4. 魔法の言葉
「可愛いクラリス」
どんな魔法より魔道具より、クラリスにはその言葉が効いた。
◇◇
十二歳になり、貴族の通う学園に入学する年齢になった時、クラリスに通学の許可が下りなかった。王の判断ではなく、ローレンスの要望だった。
「私もローレンスと一緒に学園に通いたいわ」
「クラリスには必要ないだろう? 今更、学園で学ぶことなどなにもないよ」
確かに学園で学ぶことなど、とっくに修了している。でも、クラリスは息詰まる王宮以外の場所でローレンスと過ごしてみたかった。一時代前は婚姻年齢も早く、令嬢が進学することは少なかったが、現在はほとんどの貴族の子息令嬢が通っている。
「次期王太子妃として、社交することも必要でしょう?」
「この国では王妃が社交する必要はないよ。母上だって夜会も茶会も開いていないだろう? 王族は魔力を王都に捧げることで十分貢献しているし、必要最低限の各貴族の領地の視察や行事への参加はしている。それ以上の国内の貴族との交流は必要ない」
「……でも」
「本当のところは、可愛いクラリスを誰にも見せたくないんだ」
「承知いたしました」
切なげな瞳で言われると、それ以上食い下がることはできなかった。だから、クラリスは学園に通うのを諦めた。ローレンスは満足げな表情でクラリスを抱きしめてくれた。華やかで甘い薔薇の香りに包まれて、クラリスは自分の選択が正しいのだ、と思った。
◇◇
彼が学園に入学したお祝いの夕食を食べている時に、驚くようなお願いをされた。
「え? 王太子の執務を?」
ローレンスはまだ立太子していないが、王太子となってからするべき執務が回され始めていた。
「クラリス、日中は手が空いているだろう? 君にできる範囲でいいから、執務を進めておいてくれると助かるんだ……」
「え……? でも……」
彼が学園入学前に王太子教育、王太子妃教育をそれぞれ修了していた二人には少しずつ、執務が回されるようになった。
回される仕事は、ローレンスとクラリスで内容が異なり、クラリスの方は言語力が必要となる書類の翻訳であったり、必要な書状の清書などあまり重要ではないが手のかかる内容が多い。
対してローレンスは王太子になることを見越して、書類の決裁、嘆願書への回答など内政にかかわっていて下調べの多いものが中心だ。
一通りの教育を受けているが、実践となると訳が違う。分からないことだらけで、四苦八苦しながら自分の分を片付けている。
学園に通っていないとはいえ、彼の分まで慣れない執務を回せるだろうか?
「ああ、いや、いいんだ。これまで忙しかった分、クラリスはのんびりしていてくれて」
「あの……」
「ああ、クラリス。ただでさえ、朝と夜しか共に過ごせないのに、君と一緒にいられる時間がなくなるかもしれない……」
「ローレンス、違うの。お手伝いしたくないということではなくて、王族ではない私が触ってよい書類なのかという点が気になって……」
「それなら大丈夫だ。まだ立太子していない私に機密書類は回ってこないよ、請け負ってくれるかい?」
王太子教育を受けて人前では常に穏やかな笑顔を浮かべているローレンスはクラリスの前では素の表情を見せる。憂いた顔をしていたかと思ったら、どこか期待するような甘やかな顔でこちらを見ている。彼の手がクラリスの返事を催促するように、白い髪先をもてあそんでいる。
「承知いたしました」
「さすが、私の可愛いクラリス。助かるよ」
クラリスの回答に満足したように、頭をなでてくれる。学園入学を機に彼の一人称は僕から私に変化していた。彼が変化したのはそれだけじゃないようだ。心のどこかに違和感があったけど、頭をなでる彼の手の感触の心地よさに浸っているうちに、いつの間にか消えていった。
◇◇
騎士団の予算案、災害の事後処理案、各貴族家の税収の監査結果、各貴族からの嘆願書。ローレンスに回ってくる書類の内容は多岐に渡っていた。王の側近は優秀で、将来の王として内政を把握するために必要な書類が満遍なく振られてきた。
ただ書類を確認して印を押せばいいわけではない。内容が適正なのか精査し、必要であればこちらから提案したり回答しなければならない。
初めのうちはローレンスが書類を確認して指示されたことをするだけでよかった。根拠となる資料を探したり、数字を見比べたり計算したりといった雑用に近いものだった。
