蠢く。
「クラリス。私の可愛いクラリス。私の特別はクラリスだけだよ。クラリスに私が使っているのと同じ薔薇の香水を贈ろう。そうしたら、いつでも一緒にいる気分になれるだろう?」
クラリスの目をまっすぐに見て、告げるローレンスには敵わない。
――ああ、それでも。こんな状況に置かれても。
彼が求めてくれる限りはきっと、全部「はい」と答えてしまう。それぐらいクラリスは愛情に飢えていた。クラリスを求めて肯定してくれるのは、彼しかいないから。ここしか自分の居場所はないから。
それに、結婚すればこの状況も良くなるはず。彼が学園を卒業すれば一緒にいられるようになるし、歪な執務の形も正常なものに戻るだろう。成人するまでの数年の我慢だ。
クラリスはそれ以上何も言えず、溢れそうになる汚い言葉を全て飲み込んだ。




