第四幕『僕を変えてくれた人』
その日、僕はレポートの山を処理していた。
過去の僕は大学の講義に出席しておらず、このままでは単位を貰えない状況だったのだ。
それを各所に頭を下げてレポートを書けば目を瞑ってやると言われたのが今日までの流れだった。
(人混み、苦手だったもんなあ……)
そんなことを、思う。
学校に向かう満員のバス。それだけでも、かつての僕には苦痛だったのだろう。
(それでも、頑張ってもらわないとな)
そう思わざるを得ない。
デスクトップパソコンのキャラクターを見ると、順調にレベルが上がっている。
二度目の大学生活。かつての僕が順調に増やしていたのは単位ではなくゲーム内のキャラのレベルだった。
(頭抱えたい……)
事実、僕は頭を抱えていた。現実に立ち向かわずにゲーム内の敵に立ち向かっていたわけだ、僕は。
結果なんて、何も残りはしないのに。
その時、携帯電話が着信音を鳴らした。
midiのどこかチープな音源が部屋の中に広がる。
電話に出ると、忍だった。
「もしもし、今暇?」
「暇だけど」
「お、今日は明るい方の礼二君だね」
過去から遡ってきている時の僕は明るい礼二、そうではない僕は暗い礼二、そんな風に、彼女達の中で分類が出来ているらしい。
「ちょっと漫研来ない?」
「ちょっとって……もう夜だぜ」
時計を見ると、午後八時を指している。
「いいからさ。まだ門が閉まる時間じゃないし。漫研、他に人がいないし」
「電車乗ってバス乗らなきゃいけないんだけど」
「ふーん。私も部屋に連れ込む気?」
どこかおっとりした口調で、とんでもないことを言う。
「あれは迷の家を知らなかったから、止む無くだ。公園に放置しておくわけにもいかないだろう?」
「そーかもしれませんねー。さー、どうするかなあ」
「わかったよ、行くよ、行く」
そう言って、僕は電話を切った。
由美子の名前がスマートフォンから消えた時、何か大事な糸が切れてしまったような気がした。元々、頻繁に電話をしていたわけではない。それでも、坂本由美子は僕にとって大事な存在だった。
過去の僕は、変わりつつあるらしい。迷、友樹、忍といった友人ができたことで、前向きになりつつあるようだ。それは本来は、由美子の仕事だったのだ。
そう遠くない未来に、由美子との出会いがある。僕は、デスクトップパソコンに浮かび上がるゲームキャラのアバターをしばし眺めた。
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大学に着くと真夜中だった。空には半分の月が輝いている。
漫研からは、光が漏れていた。
「これ、どう思う?」
中に入ると、忍から分厚い原稿の束を渡された。
そろそろ暑くなってくる時期だというのに、彼女は長袖だ。
「下読みさせに呼んだのかよ」
僕は呆れながらも、空いている席に座る。
「君の感想を聞きたかったんだよ」
「俺の、ねえ……そんな腕がある方じゃないんだけどな」
「確かに、腕はない」
忍は、コーヒーを一口飲んでそう断言する。
「けど、尖ったものはあった」
「尖ってるだけでセンスはない。それが俺な」
文章を磨いていけば底辺なろう作家。イラストを磨いていけば底辺pixiv漫画家。ギターの腕を磨けば観客五人の路上ギタリスト。僕が実際に見てきた世界だ。
「ま、良いからさ。読んでみてよ」
忍の漫画を読み始める。意外なことに、少年漫画だった。
魔導の力が栄えた世界。大国に潰される小国。その中で生き抜こうとする一組の男女の物語。最後はヒロインが死んで終わるという衝撃的なエンドだった。
「どうだった?」
期待に満ちた瞳で忍が訊ねてくる。
「ヒロインが死んだのは吃驚したな」
正直に答える。
「そうでしょ」
忍は満足気に微笑む。
「けど死ぬ必要あったか? ハッピーエンドで終わらせて描いても良かったんじゃないか?」
「うーん。吃驚させたかったんだよ。全てのカタルシスをそこに集めたというか。伏線も結構張ったと思うんだけどな」
「まあそうなんだけどな……」
僕は、言い淀む。確かにヒロインの死に向かって物語は進んでいた。そこでバッドエンドを選ぶのも選択肢としては一つなのだろう。
「で、さ」
忍は、後ろ向きの椅子に座り直して、顎を背もたれにつけて口を開く。
「それ、漫画賞の選考通ると思う?」
僕は、しばし考え込んだ。
案外、深刻な悩み事だ。
