第37話
柔らかな夕日が差し込む部屋の中、メドハギの小さな体はベッドに寝かされていた。
メドハギはゆっくりと目を開けた。気を失う直前は手足が異様に冷たく感じたが、今はその逆で熱い。燃えるような熱が全身を巡り、身体に掛けられた毛布をはぎ取った。
頭を動かすと自分の上半身に包帯が巻きつけられているのが見えた。恐る恐る脇腹に触れるとズキズキ痛んだ。
痛むという事は生きている証。ここがどこなのか分からないが、メドハギはその事実に安心した。
「目が覚めたようじゃな」
と、そんなメドハギの横から、声がした。
リンゴとすりおろし器を手にした黒髪の女がベッド横の椅子に腰かけている。
「一時はどうなることかと思ったぞ、ワシの血を輸血したとはいえ、下の毛も生えていないような小さなナリで凄まじい回復じゃな、普通ならそのままあの世行きじゃろうて」
女は言いながらリンゴをすりおろし始める。
「ここはワシの家じゃ、死にかけた君を2日間もつきっきりで看病してやったんじゃ、感謝せい」
女が説明するが、メドハギの耳には全く入っていなかった。
なんで助けてくれたんだろう、とか、なんで耳が長いんだろう、という疑問はあったが、今はそれよりも目の前ですりおろされていくリンゴに心惹かれているのだ。
「本当はまともな医者に診せてやりたかったんじゃが、事情が事情なもんで、病院に連れていくことはできなかったんじゃ、まぁでも安心せい、信頼できる闇医者が処置したから大丈夫じゃ多分」
そう言うと女はリンゴの半分ほどをすりおろし、皿に移してメドハギの方へ差し出した。
「……」
差し向けられた皿をメドハギはじっと見た。見ていると唾液腺が刺激されて頬の内側が絞られるような感覚があった。
「どうした、食べんのか?」
「たべて、いいの……?」
「許可が無ければ食べることも許されんかったというわけか……全く、ヒトは度し難い」
「?」
「あぁ食べて良いぞ、ゆっくり食えよ? 空腹を通り過ぎてほとんど飢餓状態に近い、いきなり腹に入れては逆に危険……聞いておらんな……」
メドハギは女から皿をひったくるように奪い、皿ごと食べる勢いでペーストされたりんごを飲み込んでいく。甘味と酸味が口の中で爆発し、喉を通り過ぎていく果肉の粒の感覚が心地良かった。
ペーストはあっという間に無くなり、皿に付着した僅かな果汁も無駄にはできない、とメドハギは皿をベロベロ舐めた。
「スプーンくらい使え、人を人たらしめるのは理性だ、といってもしょうがないか……そんなことを教える大人はあそこにはいなかったようじゃし」
メドハギはベッドサイドテーブルに置かれた半分になったリンゴに手を伸ばし、貪り始めた。
皮も芯も種も無視して一心不乱に食べ進める様子を見た女が破顔した。
「はっはっは! 今なら石でもクソでも食えるといった勢いじゃの! どれ、何か食べられるものを探してこよう、今は冷蔵庫があるから食材が長持ちして便利じゃからな」
それから卵やソーセージ、チーズ、生野菜など運ばれたものを次々に胃に送り込んだ。味や生食の危険など今の空腹感に比べれば些細な問題だった。
獣の如く貪り続ける様は人間離れしていたが、女は眉を顰めることもなく、ただ笑って少年を見ていた。
「それ、のみたい」
メドハギは女が手に持つマグカップを指差した。
「これか? これはコーヒーといってな、とっても苦い飲み物なんじゃ、試してみるか?」
サーカスの大人たちが紅茶やワインをよく飲んでいるのを見たことはあったが、目の前の黒い飲み物は見たことが無かった。
女はマグカップをメドハギに手渡した。
一口舐めて、メドハギはあまりの苦さに顔をしかめる。
「みためどおり、まずい……」
「じゃあなんで飲みたがったんじゃ……」
「おねえさんがおいしそうにのんでたから……」
女はやれやれと言って、また笑った。
「少年、名前は?」
「メドハギ」
「メドハギ……雑草の一種か、また変わった名をつけられたのう」
食事を終えたメドハギは女に促されるまま再びベッドに横になった。
メドハギは改めて女の姿を見る。
背中までまっすぐ伸びた黒髪から尖った耳が突き出ている。それが一番の特徴で他にこれといって目立つものはない。黒のシャツに黒のズボンは女性の服装としては珍しいと言えば珍しいが、尖った耳に比べれば些細な特徴だ。
女はメドハギの視線に気づいた様子で、自身の耳の尖った部分に触れながら言う。
「珍しいかい?」
「うん、かっこいい」
「かっこいい……? はは、長いこと生きてきたがそんな風に言われたのは初めてじゃ」
「そうなの? ボクはおねえさんのみみ、すきだな」