「クラリス、君も仕事に慣れてきたよね? 先に書類を確認して、下調べや下書きをしておいてくれないか? もちろん、ちゃんと最後に確認をするし、責任は全部、私が持つから」
彼がそんなことを言い出したのは、少し任された仕事に慣れてきた頃だった。
「え?」
「ああ、忙しかったらいいんだ。クラリスだって任されている仕事があるのだからね」
「……」
なんとなく即答したくなくて、口を噤む。彼がクラリスにお願い事をするのは夕食が終わり、彼の私室でソファに並んで座りお茶を飲む、一日のうちでもっともくつろいでいる時間だった。
「学園に通っていないクラリスにはわからないかもしれないけど、試験があったり、生徒会主催の行事があったりして、これから更に忙しくなるんだ。そうなると夕食は共にとれないかもしれない……。それがなにより辛い。お願いだ、クラリス。私が頼れるのはクラリスしかいないんだ」
隣に座る彼がクラリスの両手をすくう。成長して少年から青年へと移り変わる時期独特の危うい美しさを放つローレンスの顔が迫り、額と額がコツリと音を立てて合わさった。間近にある美しい顔と青い瞳から目が離せない。その目の下にある隈を見て、クラリスは心の内でため息をついた。
彼は別にサボろうとしているわけではない。本当に限界なのだ。真面目な彼は学園の試験も生徒会の仕事も王太子の執務もどれも手を抜けない。彼が頼れる人はクラリスしかいないのだ。
「承知いたしました」
「さすが、私の可愛いクラリス。助かるよ」
彼の形のいい唇が額に落ちて、クラリスは頰を赤く染めた。それだけで、どこかふわふわとした幸せな気持ちになるのだから安い女だ、と心のどこかで冷静な自分が言う。でも、これでいいの。ローレンスに抱きしめられて甘い薔薇の香りに包まれると、なにもかもがどうでもよくなった。
こうして、先にクラリスが書類を確認して分類し、下調べをして違和感のある個所を洗い出したり、書類を仕上げるのに必要な資料をそろえ、添え書きや回答を下書きするところまでがクラリスの仕事になっていた。ローレンスはそれを確認して、掘り下げたい部分はまた指示が飛んでくる。
確認と印を押すだけのローレンスの仕事は青の宮にある彼の自室の執務机で終わったが、クラリスはそうはいかない。自分に与えられた黒の宮の客間にある執務机を、王宮の文官達が働く場所の片隅に移動した。文官達に教えを請うて、根拠となる資料を資料室や書庫から探し出し、数字を突き合わせる日々。気付いたら、王太子の執務の大半をクラリスが代行することになっていた。
◇◇
傍から見ると、ローレンスは学園生活と執務を軽々とこなしているように見えた。振られた仕事を迅速に正確にこなす姿に、段々と課される書類の難度が上がり、クラリスに任される仕事も増えていく。そして、ローレンスのクラリスへの要求も跳ね上がっていった。
「え? 神殿の慰問に一人で?」
彼が学園に通い始めて半年経った時に、また彼のお願いを聞くことになった。
確かに今日は朝から顔色が悪く、半日かけて地方の神殿に行く馬車の中でも珍しく無言だった。王領にある比較的新しい神殿で斬新な取り組みがなされていて、今回はその視察だった。熱心に神官の話を聞き、併設されている救護院や孤児院を慰問する間は、いつものように次期王太子としてあるべき姿を見せていた。にこやかに神官たちの接待を受けて、帰りの馬車に乗ると座席に崩れるようにして座った。
そして言ったのだ。「これからは神殿の視察や慰問に一人で行ってくれないか?」と。カタカタと田舎道を走る車輪の音が響く。
ニナーハ国で、王侯貴族と神殿は持ちつ持たれつの関係だ。神殿には困窮している民を受け入れる救護院や事情があって親のいない子を預かる孤児院も併設されていて、民の生活に根付いているため無下にできない。しかも召喚した聖女様の後ろ盾は神殿と決められているので、余計に。
地方の神殿は基本的にその地域を統括する貴族が下支えしているが、王都や王領の神殿は王族が気にかけないといけない。それ以外の神殿でも大神官から慰問の要請があった場合、できる限り応えるようにしている。
「ごめん……。もう、限界なんだ……」