「正直に言わせてもらえば、絵は綺麗だから賞は取らせてもらえるかもしれない。けど、難しいと思う」
「理由は?」
「迫力がない」
忍の漫画には、少年漫画に必要不可欠な迫力がなかった。コマ割り、構図、台詞。そんな様々なものから迫力が欠けているのだ。
「……君なら正直に答えてくれると思ってたよ。漫研の皆は褒めることしかしてくれないからね」
そう言って、忍はコーヒーを一気飲みして、コップをテーブルに置いた。
「構図の勉強し直しだなあ」
「キャラクター同士の掛け合いは魅力的だから、日常系漫画を描くっていうのもありなんじゃないかな?」
「ん? 日常系?」
忍が戸惑ったような表情になる。
「これから日常系全盛期が来る。四コマ漫画とかのね。それに乗れば、良いセン行くんじゃないかな」
「日常系ねえ……。君、煙草気にする人?」
僕は、首を横に振る。
忍はポケットから煙草を取り出すと、火をつけた。
僕は正直、驚いていた。どこかおっとりした雰囲気の忍が、煙草を吸っていたとは。
「荒川弘に憧れて漫画家目指したんだぁ……」
「鋼の錬金術師?」
確か、鋼の錬金術師は既にアニメ化されていたはずだ。原作のストック不足からくるオリジナル展開で作られたストーリーだった気がする。ガンガン出身作品の中でも際抜けて大ブームを巻き起こした作品だ。
「いんや、ストレイ・ドッグ」
聞かない名前だ。
「荒川弘のデビュー作だよ」
「デビュー作は鋼の錬金術師じゃ?」
「その前に紙面に乗った作品があるんだ。賞を取った作品として紹介されたんじゃないかな。完成度、高かったから」
「どんな作品だい」
「その世界では犬と呼ばれる人の形をした存在と人間が差別されて生きている。みたいな話さ。私は従兄弟の家でそれを見て本当に熱を出してね。アマチュアだった人でもこんな作品を書ける人がいるんだって。贔屓目に見ても、ガンガン連載陣の誰よりも上手く見えた。それからだ。熱心に絵を描き始めたのは」
「立派なもんだと思うよ。漫画一作品完成させるだけでも素人にはとんでもない作業量だ。君はある程度の完成形に至ったんだよ」
「けど、迫力は足りない」
揶揄するように、忍は言う。
「はっきり言い過ぎたかな?」
「いや、自分でわかってんのさ。センスないって。君の日常を描いた作品のほうが、よほどひたひたと忍び寄るような雰囲気があった。私より絵下手な癖にね」
「何年かしたら失うらしいよ。そのひたひたと来る感覚」
何せ、絵を磨いた結果の僕の未来はpixivの底辺絵師なのだから。
「悪かったね、晩御飯おごるよ」
そう言うと、彼女は漫画をテーブルにしまって、バックを背に担いで立ち上がった。
僕は、その後に続く。
女性と二人で行動することにも抵抗を覚えなくなりつつあった。
(慣れって恐ろしいなあ……)
そんなことを思う。
「ねえ、京都に来て随分経つよね。君の一番好きな場所って、何処なのかな?」
脳裏に、朧気に浮かぶ光景があった。
夜の闇の中で、川に流れる灯籠。一つに繋がれた手。
「嵯峨嵐山の川かな」
「紅葉が綺麗なんだっけ。けど、紅葉のシーズンじゃないなあ。君は嵯峨嵐山住みだっけ?」
「いや、西院」
「んー、地理関係把握してないからよくわからないけれど、近かったっけ?」
「遠いよ」
「ふうん。じゃあなんで嵯峨嵐山が好きなんだい?」
「……大事な人と昔行ったんだ」
由美子との初デートの場所だった。祭りの時以外は静かで、いつも川の畔で誰かが休んでいる。そんな場所だ。
「ふうん……」
忍はそれ以上、聞かなかった。
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「嵯峨嵐山行こうよ」
忍から、そんな提案を受けたのは、それから一週間もした頃だった。その間、僕はレポートの山で睡眠不足だったが、断る理由もなかった。
久々の嵯峨嵐山。浮き立つような気持ちがあった。
しかし、何故だろう。その場所に近づけば近づくほど、抵抗感が胸に湧くのは。
駅前で、二人で待ち合わせする。外国から来た観光客が、数人地図を開いていた。
古ぼけた本屋とおもちゃ屋。広がる背の低い住宅街。見慣れた光景。
そんな町並みを、二人で歩く。
「君のオススメは?」
「美味いコロッケ屋がある」
「他には?」
「和紙細工の店がいくつかあってお土産にぴったし、だった気がする」
「へえ、それは楽しみだ」
そう言って、忍は上機嫌で歩いていく。
(あれ、これってデートじゃない?)