「……ありがとう」
女は感謝の言葉を口にした。幸福とは言い切れない複雑な表情だったことをメドハギは今でも覚えている。
明るい黄色の瞳が僅かに揺れていた。琥珀にも似た神秘的な輝きにメドハギは心惹かれた。
「さ、もう寝るんじゃ」
「う、うん……でも」
メドハギは毛布を肩まで上げる女の手を掴む。
腹が満たされ、痛みも随分小さくなった。眠ろうと思えばいつでも眠れる。だが、目を覚ました時、目の前の女が消えているのではないか、という不安で胸がいっぱいだった。
「ぼくは、これからどうなるの……?」
「まずは傷の回復じゃ。十分に癒えたら……そうじゃな、街の孤児院にでも———」
琥珀色の宝石が夢の如く消えてしまうのがひどく恐ろしく思えた。
サーカスにいた時は自分の願望など言ったことはなかった。言っても無駄だと分かっていたし、生き延びることに精いっぱいで、それ以外のことに何の関心も無かった。
だが、ほんの数十分。この女と話しただけでメドハギはかつてない程の安心を感じていた。
サーカスの大人達とは違う、この人はきっと自分を道具みたいには扱わない、と。
7歳の少年はこの時、生まれて初めて他人に縋った。
「ぼくは、おねえさんといっしょがいい」
これは生存本能に近いものだった。世間を知らない子供が「この女なら信用できる」というように打算的な選択をできるわけがない。
群れからはぐれた犬が人間の庇護を求めるようなもの。この女に見捨てられたら生きていけない、という直感がメドハギを動かした。
「いやそれは」
「ぼくはヤクタタズの雑草だから、できることはすくないけど、そうじでもにもつもちでも、なんでもやるよ! だからおねがい……」
メドハギは絞り出すような声で言う。
「たすけて……」
子供、ましてや魔術すら使えない自分が提供できるものは少ない。必死だった。
女は数秒固まって、窓の外に目をやった。
つられてメドハギもそちらの方向を見る。
燃えるような夕焼け。黄色からオレンジ、そして茜色のグラデーションに染まったうろこ雲がどこまでも伸びていた。
女の瞳の色と同じだ、とメドハギが思ったその時、女は口を開いた。
「まぁ良いか。少年が成人するまでの時間なぞエルフのワシからしてみれば、投げたコインが地に落ちるまでの一瞬ほどじゃ」
女の言う意味が分からず、メドハギはポカンと口を開けた。
「一緒に暮らすか、メドハギとやら」
「う、うん……あ、えっと、はい! ほんとうに⁉ ほんとうにいっしょにいていいの⁉」
「あぁ約束する、君が目覚めた時、ワシは今と同じように君の傍におる。だから安心して眠りなさい」
興奮した身体が熱を持つ。温かく包み込まれるような感覚にメドハギは言いようのないむず痒さを覚えた。
そして、同時に涙が零れた。
呼吸が激しくなってしゃくりあげるのを止められなくなった。喉が狭まり鼻の奥がツーンとする感覚を抑え込もうとすればするほどに大粒の涙が溢れ、彼の黒目を濡らす。
泣くことすら許されなかった少年は慌てて言葉を繰り返す。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「何を謝る? 君は何も悪いことなどしていないじゃろ、気の済むまで胸を張って泣きなさい」
訳も分からず泣きじゃくるメドハギの頭に柔らかいものが乗る。頭を撫でられているのだと分かった時、メドハギは更に大きく泣いた。
「言っておくが、ワシはヒトの母親の様に甘やかしたりはせんぞ、雑草なら雑草らしく自分の咲く場所は自分で探すんじゃ、ワシはその手伝いをするだけじゃ」
メドハギにとって女は生まれて初めて出会った安心できる大人だった。
「まずは『人のシャツで鼻水を拭いてはいけない』ことを覚えてくれ……カトラリーの使い方はその次じゃな……」
×××
これがメドハギと黒髪エルフの出会い。
大げさでもなんでもなく、彼にとって運命の出会いであり、大恩だった。返したくとも返せない程大きなものを貰った。
今、彼の隣に彼女はいない。
彼女によく似た黒髪のエルフの少女と出会ったが、その少女さえも失いかけている。
絶対にレースで勝たせてやる、と約束した。
自ら決めた約束は絶対に守らなければならない。恩人が身をもって教えてくれたことを反故にするわけにはいかない。
彼女が自分にしてくれたようにはできないかもしれない。自分は彼女ほど長く生きていないし、人に何かを教えられるような立派な人間ではないことも自覚している。
それでも。
自分がそうしてもらったように、少女に『居場所』というものを作る手助けをしてあげたかった。
「雑草らしく、咲いてやるさ」