これまで教育を詰め込まれても根を上げなかったローレンスの疲労のたまった顔にクラリスはなにも言えなくなった。
「平日は学園と執務、週末は慰問や視察。もう限界なんだ。執務も難易度が上がっていて、週末が公務でつぶれてしまうと執務にも時間が取れないし、執務ができないとクラリスに回すことになってしまう……」
最近は慰問や視察の道中の馬車の中でも、生徒会や執務の書類に目を通している。学園に入学する前はその土地や道中で立ち寄り、ちょっとした買い物をしたりお茶をしたりしたこともあったが、そんな時間もなくなった。クラリスにも彼が限界なのはわかっている。
「ほとんどの神殿は一緒に行っているし、クラリスの顔も覚えただろうから無下にはされないだろう。これからは、クラリスが一人で行くことになるがよろしく頼むと各神殿に手紙は出すから」
「……」
どこの土地の神殿の神官も親切で手厚く歓迎してくれる。救護院や孤児院の慰問も嫌いではない。でも、一人で行くとなると心細い。
「お願いだ。私の可愛いクラリス。二人で共に立つ未来のために、がんばってもらえないか?」
彼ががんばっているのはクラリスだって知っている。でも、まさか二人で行っていた公務をクラリス一人に押し付けるなんて思ってもいなかった。言語化できないモヤモヤしたものが胸に貯まる。ローレンスは体調が優れないのか片手で顔を覆い、もう片方の手で縋るようにしてクラリスの手を握る。
「これ以上、クラリスの机仕事が増えるより慰問や視察で外に出た方が気分転換にもなると思うんだ。大神官と相談して好きなようにスケジュールを組めばいいから」
「……」
「お願いだ。私の可愛いクラリス。一緒に行くには週末を犠牲にしないといけない。せっかくクラリスと二人で過ごすなら、公務よりお茶をして過ごしたい……」
握りしめられた手の甲を彼の指がなぞっていく。クラリスは白旗を上げた。
「承知いたしました」
「さすが、私の可愛いクラリス。助かるよ。護衛の数は二人で行く時以上に増やすから、安心して行ってくるといい。それにちょっとなら寄り道してもいいから」
ローレンスが自分の顔を覆っていた手を下ろし、安心したような笑みを見せる。その笑顔を見てクラリスもほっとした。繋がれた手から伝わる体温が心地いい。
それから、各地の神殿の慰問はクラリス一人の仕事になった。もちろん寄り道などしている暇はない。
外向きの公務は神殿の慰問の他に、各地の災害地や問題のある土地の視察もある。各地の神殿の慰問をクラリスが問題なくこなせるとわかると、ローレンスは他の公務も一人で行くようお願いしてきた。
「……災害地の視察ですか?」
「クラリスしか頼れる人がいないんだ。無理にとは言わないが、一人で行ってもらえるとすごく助かる……」
「承知いたしました」
「ありがとう、クラリス」
そんな簡単なやりとりを経て、それもクラリス一人の仕事になった。
そして、当たり前のように視察の他にも各貴族の節目の行事や祝祭などの公務も一人で赴くことになった。移動の馬車で隣りには誰もいない。話す相手がいないクラリスは移動時間も仕事に没頭した。
◇◇
「お願いだ。クラリス。私が頼れるのはクラリスしかいないんだ」
学園生活は思いのほか大変なのか、彼からのお願いという名の要求はどんどんあがっていく。
「お願いだ。私の可愛いクラリス。二人で共に立つ未来のために、がんばってもらえないか?」
彼の一言で全てがクラリスの仕事になった。
時に甘く。時に疲労をにじませて。時に縋るように。彼に請われると否とは言えなかった。
「承知しました」
そう答えると与えられる抱擁やなでる手、戯れに落とされる額や頬への口づけは甘い。
「さすが、クラリス。助かるよ。これで二人の未来も明るいね」
彼の言葉がクラリスを支えていた。
――これを耐え抜けば、彼の隣に立てる。
学園に通い始めた彼は生徒会にも所属することになり日中は会えなくなったが、朝食と夕食は必ず一緒に取ってくれるし、週末の魔石への魔力供給は一緒に行っている。それに学園での浮いた噂を聞くこともなく、クラリスに向ける態度は変わらなかった。与えられる甘い言葉やぬくもりも。
だからクラリスは心のどこかで感じる不満や違和感には、蓋をすることにした。