そんなことにはたと気がつく。
今までは、自意識過剰だった。けれども、今回のように示しあわせて外出するのはデートなのではあるまいか。
(まあ、だからどうしたって話だけど)
伊達に三十路過ぎ独身ではない。枯れているのだ。
途中、互いにコロッケを買った。
「良いね、これで昼食はお腹一杯だ」
食べながら、忍は歩いて行く。
「少食なんだな」
「女子は体型に気を使うんだよ。男の子にはわかんないかな」
「過剰に気を使いすぎてる面もあると思うけれどな。それに、それなら眼鏡やめれば良いのに」
忍は、赤いフレームの分厚い眼鏡をかけている。
「これは私のトレードマークなのだよ」
「ふうん……」
興味がなかった。
「そうあからさまに興味が無いって態度取られると傷つくなあ。私ってそんなに魅力ないかな?」
そういう方向に話が行くとは思わなかったので、僕は慌てた。
「いや、十分、魅力あると思うよ」
「オタクだけど?」
「オタク需要がある。趣味の一致は大事だ」
「ふうん。結婚できるかな」
「今度確認取ってくる」
「なんだそりゃ」
そう言って、忍は苦笑する。
「そろそろ、川かなあ」
「そろそろ、だな……」
あと、曲がり角を二つ抜けた先だ。
そう思った途端に、僕の足は止まった。
「どうしたの?」
「……いや、ちょっと進む気なくした。他の場所、行かないか?」
「変だよ。目的地は決まってたのに。私も見たいよ、君の言ってた川」
「行きたい気分じゃないんだ」
違和感が、吐き気のように胸を覆っていた。これは違う。そんな言葉が、今にも口から出てきそうだった。
あの場所は、由美子と行くべき場所なのだ。
忍と行くべき場所ではない。
「……わからないよ。君がどうしてそこまでこだわるか」
そう言って、忍は僕の鼻に指を当てる。
「昔は昔、今は今。例え、過去にどんな素敵な人がいたからと言って、それは過去のことなんだよ?」
「理屈は、わかる。わかるんだ……。けれども、彼女は、僕を変えてくれた人だから」
「私じゃ……」
忍は、何かを言いかけてやめた。
「ううん。なんか萎えちゃった。なんか、美味しいものでも食べて帰ろう」
そう言って、忍は別方向へと歩き始める。
僕の中の吐き気も、それと同時に解消された。
「体型に気を使うんじゃなかったっけ」
「君のお陰で精神的な負荷がかかった。食べて解消するに限る」
「なら、わらび餅でも食うか」
「乗った!」
二人して、歩いて行く。
「どうしてそんなに俺を気にかけてくれるの?」
わらび餅を食べながら、そんなことを忍に問う。
「作品が尖ってたから」
「そんな尖った作品だったかなあ」
「尖ってたよー。虐待を受けて保護された少女が、新しい家族と微妙な距離感の中で悩んでいく。エターなったのが難点だけどね」
「三十ページじゃまとまらないかんなあ……」
「ねえ」
そう言った忍の声は、やや硬質だった。
「なんで、被虐待児を題材にしたの?」
「ん?」
「興味本位? 都合が良かったから?」
「……なんか、責められてるみたいだ」
僕は苦笑する。確かに、僕のようなただの学生が虐待をテーマにするのは配慮が足りなかったかもしれない。
「それとも、自分自身の話だから?」
強い風がふいた。わらび餅にかかったきな粉が、少しだけ椅子に飛び散る。
僕は返事ができずに、わらび餅を一口食べた。
「私、被虐待児なんだ」
忍は微笑んで、そう言った。
長袖をまくり上げて、腕を見せる。右腕の内側に、傷跡があった。
「これは、母親につけられた傷」
「……学費は?」
「奨学金とバイト代。だから、漫画を描ける時間も少ない」
「……悪いことしちまったな」
「何が?」
忍が袖を戻して、問う。
「だって、そんな貴重な時間をかけた作品に、迫力がないとかどうとか」
「事実だから仕方がないよ」
しばしの、沈黙が流れた。
忍は、わらび餅を完食した。僕は、既に食べ終えている。
「君なら、私のこと、わかってくれるかもしれないと思った。暗い時の君は、影を背負っているように見えたから」
そう言った忍の背中から、彼女の感情は読み取れない。
僕はしばし躊躇った後、口を開いた。
「崩壊した家庭だったんだ」
忍は、感情の読めない静かな表情で振り向いた。
「父親はエリートの音楽家。僕にも同じ道を進むことを望んだ。それで、吹奏楽部に入らされて、男友達とは距離が出来た」
「うん」
「高校に入ると父の浮気が発覚した。母親は浮気相手からの嫌がらせで精神病院に入院した。俺はストレスで太って、学校ではいじめられてた。相談できる相手もいなかった」
「うん」
「人の顔を見るのが怖くなった。人の中にいるのが怖くなった。土台無理な話だったんだ。俺が、大学に行くだなんて」
「漫画のあらすじとは違うね?」
「赤裸々に自分の人生を話にする奴がいると思うか?」
ああ、例外がいた。島本和彦という漫画家が自分の大学時代をテーマにした漫画を描いていたのだった。しかし、そこまで赤裸々には僕はなれない。
「そっか。だから君は講義に出たり出なかったりしてんだ」
「そういうこと。今でも人混みは苦手なんだ。送迎バスの混みっぷりだけで嫌になる」
「向いてないねえ」
「ああ。向いてない」
それに立ち向かおうという勇気をくれる人がいた。由美子だ。
「秘密だぞ。こんな話したの、今の世界では忍が初めてなんだから」
「私が初めて、かぁ」
忍の手が、僕の手に触れた。
「売れっ子漫画家になって養ってあげるよ」
僕は動転していた。柔らかな温もりが、そこにはあった。
「私と貴方は、痛みを共有できると思うんだ。それって、運命だと思わない?」
それは、少し居心地が悪いけれど、心が安らぐような、そんな温もりだった。
そこで僕は、目眩に襲われた。いつもの、未来へと戻る前兆。しまった、レポートの件、少しもメモに残していない。そう思いながらも、僕は意識を手放した。
目覚めは、孤独とともにあった。
ペトロニウスも傍にいない。手にあった確かな温もりもない。
「その世界で得た温もり。それを、お前は現実に帰る度に失うのだ……か」
温もりは常に、過去にある。
なんとなく、忍の現状を知りたくて、ラインの会話を遡ってみる。どうせ、誰かと結婚しているのだろう。僕らはもう、そういう歳だ。
そして、あり得ない一文を見つけて、サンダルをはいて家を飛び出した。鍵を占めるのも忘れていた。
コンビニに駆け込んで、まだ売れ残っていた雑誌を取り、作者達のコメント欄のページを読む。
忍の名前が、そこにはあった。彼女は、萌えをふんだんに取り入れた日常系漫画家としてデビュー、確固たる地位を固めていたのだ。
「痛みを共有できる……だって……?」
震える声で言って、僕は雑誌を廊下に叩きつけた。
「お前のような成功者と共有するものなんぞあるかぁ!」
結局、その雑誌は買い取りさせられた。
普通、そういう成功譚は僕に充てがわれるものなのではないか。僕は神を呪った。
今日は五幕までアップロードします。
ストックなくせば続き書くやろの精神です。




